えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「もし胎児が人ならば中絶は公衆衛生上の危機である」 Blackshaw and Rodger (2021)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/bioe.12874

  • Bruce Blackshaw and Daniel Rodger, 2021, If Fetuses are Persons, Abortion is a Public Health Crisis, Bioethics, 35 (5): 465-472.

 中絶をめぐる生命倫理学の議論の中で、ジュディス・トムソン(Judith Thomson)の「中絶の擁護」(A Defense of Abortion, 1971)は、胎児が人であると仮定してもなお中絶を擁護できるという議論を展開した点で画期的でした。これに対して以下で要約する本論文は、公衆衛生(Public health)というトムソンが想定していなかった新たな視点を導入することで、「胎児が人であるか否か」はやはり中絶をめぐる議論の中で重要だと論じています。

   ◇  ◇  ◇

 伝統的に、生命倫理学は個人の自律や権利を重視してきた。しかし、個人ではなく人口単位での健康の保護・促進が問題となる公衆衛生倫理では、生命倫理的な原則を単純に適用することは難しいと考えられている。実際、公衆衛生倫理分野では何らかの形態の功利主義が支持されることが多く、人口レベルの健康が十分に向上するのであれば、個人の権利を拒否(override)することも正当だと論じられる。同じ結論は、他者危害原則からも導かれる。公衆衛生の文脈では、危害とは人口レベルの健康の低減、すなわち疾病率と死亡率の上昇だと考えることができる。したがって他者危害原則によって、人口レベルの健康の低減を回避するために、個人の権利を拒否することが正当化される。

 個人の権利を無効化するために公衆衛生への配慮が持ち出されるというのは、現行の新型コロナウイルスの流行を見てみればよくわかる。多くの国で厳しいロックダウンが行われ、個人の自由権が厳しく制限されたが、それは多くの命を救うということで正当化されてきた。また規模は違うが同種の実例として、公共の場での喫煙の禁止やシートベルト着用義務化などをあげることもできる。


 ところで、中絶反対派は、自身の見解の根拠を「胎児は人である」という主張におくことが多い。この主張が仮に正しかった場合、公衆衛生倫理に重要な含意をもつ。ここで仮定される胎児の人格性は、国家によって承認される必要があるとしよう。この時、公衆衛生の観点からは、子供や成人と同様に胎児の健康にも関心を持つべきだということになる。現在、中絶は世界中で年間約5000万件行われており、つまり年間約5000万人の胎児が死んでいる。新型コロナウイルス流行の想定死者数が4000万人だったことを踏まえると、中絶は新型コロナウイルスよりもさらに重大な公衆衛生上の危機だとみなさなければならない。この場合、胎児を保護するために、個人の権利を拒否して抜本的な対策をとることが正当化される。そして、中絶の数を大規模に、しかも一気に減らすため有効な唯一の対策は、中絶の禁止であるーーこのように、胎児は人であると前提すると、個人の権利を拒否して中絶を禁止することは正当化されると考えられる。

 以上の議論には反論が考えられるが、どれもうまくいっていない。

(1) まず、中絶禁止は実際の中絶件数を減らさないとよく言われるが、近年のデータによればこれは誤りである。
(2) 中絶禁止により闇中絶が横行し母体に被害が出るかもしれないが、中絶で死亡する胎児の膨大さと比較すると、やはり中絶禁止は正当化できる。
(3) 胎児は道徳的行為者性と自由意志を備えた「カント的」人格ではない一方で、母親は確かにカント的人格なので、単なる手段として扱ってはならない。すなわち、中絶を禁止することで胎児の容器扱いしてはならない、という反論もある。しかしこうした考えかたは、同時に乳幼児、子供、重度の認知障害者などを単なる手段として扱うことを正当化してしまう問題がある。
(4) 中絶禁止によって、親に望まれない子供が大量に生まれることが問題とされるかもしれない。しかし公衆衛生倫理の観点からは、第一の目標はまず人命を救うことであって、その後の結果については後から対処すべきである。実際、新型コロナウイルスの場合でも、仮に命をとりとめても長期的ケアが必要である人に対しても、まずは人命救助を優先して治療を行うことが求められる。命を救った後何が起こるかわからないという理由で人命救助を控えることはできない。

 以上の議論の矛先は、トムソンのヴァイオリニスト事例の向けられている。トムソンはこの事例によって、仮に胎児が人であったとしても、多くの場合母親の犠牲が大きすぎるので、中絶は正当化されると論じた。しかし胎児が人であるのならば、トムソンの議論の説得力は弱まる。というのはここまで論じてきたように、もし胎児が人であるなら、公衆衛生倫理の観点から言って、〔母親の権利を拒否して〕中絶を行うことが正当化されるからだ。

 公衆衛生を重視する社会で中絶が合法でありうるのは、胎児の道徳的地位が子供や大人よりも著しく低いと考える場合に限られる。

 なお、もし胎児が人であるなら、流産は中絶よりもさらに大きな公衆衛生上の危機だと考える必要がある。Toddy Ordによると妊娠の約60%は流産になり、年間では2億以上の胎児が死んでいることになるからだ(Ord 2008)。したがってこれに対しても抜本的な対策が必要だが、中絶とは異なり、流産はどうすれば防げるのかが明確ではない。また、流産の場合には胎児に対して故意に危害を加えている人は存在しないため、他者危害原則を適用するのが難しくなる。