えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ゾンビになりたくないという反応から現象的意識の価値を導く論法 Shepherd (2018)

  • Joshua Shepherd (2018), Consciousness and Moral Status, New York, NY: Routledge.
    • 5. What it is like and beyond ←いまここ

 人は、自分が現象的意識を失う(哲学的ゾンビ化する)かそのままでいるかを選択しなければいけない場合、他の条件が全て等しくても、後者を選好するだろう。Siewart (1998) はこの思考実験から、現象的意識にはそれ自体としての(非派生的な)価値があると主張した。ただしSiewartは、現象的意識の一体何にそうした価値があるのかという、さらなる特定化を行なっていない。これによりSiewartの議論は、少なくとも3つの反論に晒される。

  • 反論1: 機能によって説明されてしまうのでは

 機能的側面がすべて保存されていることを十分踏まえれば、本当に現象的意識にそれ自体としての価値があるのかは疑問である。例えばLevy (2014)は、各種の経験を例にとりながら、一見現象的意識に付与されているように見える重要性も、実際は機能に由来するのではないかと疑問を呈している。この疑念に応えるには、現象的意識の何に価値があるのかを積極的に説明する必要がある。

  • 反論2: ゾンビに依拠することの問題

 ゾンビは思考不可能だとする哲学者がおり、その場合この思考実験を元に現象的意識の価値を説明することはできない。しかし思考不可能性の問題は棚上げできる。なぜなら、著者が展開する現象的意識の価値の説明はゾンビに依拠しないからだ。仮に完全に機能から切り離された現象的意識が思考不可能だとしても、私たちがゾンビ化に怯えるという事実は、私たちが現象的意識の何かを高度に価値づけていることを示唆する。それが何なのかをより完全に説明すればよいのだ。

  • 反論3: 経験の価値の差を説明できない

Siewartの見解の一つの解釈は、「現象的意識の価値は「どのような性」(what-it-is-like-ness)にのみ由来する」というものだ。しかし、この主張は明らかに偽である。なぜなら、様々な経験には正の価値を持つものも負の価値を持つものもあるからだ。こうした差を説明する自然な考え方は、最も確定可能な現象的性質である「どのような性」に加え、より確定的なその他の現象的性質が、さらなる価値の源泉になっている、というものだろう。

 以上を踏まえ以下では、現象的意識に価値を与えるより確定的な性質を突き止めていく。