- Walter Sinnott-Armstrong (ed.), Finding Consciousness: The Neuroscience, Ethics, and Law of Severe Brain Damage. Oxford University Press
- 8. Will Davies & Neil Levy, Persistent Vegetative State, Akinetic Mutism and Consciousness. (pp. 122–136)
意識の科学の方法論的前提
近年、遷延性植物状態(PVS)と診断された患者に意識があることを示すとされる研究が盛んに行われてる。重要な研究であるOwen et al. (2006) は、PVS患者にテニスをするところや自分の家を歩き回ることをイメージするように指示し、引き続く脳活動が健常な対照例の脳活動と類似していることを見出した。この研究をもとにMonti et al. (2010)は、PVS患者はイメージするものを変えることでyes/no式の質問に答えられることを示した。
こうした研究からPVS患者に意識があるという結論に至る推論は、次の2つの前提を用いている。
- 【命令遵守】:命令遵守は意図的な行為者性のマーカーである
- 【行為者性】:意図的な行為者性は意識のマーカーである
すなわちここでは、命令遵守(command following)を意識のマーカーとする基準が採用されている。この基準は確かに通常の被験者に対しては便利なものだが、重度の脳損傷患者への適用には問題があると以下で論じる。
命令遵守と無動無言(Akinetic Mutism)
上記の研究に登場するような反応性のPVS患者たちは、無動無言(AM)患者と多くの類似点を持つという指摘がある(Klein 2015)。AM状態とは、覚醒はしているが、長期的に著しく反応性を欠く状態のことだ。具体的には、自発的な運動・言語活動がなく、痛み、乾き、上に対して無関心で、感情は平板であり、抑鬱的ではないが無気力状態にある。
AM患者は内因的に意図を形成することができず、従って内因的な行為者性を欠くが、しかし教示に従い質問に答えることができる。さらに、適切な促しがあれば、問題を読み回答するといった複雑な活動を行うこともできる。こうした反応を、「刺激喚起型認知(stimulus-evoked cognition)」と呼び、内因的な意図や行為から区別しよう。AM患者は確かに命令に基づいた行為をするが、それは刺激喚起型認知によるものであり、内因的な意図に媒介されていない。従って、AM患者では【命令遵守】は成立していないと言える。
また、PVS患者とAM患者における脳の損傷部位はかなり重複している。特に両事例ともに前補足運動野(SMA)を損傷しているが、この部位は意志的で内因的な行為と関連すると考えられている。
こうした行動上および神経上の類似を踏まえると、実験者の要求に対して反応性のPVS患者が示す反応は、AM患者とそれと類似(さらには同一)なのではないかと考えることが理にかなっている。この場合、反応性のPVS患者は刺激喚起型認知を示しているに過ぎず、内因性の意図を示しているわけではないことになる。そうであるならば、ここでも【命令遵守】は成立していない。
次のような反論が考えられる。刺激に喚起される形とはいえ、PVS患者は意図的反応(内的な動機状態によって開始・誘導される反応)ができるのだから、行為者性があると言えるのではないか、と。しかし、単に意図的反応ができることは行為者性を持つには十分ではない。行為者性とは単に反応できる能力ではなく、刺激から比較的独立に行為できる能力であって、反応の柔軟性を必要とする。つまり、単に意図を形成することでは十分でなく、内発的に意図を形成することが必要なのだ。PVS患者もMA患者もこの意味での行為者性を示さない。
もちろん、「行為者性」をより軽い意味で使うことはできる。しかしその場合、そこから意識への推論は説得的ではなくなる。実際、外因的で固定的な意図的反応を行為者性の発揮だとみなすとしても、行為者性の発揮がその程度のものでしかないのであれば、意識のほうもよくて刺激依存の一時的なものにすぎないだろう。つまり、PVS患者は刺激喚起型の意図的反応を示しているまさにその時に限って意識的だ、以上のことは言えないと思われる。これに対して、内因的で柔軟な反応を要求するより強い意味での行為者性があるならば、持続的な意識状態が存在することのより強力な証拠になるだろう。
意識帰属への別ルート?
Colin Kleinは、AM患者における【命令遵守】成立に懐疑的でありながらも、しかしAM患者にはやはりある意味で意識があると論じている。もしそうであれば、PVS患者にも意識があることになるだろう。そこで、このKleinの議論を検討しよう。
Kleinは、AM患者は焦点意識(注意を伴う)を持たないが辺縁意識(注意を伴わない)を持つと主張する。しかしこの点は目下あまり重要ではなく、より注目すべきなのは意識帰属の根拠である。意識帰属にあたってKleinが依拠する根拠は、[1] AM患者の自己報告と、[2] AMから回復した患者の事後報告、の二種類だ。しかし、このどちらにも問題がある。
- [1] AM患者の自己報告
こうした自己報告はさらに2つの事例に分けられる。第一の事例は、問題の患者が軽度のAMで、ある程度は自発的活動ができる場合。この事例には2つの懸念点がある。まず、そもそも軽度AM患者には内因的な行為者性が残っているのだから、その人への意識帰属はその内因的行為者性に基づけばよく、患者の自己報告が意識帰属に果たす重要な役割は存在していない。第二にPVSとの関連でいうと、PVS患者が類似しているのは極度のAM患者であるため、軽度AM患者の自己報告がPVS患者に関する議論にどう関連するか不明である。
第二の事例は、問題の患者が極度のAMである場合。この場合、自己報告は刺激によって喚起されることになる。しかしここで思い出すべきなのは、Kleinは刺激喚起型認知が意識帰属の根拠にならないと認めている点だ(=AM患者における【命令遵守】の成立に懐疑的である)。そうである以上、刺激喚起型の意識報告もやはり意識帰属の根拠にならないと結論すべきである。
- [2] AM回復患者の事後報告
極度のAMから回復した患者たちは、自身の状態を「心が空白だった」、「何も考えてなくて、何も欲しくなかった」、「将来の見通しがなく、自分の考えが何もなかった」などと記述している。これらの記述はかなり興味深いが、AM時に意識があったことの明白な証拠とは言い難い。まず、極度のAMが非常に奇妙な状態であることを考えると、回復患者の証言の質や正確性には一般的な懸念が残る。次に、これらの記述が常に不在や無能力の語彙でなされていることに注目しよう。こうした記述はむしろ、意識がなかったことを言い表そうとしているものだとも考えられる。
ここで、次の点が指摘されるかもしれない。AM患者は刺激喚起型認知が可能である以上、情報に対して一定の感受性を持っている。そこで、回復患者が回顧を行うときには、AM時に認知システムが利用した情報内容にアクセスしているのであって〔、その事後報告は信頼できる、〕と。しかし、通常の主体であれば意識するような情報内容を思い出すということは、意識〔経験それ自体〕を思い出すということではない。
道徳的地位の問題
最後に次の点を検討したい。仮に、Kleinが正しく極度のAM患者には「辺縁意識」があり、従ってPVS患者も同様に辺縁意識を持つとしよう。このときこうした患者は、通常の主体と等しい道徳的地位を持つだろうか。持たない、と考えられる。ある主体の道徳的地位を裏付けするのは、現象的意識を持つ能力ではなく、洗練された認知能力である。ある程度洗練された認識能力を持たない存在は、自分の生に関心を持つことがそもそもできないからだ。そうした認知能力に利用可能な情報を備えている状態を「情報意識」と呼ぼう。この情報意識と、AM患者・PVS患者が持つとされる「辺縁意識」はどう関係するだろうか。
一つの解釈によれば、辺縁意識とは主体によって注意されていない状態である。これは現象的意識の一部だと考えることができる。しかしすでに指摘したように、現象的意識だけを持つ存在は関心をもつことができない。別の解釈では、辺縁意識とは背景的な気分のようなもので、認知システムに利用可能な情報を持つ。しかしこの場合でも、認知能力に提供できる情報があまりにも薄すぎるため、辺縁意識を持つ主体が関心を持つとは言い難い。
ただし、話はより複雑である。例えば、患者が痛みや快の辺縁意識を持つ場合には、そうした状態を考慮すべき道徳的義務が発生するかもしれない。また別の論点として、無反応な患者に指令を与えることで、その意識状態を、注意されておらず内容不確定な状態(辺縁意識)から、より注意され内容豊かな状態(焦点意識)へ移行させることができるかもしれない。これによって痛みや快の焦点意識が生じるならば、それを考慮する道徳的義務の存在はより明らかだろう。
ただし、意識の道徳的重要性の根拠はその現象的側面ではなく、むしろ意識が心的生活全体のなかで果たす役割にあると考えることもできる(Levy 2009)。この場合、AM・PVS患者が痛み/快を感じるとしても、それは患者にとって悪い/良いものではない、ということになるだろう。