えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

価値の促進/尊重区別と帰結主義 Pettit (1991)

  • Philip Pettit, 1991, Consequentialism, in Peter Singer (ed.), A Companion to Ethics, Oxford: Blackwell, 230-240.
定義

 道徳理論には少なくとも2つの要素がある

  • (1) 善の理論(価値の理論):何が良いのか、価値があるのかに関する理論
  • (2) 権利の理論:価値あるものにどのように応対すればいいかに関する理論

 権利の理論には帰結主義(or 目的論)的なものと非帰結主義(or 非目的論)。この区別は、通例のやりかたではないが、行為者と価値の関係によって説明することができる。行為者の価値に対する応対の仕方として、「促進する」(promote)ことと「尊重する」(honor)ことが区別できる。すべての価値に対してその「促進」が適切な応対だと考える見解が、帰結主義である。帰結主義者がある価値を尊重することもあるが、それはその価値を促進するための手段に過ぎない。他方で、少なくとも何らかの価値は(促進されるか否かによらず)「尊重」する必要があると考えるのが、非帰結主義である。

 促進と尊重の区別についてさらに明確にしよう。一般に、帰結主義者が擁護する主張に次の2つがある。

  • [命題1] ある選択肢の経過の価値は、その中で実現される価値によって決まる
  • [命題2] ある選択肢の価値は、その経過の価値によって決まる

 
 この2つを踏まえると次のように言える。ある行為者が自分の選択において特定の価値を促進するのは、その行為者が様々な選択肢の経過をその価値の観点からランク付けし([命題1])、選択肢をその経過の観点からランク付けする(そして、選択する)([命題2])、まさにその場合である。[命題2]について、ある選択肢がどのような経過をたどるかには不確実性があるため、選択肢はさまざまな経過のあいだのギャンブルだと見なされ、意思決定理論的手続きで価値が決定されるのが普通である(例えば、50%の確率で100人を救うが50%の確率で1人の命も救わない選択肢Aと、100%の確率で40人を救う選択肢Bだと、それぞれの選択で救える人命の期待値は50対40のため、選択肢Aの方が支持される)。この観点から言い直せば、帰結主義者にとっての価値に対する適切な応答とは、その価値の点で最良のギャンブルであるような選択肢を選ぶ、ということだ。

 他方の非帰結主義には、[命題1]と[命題2]をどのように拒否するかに応じて2つのタイプがある。これは、「一定の価値は尊重されなければならない」とはどういうことなのかに関する2つの異なる理解に対応する。

  • [命題1]を拒否する場合:

 ある経過の価値が、それがどれだけ多くの尊重を含むかによって決まるなどということはない。尊重を促進するというのはナンセンスである。

  • [命題1]は受け入れるが[命題2]を拒否する場合:

 尊重を促進するという考えはナンセンスではないが、何が最善の選択肢かはその経過の価値によっては必ずしも決まらない。

 なお非帰結主義者は、=ある価値を尊重する選択肢が何なのか行為者は常にわかっているという前提を置いている。しかしこの仮定は全ての性質には当てはまらない。例えば幸福を尊重することが、自分が直接関わる人々の幸福に(その間接的な影響によらず)配慮することだとしても、実際の場面で具体的にどの選択肢がそうした尊重に相当するのかは必ずしも明確ではない。

議論

 帰結主義は、状況によってとんでもない行為を最善としてしまうと批判されがちである。しかし、帰結主義がそのような結論に至るのは本当にとんでもない状況においてだけの話であり、そしてそうした状況では非帰結主義者でもとんでもない行為を汚せざるを得なくなるものだ。

 そこでこの批判は次のような形に弱められる。すなわち帰結主義は、あらゆることを計算に入れる熟慮の習慣を行為者に与える。しかしそれは、人の権利や、身近な人々の特別な要求、許容可能・義務・義務を超えた美徳の違いなどを認識することを不可能にしてしまう、好ましくない変化である。この批判はしかし正当ではない。なぜなら帰結主義は、行為者のなすべき熟慮の仕方にかんする主張ではなくて、選択肢の正当化にかんする主張だからだ。実際、帰結主義者が支持する価値を達成する最善の方法は、一つ一つの行動ごとに計算を行うことではない場合は多い。このことは、人が帰結主義を採用することになんの実践的意義もないということではない。そうではなく、帰結主義的計算は、個々の行動に間接的に影響を与える性格や原理を選択する際に、帰結主義的な計算が重要になるのだ。
 
 しかしこの時、結局、どの原理に従うかについてもその場その場で計算して決めるほうがベストだということになってしまわないのだろうか。これは最前線の問いであり、いくつかの応答が提案されている。第一に、行為者は誤りやすいので、いちいち方針をモニタリングして計算していると結局善より害の方が大きくなる、と論じることができる。第二に、行為者の性格のようなものはそもそもモニタリングしてコントロールできるようなものではない、と論じることができる。第三に、多くの価値について、それを促進するためにはある程度盲目的な習慣に身を委ねる必要がある、と論じることができる。

 このように、帰結主義はかえって行為者が計算しないことを動機づける場合がある。この点を認めるタイプの帰結主義は、「間接的」「戦略的」「制限的」などと形容される。この制限的帰結主義を、規則帰結主義と混同してはいけない。規則帰結主義は、行為の正当化について規則に訴えるものだが、制限的功利主義はこのようには考えず、行為の正当化についてはあくまで行為帰結主義的だからだ。

 他方、帰結主義を支持する議論のその単純性にある。帰結主義は、(a)価値に対する適切な対応として「促進」のみを持つが、非帰結主義は加えて「尊重」を持つだけでなく、(b)なぜ一定の性質が尊重に値するのかに説明を与えない。(c)さらに帰結主義は、個人の善を追求するさいの合理性の要求と連続的である。単純性への訴えでは十分ではない場合、非帰結主義側の見解を検討し、[命題1]も[命題2]も否定できないと論じることが、帰結主義をさらに動機づける。

 またさらに、人がなぜ誤って非帰結主義的な思考を持ってしまうのかまで説明できれば理想的である。この説明に役立つであろ2つの観察がある。第一に上でも見たように、価値の促進についていちいち熟慮することが逆効果になる場合があることから、そうした事例で選択肢を正当化するのは価値の尊重だと考えられてしまうのだろう。第二に多くの非帰結主義的立場は、帰結主義の正当化力を認めた上でそれを何らかの形で弱めるところから生まれている。この場合、帰結主義が見逃していると非帰結主義側が考える要素について、本当は見落としていないのだと論じることで、帰結主義を強化することができる。