えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

理由における欲求の位置 Heuer [2004]

http://philpapers.org/rec/HEURFA

  • Heuer, Ulrike [2004] Reasons For Actions and Desire (Philosophical Studies 121 (1):43–63)

アブスト

<全ての実践的理由は人の特定の欲求に基づいている>というのは、合理性に関する多くの理論の共通前提である。実践的理由に対するアプローチの中でこの前提を受け入れるものを、私は「ヒューム的アプローチ」と呼ぶ。
 批判は多くあるものの、ヒューム的アプローチは多くの支持者を持っており、かれらはこのアプローチが実践的理由に関する自然で避けがたい見解だと考えている。わたしはこのアプローチの誤りを暴くと同時に魅力を説明するために、ヒューム的見解に反対する議論を提出していく。〔そのために〕私は、ヒューム的アプローチに賛同するひとつの議論だけに焦点を当てたいと思う。この議論は、多くのヒューム的説明の背景となるアイデアだと解釈できると私は思う。すなわち、ここでとりあげのは<動機からの論証>である。
 わたしはまず、動機からの論証を提示し、何故それが非常に魅力的なのかを説明する。しかし、次に私は、理由に対して欲求をベースとしたアプローチをとると理由がもつ正当化の役割をうまく包摂できないことを示し、欲求ベースのアプローチに対し同じ位魅力ある反論を展開する。この反論は、動機からの論証の前提のすくなくとも一つが偽でなくてはならないと示唆している事が示される。そして最後に、<欲求のみが行為を説明できる>と主張する前提が拒絶されるべきだと論じる。この帰結は、実践的理由に関する欲求ベースの見解にとっては致命的である。実践的理由は欲求ではなく価値をベースにしていなくてはならないというのが私の結論である。

1. 動機からの論証

  • (1)【同一テーゼ】 

 (正当化理由という意味での)実践的理由は、その理由のために振る舞われた行為を説明することが出来なくてはならない。

  • (2)【ヒュームのテーゼ】

 行為は、それに動機的に関連した態度、すなわち欲求によってのみ説明されうる。

  • (3)【実践的理由に関するヒューム的見解】

全ての実践的理由は欲求に基づいていなくてはならない

(1)について

 正当化理由と説明理由は分かれうる。たとえば(i)説明理由が誤りに基づいていた場合や(ii)アクラシアの場合には、行為者が行為した理由はその行為を正当化するのに十分ではない。従って、同一テーゼは二種類の理由が分離しないという強い意味ではなく、<正当化理由はそれに従って行為が行われた場合その行為を説明する>という弱い主張でとられるべきである。この主張は、<我々は何かが正しい/正当化されているがゆえにそれを行う>という日常的な仮定の表明以外の何物でもなく、きわめて尤もらしい。

(2)について

 生理学・神経科学的に行為を説明することもできるのでこのテーゼは言い過ぎだと思われるかもしれない。しかし、行為を単なる出来事ではなく<行為として>説明するのは、その行為が行為者の欲求を充足させると指摘することだとヒューム主義者は言うだろう。この主張もとりあえず尤もらしい(4章で詳しく検討)。

論証は妥当か

 実践的理由が欲求に「基づく」というのはあいまいである。実践的理由は欲求なのであると言ってはダメなのか? 
 →欲求はそれを充足する最善の方法に関する熟慮のスタート地点であり、この熟慮が理由を生み出すので、理由を欲求のみに制限するのはあまりに狭すぎる見方である。結論の曖昧さは擁護され得、論証は妥当だと考えられる。

理由としての欲求

・欲求とは何か
→最もポピュラー機能的状態への分析:もし人がpへの欲求をもつなら、彼は(ある特定の状況の下で)pを引き起こす(だろう)ような方法で行為を行う傾向性を持つ。
・そのような欲求を理由と見なすとはどういう事か
→欲求は、その欲求を充足するのに適した行為を行う事の理由となる:pへの欲求は、pを引き起こす行為を行う事の理由である。

2 ヒューム的説明への反論

アンスコム的反論(*Intention* p. 37 ff)

 ヒューム的説明の下では、<人が何を欲求できるかに>関して何の制限もない。欲求が正当化と説明を行いうる理由であるのだとすれば、これは怪しい。
 「泥が一杯欲しい」と言い、泥が手に入るように行為する人物を考えよ。しかしよく調べてみてもこの人物は、<何故泥を欲しがったのか>あるいは<なぜ泥を手に入れることが自分にとって良いことなのか>を説明することが出来ないとせよ。つまりこの人物は、自分の欲求を説明したり正当化したりできない。この時、この欲求は、行為者の行った泥を手に入れるための行為を説明・正当化するだろうか? アンスコムはどちらもしないと述べる。
 さらにアンスコムは、この行為は知解不可能であるだけでなく、行為者に対して泥への欲求を帰属させることもできないと考える。人に欲求を帰属できるのは、その人が何故問題のものが自分にとって欲求するに値する(Desireble:望ましい)と思われるのかを説明するようなことを言えるときに限る(例えば「これで泥の投げ合いが出来るし、それは楽しいだろうからね!)。アンスコムはこのような「望ましさの特徴づけ」が欲求帰属の必要条件だと考える。

欲求と価値判断

 しかし「泥を人に投げるのは楽しいだろう」と言うのと「泥が欲しい」と言うのでどんな違いがあるのか? →少なくとも3点で違う
(1)前者に関して人は誤りうる(この判断は真偽を持つ)。
(2)「これは楽しいだろう」は「これは欲求を満たす」と意味論的に等値でない。何故なら、欲求充足は快楽的状態と必然的に結びついている訳ではないから
(3)行為が楽しみ/快であろうということは、その行為に直接的に賛同する。何かに快を見いだすと言う事は、それが望まれているがゆえに良いことなのではない。(快は欲求充足とは全く独立)
・ある行為を望ましいものとして描くような判断を「価値判断」と呼ぶ。価値判断は(i)行為者が行為に賛同するのに値するものだとみなすものを表出する、(ii)真や偽をとりうる(iii)「x ought to φ」のような規範判断の理由である、の3点を仮定する。
・信念p形成には私がpを真であるとみなしていなければならない。アンスコムの主張はこれと同様に、欲求p形成には私がpを望ましいもの/良いものとみなしていなければならないとする

キンQuinn的反論

 しかしこのように、価値判断が欲求にとって構成的である(ので、上の例では行為者に欲求が帰属できず行為は説明不可能)とまでは言えないのではないか(あらゆる側面で悪いとみなされている欲求は可能ではないのか)。→改善案としてQuinnを主張を見る。
 自分の手の届く範囲にあるラジオをつける傾向性を持つが、それは別に何かを聞くために行っているのではないような人物を考えよ。機能主義的分析によれば、この人物には「自分の範囲内ラジオをつけたい」という欲求が帰属される。また、人は自分の欲求を満たすに適した行為を行う理由を持つと考えられるなら、この人物にはラジオをつける理由があることになる。しかしキンは、このような奇妙な機能的状態がラジオを付けることの理由を与えるとはとても理解できないと主張する。
 つまり、キンによれば、ヒューム的説明に賛同して

・傾向性だけで欲求帰属には十分であり、欲求形成には何の制限もない

しかし、反対して

・行為が欲求充足を導くという単なる事実だけでは行為を正当化することはできない

 このことは行為者が「なぜその行為が自分にとって望ましいのか」を説明できない場合あきらか。この時行為者は「自分が正当化されている」と主張することはとてもできない。つまり欲求充足それ自体は、行為を説明はするが、何の正当化も与えられない。

帰結

 キンのラジオの事例は、論理的な意味での欲求充足は正当化の力を持ったく持たない〔ので欲求は正当化理由ではありえない〕ことを示す。つまり「動機からの論証」の結論とぶつかる。

3 反論と議論

・上述の反論が正しければ「動機からの論証」の前提のどちらかが誤りである。
前提(2)「ヒュームのテーゼ」は「行為の説明には欲求が必要だ」であり、キンの反論は「欲求は行為を正当化しない」なので、ここに直接衝突はない。しかし、(1)「同一テーゼ」が、「理由によって行為する」というアイデアを有意味なものにするのにあまりに重要であることを考えると、やはり(2)が否定されるべきではないか? 実際、価値判断が欲求を説明できるなら、なぜそれがさらに行為を説明できないのか。やはり次節では(2)を否定していく。

4 行為の説明

欲求は行為を説明しない

 キンの例に戻ると、ここで欲求は行為を説明するが正当化はしないとされていた。このことはヒューム的な説明に有利に見える。しかし、本当にここで欲求は行為を説明しているのだろうか? 欲求は機能的状態、つまり傾向性として理解された。傾向性に訴えた説明は、行為者の行動のパターンの説明にはなると思われるかもしれないが、しかし<個別の行為遂行>の説明にはならない。さらに、実は行動パターンの説明にさえならない。傾向性に訴えた説明は、他の形式の説明にはない情報を持つ筈である(「この事例の特徴に訴えた説明をしてもだめで、別のものを見なくてはならない」)が、今回のような機能的性質としての欲求は、「そのような行動パターンがある」としか言わないので、何の情報ももたらさないからである。
→つまりこの例のような欲求は説明をおこなわない
→しかしこの結論は欲求に関しておかしな見方をしているのが悪いのでは?

欲求=感じられる質ではどうか

 この見解なら、〔個別の〕せき立てられる感じによって個別の行為を説明することができる。しかし多くの困難がある
(1)感覚と機能的状態の関係は?
(2)こうした感じは全ての行為の必要条件なのか? (習慣的行為や特に情動的でない行為)
(3)こうした感じは欲求の必要条件なのか?
(4)欲求の感覚は常に同じ感覚ではないのではないのか? それら同じ見出しの下にをまとめていいのか? 

欲求=2階の性質ではどうか

 機能的性質とは「一階の性質の間の因果/法則的な関係と言う観点から定義される二階の性質」(Kim)だと考えられるので、欲求を裸の傾向性だと考える必要はない。しかしここにも困難がある。
(1)神経状態と行為の間に「因果/法則的」関係があるというのは、まだ約束手形以上の何物でもない
(2)仮にこのような欲求による行為の説明が与えられたとしても、それはヒューム的説明に有利ではない。というのは……

〔敗北的省略〕

結論

 同一テーゼを保持しヒュームのテーゼを破棄すべきである。