えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

独自な態度としての情動 Deonna and Teroni (2014)

Emotion and Value

Emotion and Value

 情動と価値には密接な結びつきがあるように思えるが、その結びつきは精確にはどういうものなのか。多くの哲学者は、情動を何か既存の心的「態度」の一種だと見なし、その「内容」が価値的であるとして、情動と価値の関係を説明してきた。

 たとえば、情動とは一種の判断もしくは信念だとする説がある。だがこう考えると、情動は概念的内容をもたなければならなくなり、子どもや動物が情動を持てなくなるとともに、情動は信念や判断と同じ規範性に服さないことを説明できなくなる。また、情動が現象学を持つという点もうまく説明できない。

 他方、情動とは一種の知覚だとする説の場合、知覚は非概念的内容をとりまた現象学を持つので、今あげた問題はうまく解決できる。だが、知覚と情動にはやはり顕著な違いがある。まず、知覚の対象は具体物に限られるが、情動は抽象物を対象にできるし、記憶上の出来事や想像上の出来事も対象にできる。さらに、知覚の場合、知覚に先立って知覚対象にアクセスできている必要はないが、情動にはその必要がある。つまり、情動はその「認知的基盤」としてはたらく何らかの心的状態(知覚、信念、記憶……)に依存しているのである。

 こうした失敗を踏まえると、価値は内容というかたちで情動にかかわるという前提を外してはどうか。筆者らは、情動を既存の態度の類似で捉えるのをやめて、むしろ各情動がそれぞれが異なる独自の「態度」なのだと考えるアプローチを示唆する。このような考え方は、異なる情動が全く同じ対象をもちうるという常識的な考えとも整合する。また筆者らによれば、情動を持つさい私たちは、「特定の対象もしくは出来事に対して特定の仕方で行為するよう自分の身体の準備ができているという経験」を持つ。このようにして、情動の現象学は全体的な身体感覚として理解される。

 だが情動は結局どういう風に価値と関係しているのか。態度というのは、その種類に応じて、内容が持っていなければならない特定の性質がある。信念の場合、命題は真でなければならないし、想定の場合には可能でなければならない。情動の場合には、その対象は恐ろしいものであったり、攻撃的なものであったりなど、価値的性質を実際に持っていなければならない。これが、情動と価値の関係なのだ。