えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

オースティン『センスとセンシビリア』からの抜き書き Austin (1962)[1984]

  • John Langshaw Austin (1962). Sense and Sensibilia, edited by G. J. Warnock. London: Oxford University Press. 丹治・守屋訳『知覚の言語: センスとセンシビリア』, 勁草書房, 1988.


〔lookやappearではなくseemを使用した〕文が、暗に何等かの証拠ーーもちろん、彼が有罪であるか否かについての証拠であるが、その問いを決定的に判定し得るほどではないものーーとの関連で使われることは、かなり明白であろうーー「今まで聞いた限りの証拠によれば、彼は確かに有罪に思われる。」(60頁)

見え方とかみえ方は、判断の根拠となる事実を提供するが、ものがどのように思われるかを述べることは、既に判断の表明なのだ、ということではないだろうか。(68頁)


〔夢は実際の経験と判別不可能なわけではない。〕われわれは実際、「夢のようであるという性質」< a dream-like quality >という語法を持っており、ある種の覚醒時の経験は、この夢のようであるという性質を持つ、と言われるし、またある種の芸術家や作家は、時に自分の作品にこの性質をーー通常あまり成功しないがーー添えようと試みる。(78頁)

また水の中の棒を取りあげるなら、棒の一部が水面下にある、ということ、そして水はもちろん見えないものではない、ということが、この事例の特徴である。それでは、水は「知覚」の一部なのであろうか。これを否定するどんな根拠を考えることも難しい。しかし、もし、水がこの知覚の一部であるならば、この点で全く明らかに、「この知覚」は、水の中にない曲がった棒を眺める場合に得られる「知覚」と異なるし、区別可能である。(83-84頁)


「本当の」ということばの機能は、何ものかの特徴づけに肯定的に寄与することにあるのではなく、本当でない可能なあり方を排除することにあるーーそして、こうしたあり方は、ここの特定の種類ものもについても多数あり、また、種類を異にするものに応じて極めて異なる場合が多いのである。(107頁)

なぜ、純粋のクリームであることは本当のクリームであることの一つのあり方ではないと思われるのに、ふさわしい彫刻刀であることは本当の彫刻刀であることの一つのあり方なのであろうか。(108頁)

「なるほど、これは本当の彫刻刀だ!」は、これはよい彫刻刀だということを言う一つの言い方であり得る。また例えば、悪い詩について時として、それは本当は全然詩ではない、と言われる。いわば認定されるためにも、一定の水準に達していなければならないのである。(109頁)


私は望遠鏡をのぞいており、あなたが「何をあなたは見ているのですか?」と問うものとしよう。私は(1)「明るい点」、(2)「恒星」、(3)「シリウス」、(4)「望遠鏡の十四番目の反射鏡の中の像」、と答えるかもしれない。こうした答えは全て全く正しいかもしれない。ではこの場合、「見る」に異なった意味、四つの異なった意味があるのだろうか。もちろん否である。望遠鏡の中の十四番目の反射鏡の中の像は、明るい点なのであり、この明るい点は恒星なのであり、そしてこの恒星はシリウスなのである。私は全く正しく、そして少しの多義性もなしに、これらのいずれをも見ていると言うことができる。私が見ているものを語るのに、どの仕方を実際に選ぶかは、その場の特定の状況に依存するーー例えば、あなたはどの種の答えに関心があると、私が思っているか、ということや、私にどれだけ知識があるか、ということや、あるいは私がどこまで誤りの危険性を冒すか、といったことに依存する(それはまた、単に一つの次元の上で、どこまで誤りの危険を冒すか、という問題ではない。私の見ているものは遊星であって、恒星ではないのかもしれず、あるいは、ベテルギウスであって、シリウスではないかもしれないーーしかしながらまた、この望遠鏡には12枚の反射鏡しかないのかもしれない。(144頁)