えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

英国の生理学的心理学、ベインからモーズレイまで Hearnshaw (1964)

  • Leslie Spencer Hearnshaw (1964). A Short History of British Psychology, 1840-1940. New York: NY. Barnes & Noble.
    • 第1章 ベインとのその背景 ←いまここ
    • 第2章 1875年までの生理学的心理学と異常心理学 ←いまここ
    • 第5章 神経学と神経生理学の発展

第1章 ベインとのその背景

1. ベインの背景

 アレクサンダー・ベイン(Alexander Bain: 1818-1903)が、「最初の心理学者」・「近代的に書かれた最初の心理学教科書の著者」と呼ばれるのはゆえなきことではない。ベインの著作は、それ以前の著作と比べて3つの大きな特徴を持っていた。

 まず、ベインの著作では経験的な心の科学が神学(Thomas Brown)や論理学(James Mill)から明確に切りはなされている。これは、18世紀末から19世紀にかけて”Psychology”という語がコールリッジらの影響で英語に定着してきたこととも関係している。第二に、ベインはかなり精確な生理学を利用することができた。Bellの『新考』(1811)、Quainの『解剖学』(1828)やMüllerのハンドブックの英訳(1842)など、19世紀中盤は脳と神経にかんする科学が発展した時期だった。第三に、Hamilton、Whately、Whewell、Herschell、Millらによる科学的知識の分析の影響を受け、ベインは科学的方法についてよく理解していた。もちろん、ベインの心理学は伝統的な連合心理学やスコットランド学派、カント、ミル、ベンサム、そしてコールリッジらの先行者に多くを負っているが、以上のような点でやはりイギリスの心理学の新たな章を開いたと言える。

2. アレクサンダー・ベイン(1818-1903)

 心理学者として見たとき、ベインは18世紀〜19世紀初頭の精神哲学と20世紀の科学的心理学の移行期の人物だと言える。その心理学はよく「連合主義」と言われるが、これは正確ではない。知性のもっとも根本的な性質は、連合ではなく弁別(discrimination)だとされており、〔連合される要素ではなく〕無分別の連続体の存在が示唆されている。また、経験によらない原始的・生得的な観念の複合も認められている。また、ベインは内観主義者でもない。ベインは自身の方法を「自然史的方法」とし、内観だけでなく他人の観察も重要視したからだ。さらに、実験や数量化の重要性を認めてもいた。ただしベインは自分自身で実験・数量化を行うことはなく、ウェーバーの法則に言及することもなかった。また、比較心理、異常心理、個別事例の検討といった要素もない。こうした点で、科学的心理学への移行はやはり完全ではなかったと言える。

 英国心理学史におけるベインの主要な功績は、健全な生理学に基づいた生理学的心理学をはじめて体系的に展開したところに求められるだろう。『感覚と知性』は脳と神経系に関する長い章を含み、『情動と意志』では情動の物質的な基盤が強調されている。ただし、ドイツ生理学に十分通じていなかったベインの生理学的知識は古いものであり、その歴史的重要性は、研究の具体的な細部ではなく、生理学の重要性を絶えず強調したことそれ自体にあると言える。実際ベインは、感情と感覚のみならず思考にも物的基盤を認め、心理学とは生理学に他ならないかのような言い方さえしている。さらに、ベインのもうひとつの重要性は、有機体を単に反応的なものと見るのではなく、それ自体で活動的なものとみなした点にある。「運動は感覚に先立つ。まず初めにあり、外からの刺激とは独立している」。功利主義式の快と苦痛による説明だけでは、すべての動機を説明することはできないとベインは考えていたのだ。

 ベインの著作は、本人は十分展開しなかったアイデアの宝庫だと言える。試行錯誤、モル的/分子的の区別、社会的影響、人間の内なる悪意、内的葛藤、教育・産業・軍事・スポーツなどへの心理学応用、能力や性格の個人差とその評価、等々。さらに、英国の心理学へのもう一つの貢献として、英国で初めての哲学と通常心理学の研究雑誌である*Mind*の創刊があげられる(1876)。専門分野としての心理学の創立を、英国はベインに負っている。

 心理学のさらに新しい動きの中で、英国ではベインは世紀転換期には忘れ去られていった、その真の後継者はむしろThondikeとアメリカの学習理論家であり、今日の学習理論の礎石の一つはベインだといっても嘘にはならない。

第2章 1875年までの生理学的心理学と異常心理学

1. メスメリズムと骨相学

 1850年、アメリカから「電気生物学」が伝わり、またライヘンバッハの『磁力研究』が翻訳されたことで、英国は「メスメリズム狂乱」の状態に陥った。さらに、1852年にはフォックス姉妹に由来する現代的心霊主義の影響も英国に入ってきた。これらの現象は、少し前から英国に持ち込まれていた催眠と関連づけられていった。さらに催眠現象は骨相学とも結びついた。骨相学は20-30年代に流行したが40年代には時代遅れとなっており、催眠と結びつくことでかろうじて延命したと言える。こうした喧騒の中で、より科学的な新しい生理学的心理学を冷静に推進したのが、カーペンターの一派だった。

2. W. B. カーペンター(1813-1885)と生理学的心理学

カーペンターは生理学と動物学をおさめ、その著書『一般および比較生理学』(1838)と『人間生理学原論』(1842)は当時の生理学的知識を総合したものになっている。後者は4版(1852)で書き換えられて生理学的心理学を大きく含むようになり、その部分はさらに拡充されて『精神生理学原論』(1874)になった。カーペンターを中心に生理学的心理学を重視したグループとして、Benjamin Brodie (1783-1862)、Henry Holland (1788-1873)、T. Laycock (1812-1876)、R. Dunn (1799-1877)、D. Noble (1810-1885) を挙げることができる。また、カーペンターの友人であるJ. D. Morell (1816-1891) もこのグループに近い。

 カーペンター一派の確信は、形而上学ではなく医学と生物学こそが心理学の基礎であるということだ。心理学のデータを与えるものは、内観ではなく人間の詳細な観察である。精神と身体の相互影響を重視する点で唯物論的ではなかったが、精神の機能は生理学的条件に密接に依存している。骨相学的な局在論は退けられ、代わりにレベルの理論が採用される。すなわち、「興奮-運動」反射が生じる脊髄のレベル。「感覚-運動」反射が生じる感覚神経節ないし感覚中枢(視床付近に位置)のレベル。そして、知性的、意志的な運動の起源である大脳レベル。ただし、大脳の活動もやはり反射であり、これをカーペンターは「観念-運動」反射と呼ぶ。意識の座は大脳ではなく感覚中枢に置かれる。大脳内部での明確な局在は認められないが、『精神生理学』補論ではFerrierの最新研究を受け入れる旨が示唆されている。

 カーペンターは大脳の無意識的な機能の存在を擁護し、そのおかげでこの考えは英国で広く受け入れられるようになった。ただしこのアイデアについてはLaycockとの先取権争いが発生し、カーペンターは最終的には譲っている。ともあれ、無意識の理論は、様々な異常な精神現象を心理学の範囲内で扱うことを可能にした。カーペンターも、異常心理の領域は心理学的探求の最も有望な領域だと考え、催眠、睡眠、夢、心霊主義、中毒、せん妄、狂気などを検討している。とはいえ、カーペンター一派は人間の行動が究極的には無意識にコントロールされているとまでは主張していない。意志は、厳密には何かの起源であるわけではないが、注意をコントロールすることによって効果器のメカニズムに間接的に働きかけることができるからだ。ただし、ここで言う意志とは超越論的な力ではなく、習慣と経験によって徐々に形成されるもの、のちのヴュルツブルク学派の言う「決定傾向」に相当するものであり、カーペンターの意志の理論に神秘的なところは全くない。

 カーペンターとその一派は今日では言及されることは少ないが、Jamesに大きな影響を与えたり、また今日の教科書は知らずしらずのうちにカーペンター由来の逸話や図表を使っていることも多く、今日の英米の心理学の重要な基礎になっている。

3. ヘンリー・モーズレイ(1835-1918)と精神の病理学

 カーペンターの一派は精神病理学の重要性を認識していたが、実地での精神疾患の臨床経験は乏しかった。他方で、アサイラムの医師はたちは独自のグループを形成し始めていた。心理学と病理学の連合の試みとして、1848年にはForbes Winslow(1810-74)が*Journal of Psychological Medicine*を創刊した。ただしこの雑誌は哲学的色彩が強く、1841年よりAssociation of Medical Officers of Asylums and Hospitals(1865よりMedico-Psychological Association)に集っていた医師たちは、55年には哲学色を削いだ*Asylum Journal of Mental Science*(1858年より*Journal of Mental Science*)を創刊した。このような心理学的医学の発展の背景には、1845年の月狂条例に結実する英国での狂人治療の変革があった。

 この時期の精神疾患に関する基本的な文献は、ピネルやエスキロールの深い影響下にあったJ. C. Prichard (1786-1848)の*Treatise on Insanity*(1835)だ。この著作は非常に科学的な態度で書かれ、狂気をひきおこす身体的条件が強調されている。この傾向はJ. C. Bucknill(1817-97)とD. H. Tuke(1827-1895)の*Manual of Psychological Medicine*(1858)でさらに強まり、同時に精神的要因や心理療法も取り上げられているが、しかし背景となる心理学理論は存在していなかった。

 英国で通常心理学と異常心理学を初めて真剣に統合しようとしたのは、Henry Maudsley(1835-1918)とその主著*Psysiology and Pathology of Mind*(1867)である。モーズレイの心理学は、形而上学的なものや主観的なものを完全に退けている。その鍵となる概念は「組織化」である。精神とは白紙や鏡ではない。精神とは、発展に適したものを吸収しそうでないものを退けるという、複雑で多様な組織化の働きが、有機的に統一されたものだ。組織化された精神がどのように、またどのくらい退化するかに応じて、狂気の様々な形態が現れるのであって、狂気の各形態が互いに異なるモノなわけではない。想像力を例にしてみよう。想像力は、一つの実体ではなく、様々な想像に対する一般的な名である。その例は夢想や信仰といった日常的なものから、幻覚など病理的なものにまで、徐々に移行していく。しかし狂気的な例は、物的、有機的な変化に由来しているとされる。

 また、モーズレイは精神疾患の原因として性的な要因や遺伝的要因にも注目しており、子供の狂気におおきな関心を持っていた。アサイラムの改革にも熱心で、なるべく早期に、個別的な治療が必要だと主張した。この主張は、弟子のFrederick Mottの計画に出資する形で、ロンドンのMaudslay Hostpitalとして結実することになる。

4. 少年非行

 急速な都市の工業化とともに、少年非行の問題が発生し、英国の心理学者の多くはこの問題に直面することになった。W. B. カーペンターの姉であるMary Carpenter(1807-77)もその一人だ。その*Reformatory Schools*(1851)や*Juvenille Deliquency*(1853)では、児童に対する矯正は感情ではなく科学に基づいて行われるべきだと強調されている。効果の薄い集団的な罰や、反感をもたらしたり子供の品位を貶める罰は行われるべきではない。矯正は個別的に行われ、その原理は愛であるべきだ。児童のケアにとって母性的な愛が重要だといういう点は、弟の著作でも強調されていた。すでに50年代に見られていたこうした洞察に心理学が追いつくには、実際のところさらに2世代の時間を要することになる。