えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

世紀末オーストリアの心理学 Boring (1950)

A History of Experimental Psychology.

A History of Experimental Psychology.

  • Boring, E. (1950). A History of Experimental Psychology, 2nd ed.. Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall.

 心理学史の古典から世紀末オーストリアの作用心理学にかんする部分を翻訳しました。
 前半では「形態質」の概念を中心に、マッハ、エーレンフェルス、マイノング、コルネリウス、シューマンの見解が紹介されています。
 後半では、キュルペとメッサーを中心に、作用心理学と内容心理学を統合しようとした試みが紹介されます。

   ◇   ◇   ◇

 既に見てきたように、世紀末ドイツ心理学の理論的な焦点は、作用と内容であった。前者はブレンターノ、後者はヴントによって代表される。前章では、内容の心理学と実験心理学がいかにして結びついたかを見てきた。歴史的事実の問題として、内容は実験に適したものであり続けた一方、作用の方はそうではなかった。この差は、内容と作用の本性から来るものだと考えたくなるかもしれない。だが、歴史上の結びつきを、必然的で因果的なものだったと即断しないようにしよう。実際問題としては、作用というのは内容より古い概念であり、従って、哲学の方に結びついていた。そして哲学は、心を扱うさいには非実験的なものであった。他方で内容というのは新たな分析的経験主義から生じてきたものであって、新心理学の中で実験家の手にゆだねられることになったのである。しかし作用心理学は、内容の心理学とは独立性を保つかたちで展開し、行動や合目的行為にかんする現代の力動心理学につながったと見ることができるかもしれない。そうだとすれば、心理学史のなかには内観的実験の時代が長くあって、観察者は自分の意識の一片に対してあれこれの感覚、イメージ、感じ[feeling]といったラベルをはるやりかたを長い時間かけて学んでいた、ということはないのかもしれない。

 さて、作用学派はオーストリア学派と呼ばれることもある。地理的区分に基づいて学説を区別するのはたいていの場合あまり精確なものではないが、少なくとも世紀末に話を限れば_、作用の故郷がオーストリアおよび隣接する南ドイツにあるというのは確かである。
 オーストリア学派は、主に空間知覚の問題と、そこに関連する美学などの問題を扱う中で、理論化と論証を超えてより実験心理学に適した舞台にでてきた。このような問題の選択は驚くにはあたらない。知覚の問題こそ、心理学の根本問題の中でもただちに実験的ないし準実験的な証明にゆだねられたものだったのだ。内容学派は感覚生理学と連合を組み、まず感覚の探究に乗り出し、そこからあらゆる問題を実験的方法であつかおうとしはじめた。対して作用心理学は、生理学的あるいは実験的なものでありたいとはっきり考えていたわけではなかったし、連合主義から分析という遺産を受け継がなかったので、知覚の実験をしてそこでおしまいになってしまった。

 世紀末のオーストリア心理学と実験心理学がもっともはっきりと出会ったところに、形態質(Gestaltqualitäten)の学説がある。この学説は、要素的感覚の合成物として知覚をとらえる見解、すなわち当時の内容学派の立場を、批判しつつ継承するものであった。形態質学派からは、理論的には現代のゲシュタルト心理学が生まれ、また知覚にかんする実験的な業績も生まれた。形態質学説についてはすぐ後で検討することにしよう。もう一つ別の出会いの場として、ミュンヘン大にいたリップスを挙げることができる。彼は非常に広範な興味関心をもっており、「新」心理学にも影響を与えると共に、空間知覚や美学にも影響を与えた。またこれも後で見るが、グラーツ大にいたベヌッシも重要で、彼も知覚にかんする研究をおこなったり、内容と作用の二部からなる心理学を展開したりした(これについては、前章でキュルペを扱ったときに少し触れた)。

 さて、オーストリア学派というのが何を意味しているのかを知るには、人と大学の両方を見てみる必要がある。人物として重要なのは、ブレンターノ、リップス、マイノング、エーレンフェルス、コルネリウス、ウィタゼク、そしてベヌッシである。シュトゥンプも、ブレンターノの弟子であり理論的には作用の方に傾いていたとしてこのリストのなかに挙げられることがある。キュルペとメッサーも、晩年の理論的見解から考えると周縁にいると言っていいだろう。またマッハも、『感覚の分析』のなかで「時間感覚」について述べており、形態質に一枚噛んでいることになる。オーストリアの大学で心理学上重要だったのは、ウィーン、グラーツ、プラハの各大学である(とはいえ、オーストリアの大学というのはこの三校にインスブルック大とクラコウ〔クラクフ〕大を足した5つしかないのだが)。ここに加えて、ドイツ南バイエルンのミュンヘン大を挙げることができる。また同じくバイエルンには、ブレンターノ、シュトゥンプ、キュルペに関連する大学としてヴュルツブルク大があるが、ともあれ地理的位置と哲学的見解との関連をあまり強調しすぎないようにしよう。これらの人物と大学のつながりは、簡単に述べるとつぎのようなものだ。

 マッハははじめプラハ大におり、1886年には心理学に最も影響力を持った著作である『感覚の分析』を書き上げていたが、1894年にウィーン大にやってきた。これはブレンターノがウィーン大を去ったすぐ後のことで、ブレンターノは1874年から1894年まで同大に勤めていたのだった。ブレンターノがウィーン大にやってきた時からの生徒にマイノングがいた。マイノングはウィーン大で私講師となり、1882年にはグラーツ大に異動、1894年にはオーストリア初の心理学実験室を設立し、1920年の死まで当地にとどまった。マイノングがグラーツに移ったころにブレンターノの生徒になったのが、エーレンフェルスである。彼はグラーツ大で私講師になり、ウィーン大でも私講師をつとめ、結局プラハ大で教授職を得た。ウィタゼクとベヌッシはより若い世代にあたり、ブレンターノではなくマイノングのもとで学んだ。ウィタゼクは1900年頃から1915年の死までグラーツ大にいた。ベヌッシはウィタゼクより少しあとにグラーツ大にやってきたが、後にイタリアに行き、1927年に死んだ。以上、ウィーン大、グラーツ大、プラハ大にいた、ブレンターノ、マイノング、エーレンフェルス、ウィタゼク、ベヌッシが、オーストリア学派の代表的人物である。だが彼らに近い位置にはリップスとコルネリウスもいた。リップスはシュトゥンプの後任として1894年にミュンヘン大にやってきて、1914年の死までそこにとどまった。コルネリウスはシュトゥンプの在任中からミュンヘン大におり、1910年まではリップスと同僚であったが、その後はフランクフルト大に異動した。

 このような人間関係の中から生まれてきた最も重要なものが、既に述べたように、形態質学説であった。ではこの説について見ていくことにしよう。

形態質

 内容の心理学の要素主義は、知覚の捉え方に曖昧さをうみだしていた。形式的、理論的に言えば、知覚とは感覚から成るものだと考えられている。知覚は合成物であり、その要素は感覚である。こうした知覚観は、融合や複雑化に関して非常に明快な見通しを与える。ある音はひとつの感覚である。だが、二つの音が同時に与えられる時、なにか新しいものが生まれる。これが融合した音の感覚である。網膜から得られた感覚に、両眼の調節と収束から得られる感覚を加えると、視覚-運動的な奥行き知覚がえられる。これが複雑化である。

 このような知覚にかんする化学的な見解を、のちにヴェルトハイマーは「アンド結合」 Und-Verbindung と呼んだ。つまり、要素は統合されることなく単に付け加わっていくだけだとされているのである。この見解はしばらくの間は十分なものに思えていたが、知覚に関する問題の多くは実際のところ空間知覚の問題であることが明らかになり、また空間知覚と同種の困難が時間知覚にもあることが明らかになるにつれ、満足のいくものではなくなっていった。空間と時間に悩まされたのは哲学者だけではなかった訳である。たとえば、キュルペは空間知覚と時間知覚のために特別に「結集」という知覚カテゴリーを用意した。ティチナーは、質と強さの点で調和した感覚的属性から空間知覚や時間知覚が派生してくると考えた。その他の心理学者も、空間知覚と時間知覚には特別な地位を与えた。

 空間知覚の何が難しいのか。話を簡単にするために、奥行きと距離を生み出しうる要素を無視し、二次元空間における空間的な形態を考えてみよう。これでも難しさはすぐに分かる。感覚はふつう、質の観点から要素に分けられる。たとえばあなたは、黒い点のとなりにある赤い点をみているとしよう。このときあなたは二つの感覚を同時にもっている、と言えるだろう。だがここで、黒い点のとなりにある別の黒い点をみているとしよう。このときあなたは、二つの同じ質の感覚をもっているのだろうか。〔知覚の要素は質の点でしか区別されないとすると、このようには言えなくなる。ここで二つの感覚をもっているとすれば言えることはせいぜい〕二つの黒い点が一つの感覚であり、白い背景がもう一つの感覚だ、ということになるが、これは正しい見方だとは思われない。二つの黒い点が異なる感覚だと言うのであれば、そこでは質で要素を分けているのではなく、空間的な隔たりによって分けているということは明らかである。だが、質と空間で要素を分けることにしても問題は解決しない。二つの黒い点を、黒い直線で繋げてみると、どうなるだろうか。あなたは二つの感覚の代わりに一つの感覚を得るのか、それとも、諸感覚のつらなりを得るのか。もし連なりを得ているのだとすると、そこには一体いくつの感覚が連なっているのか。また、ある要素の空間的限界はどのように決まっているのか。

 このジレンマは、結局要素主義では解けなかった。それどころか、このようなジレンマがあることは、現代のゲシュタルト心理学が指摘するまではっきりと気づかれてさえいなかったのである。何ごともないかのように知覚の研究はすすみ、その実験結果は一般には、感覚の合成物という観点からほぼ解釈できるとされていたのであった。

 ところで、既に見たようにエルンスト・マッハは1886年のプラハで『感覚の分析』を書き上げていた(p.395)。この影響力ある本の中で、マッハは経験を感覚と同一視しており、その上で感覚を物理学と心理学両方にとっての観察データだとした。このような同一視は、しかし明らかに、感覚という言葉を不注意に使っており、このためにマッハは、感覚に質だけでなく空間や時間における違いを認めることになんの抵抗感もおぼえなかったのである。マッハは、たとえば円のような「空間形態の感覚」や、メロディの中での異なる音程の音の継起のような「時間形態の感覚」について言及している。ここで彼が言っているのはもちろん、形態そのものは質とは独立した経験だということだ。円の色や大きさをかえてもそれが円であること(空間形態)は変わらないし、メロディを構成する各音を移調してもメロディ自体(時間形態)は変化しない。形態は独立に経験されるものなのである。ところで、経験とはマッハによれば感覚である。そこで、形態の感覚というものがあることになるのだ。

 このような素朴な理論を体系的に定式化するという課題は、クリスチアン・フォン・エーレンフェルス(1859-1932)に受け継がれた。エーレンフェルスはヴィーン大ではブレンターノと、グラーツ大ではマイノングと共におり、1890年には私講師としてヴィーン大に戻り、同年に出版した論文で形態質(Gestaltqualität)という概念を考案するに至った。そもそも彼が答えようとしていた問題は、空間及び時間における形態は新しい質なのか、それとも既存の質の組み合わせなのか、という問題であり、答えは前者だとエーレンフェルスは考えた。四角形は、四つの線からなっている。この四つの線は、四角形の知覚の基礎となっている感覚であるから、それぞれを「基礎」(Fundamente)と呼ぶことができる。あるいは、四つが一緒になって「基盤」(Grundlage)を構成している、とも言える。ところが、これら四つの要素的な基礎のうちどのひとつをとっても、そこに「四角性」は内在していない。四つの基礎が、基盤として寄せ集められてはじめて、四角性が現れる。そして、形態は明らかに直接的に経験されているので、これは新たな要素だと考えるしかない。それこそが形態質である。

 エーレンフェルスは理論をさらに展開する。形態質には、時間的なものと、非時間的なものがある。時間的形態質にあたるのは、音楽的なメロディ、「色彩のメロディ」、その他あらゆる感覚の時間的な変化(赤くなる、冷たくなる、など)である。非時間的形態質は、おおむね空間的な形態質のことだが、音の融合や音色、味(flavors)、運動の知覚もふくまれる。どちらの場合でも、形態質が存在していることは、独立的な変更可能性によって確かめることができる。すなわち、形態を変化させることなく基礎の質を変化させることができるなら、そこには基礎からは独立した形態質が存在しているのである。

 またエーレンフェルスは、基盤と形態質の関係は様々なレベルで生じうるとも述べる。つまり、低次の形態質を基礎とする高次の形態質があるということだ。高次の形態質を得るための方法には、比較と組み合わせがある。たとえば、あるメロディを別のメロディと比較したり、多声の楽曲の中で複数のメロディを組み合わせる、といった場合だ。このようにして理論はどんどん複雑になっていくが、ここでは詳細に踏み込む必要はないだろう。このような新たな考え方の射程はかなり広いということを確認できれば十分である。

 以上のようなエーレンフェルスの理論は、特定の知覚の論理的な分析によってなりたっているもので、従って経験的な基盤を持つとは言えるが、実験的な基盤は持っていない。こうしたやりかたは、作用心理学者お決まりのものであった。だが、形態質と心理的作用の関係に直接的な必然性があるわけではない。形態質そのものは、実際のところは新しい要素的内容なのだが、この概念をつくり出したのは作用学派だったという話なのだ。だが歴史的事実としては、オースリアという環境にいたエーレンフェルスは、形態質を作用に関連づけた。彼の考えでは、基盤から形態質をひっぱりだしてくるような、比較するないし組み合わせるという心的な活動が存在しているのである。たしかに、四つの点を見ている状態で、心の中に四角形をつくりだしてみるならば、そこには組み合わせるという経験があることに気づくだろう。こう考えれば、エーレンフェルスの考えもまことしやかに思えてくるのだ。

 ここで注意しておきたいのだが、エーレンフェルスは決して、形態質が基礎のあいだの関係から出てくるとは述べていない。たしかに、四つの線が互いに特定の関係のにたたなければ四角形は現れない。これは明らかである。ここからすると、形態質とはすなわち関係であり、だからこそ基礎とは独立に与えられるのだと結論づけたくなる。だがエーレンフェルスによると、形態質とは基礎に対してはっきりと二次的なものであって、基礎とは独立に変化しうるものではあるけれども、基礎と独立に与えられるものではない。この点で彼はおそらく間違っているのだが、それはおいておこう。

 またもうひとつ重要なこととして、エーレンフェルスの場合には時代精神が働いていなかったことを注記しておこう。エーレンフェルスは、ヴント的な要素主義はうまくいかないと見抜いていた。そうである以上、ヴェルトハイマーが20年後にやったように、そもそも分析という作業を完全に放棄してしまうという一歩を踏み出すことも、それほど不可能な話ではないはずだった_。だが実際には、彼は心理学を少し前進させたものの、あくまで過去とのつながりをかたく保ち続けた。結局、エーレンフェルスは現象学者ではなく、要素なしでどうやってやっていけるかわからなかったのだ。なので彼は第一次的な要素をみとめ、そこに新たに二次的な要素を加えるという路線をとった。全体の性質を、その全体を構成する部分に加わってくるもののように捉えたのだ。このような背景があったからこそ、後のゲシュタルト心理学は、全体の中では元々の要素は消えるのであり、全体が形成されるときに生まれる新しいものは決して単に付け加わるものではないと強調したのであった。

 エーレンフェルスの理論は、アレクシウス・マイノング(1853-1920)によってさらに展開させられた。マイノングはブレンターノの弟子であり、グラーツ学派の指導者となった人物である。彼の見解は、本質的には、エーレンフェルスのものとそう変わらないが、術語が新しくなっている。まず、「基礎づける内容」 (fundierende lnhalte)と「基礎づけられた内容」(fundierte Inhalte)が導入される。エーレンフェルスの言う「基礎」が「基礎づける内容」に、「形態質」が「基礎づけられた内容」にあたる。二種類の内容の関係は相対的であり階層的である。また、基礎づける内容は「下部」(inferiora)、基礎づけられた内容は「上部」(superius)とも呼ばれる。

 マイノングの見解では、基礎づける内容と基礎づけられた内容を一緒にしたものは「複合体」(complexion)を形成すると言える。複合体には、現実的なものと理念的なものがある。前者は知覚、後者は概念化にあたる。複合体は、基礎づけるという心的作用によって形成される。ただし、現実的複合体(知覚)が依存するのは第一には知覚された対象に内在する関係であるのに対し、理念的複合体(概念化)が第一に依存するのは基礎づけるという作用である。ここでは_、知覚の一次的な対象のあいだの関係が重要であるという認識がうかがえる。これはエーレンフェルスには欠けていた認識だ。そして、理念的複合体の場合には、作用の重要性がかなり高く見積もられているのもわかるだろう。

 こうした心の階層構造が相対的なものであることも、マイノングは認めている。つまり、高次の複合体というものがあり、そこでは低次の複合体が「下部」となってさらなる「上部」を基礎付けている、と考えたのだ。

 マイノングは、グラーツ大学にオーストリア初の実験室を開設した人物であったが(1894)、哲学者であり実験心理学者ではなかった。大きな能力と影響力を持った人物で、彼が形態質を採用したことは、この概念が心理学に定着するのをおおいに助けた。

 さて、ここまで読んでこられた読者は、知覚の心理学はもはや内容心理学者の手を離れてしまったかのように思われるかもしれない。なるほど形態質というのは新たな要素的内容かもしれないが、それを説明するのには基礎づけるという作用が必要なはずだ、と。だが、形態質をめぐる議論を、より伝統的な実験心理学者の立場のほうに引き戻してきた人物がいた。ミュンヘン大のハンス・コルネリウス(1863-[1947])である。ミュンヘン大はオーストリアとの国境のほんの向こうにある大学であり、このことは地理の話のみならず知的にもそうである。コルネリウスは、シュトゥンプがミュンヘン大にいた時から当地におり、リップスがブレスラウ大からやってきたころ私講師になった。彼もまた、哲学者であり心理学者ではなかったが、そのことは形態質にまつわる議論に参入するさいの障壁にはならなかった。

 コルネリウスは全体的にはマイノングを支持するが、二つの点で理論を変更すると言う。まず、形態質は基礎づけられた内容ではなく「基礎づけられた性質」であるとされる。第二に、そうした性質は、基礎づけるという作用によって基礎づけられているものというよりもむしろ、分析的注意によって解体させられるものである。つまり、経験は通常、巨大な未分析の全体において与えられるものであって、全体にふさわしい特徴を持っている。部分へ注意を向けることで_全体が破壊され、全体がもっている基礎づけられた性質も破壊されるのである。

 ここでマイノングとコルネリウスの間にはほとんど言葉上の違いしかないように見えるかもしれない。だが言葉が重要な時もあるのだ。内容学派は、新種の感覚的要素とか、基礎づける作用のような作用の存在を認めることはできないが、属性や注意に関連する心の能力を認めることはできる。だから標準的な要素主義が、合成物には合成物にしか属さない二次的な属性があると言ったり、説明原理として注意を理論に組み込むことには、何の問題もない。もちろんここでいう注意とは、ヴントが考えていたように作用として捉えられてはならない。とはいえ、注意というのが作用なのか内容なのか、常に曖昧にされてきたことは_確かで、後にゲシュタルト心理学はこの点で標準的な内容主義を批判することになる。

 さて、このような背景があったからこそ、ベルリン大でシュトゥンプの助手であったシューマンは、視覚的形態の実験的研究を行うさい、形態質という異教的概念なしでも大丈夫だと考えることができた。シューマンの研究では、非常に多くの数の視覚的形態や錯覚が生じる条件が検討・分析されているが、その過程で形態質という概念に訴える必要性はまったくなかった。全般的に言って、彼が現象を分析するさいに訴えるのは、刺激の客観的な条件か注意の効果なのである。彼が得た研究結果は思弁的なものではなく、実験的観察の解釈という性格を持っていた。結論としてシューマンは、形態の視知覚とは注意の法則の下でのグループ化であり、このグループ化は一方では客観的条件に、他方では観察者の注意の態度に依存しているとする。さらにおそらくここには、知覚的補完に関連するイメージとか、本人の好みといった、主観的な要素も影響を与えるだろう。多くの知覚のありかたは、「全体的印象」にむけられる注意のありかたによって決まる。そして、分析的注意が向けられることで、知覚のあり方は変化する。眼球運動も恐らく一役買っているだろうが、シューマンはヴントと比べてこれはあまり重視してなかったようだ。そうすると、結局のところ、知覚は合成物なのだが、それが合成物として統一性をもっているのは、注意がグループ化をおこなっているからであり、知覚にとって本質的でないものを部分から抽象しているからなのである。

 実はシューマン自身は注意のことを作用と呼んでいる。また、彼の発見のなかでオーストリア学派と不両立なものは存在しないことも確かだ。だがシューマンは、実験的方法を用い、より伝統的な語彙を採用し、思弁と純粋な議論を排し、作用の理論を打ち立てようとはしなかった。それゆえに彼の仕事は、コルネリウスの見解の実験的テスト以上のものではなかったのではあるが、形態質の学説を論破したものとして受け取られたのであった。

 形態質学派は1890年代、エーレンフェルスやマイノング、コルネリウスが活動していた時代のものであった。この学説がもっていた視点は、次の世代にはマイノングの弟子達のもとで受け継がれていく。シュテファン・ウィタゼク(1870-1915)とヴィットーリオ・ベヌッシ(1878-1927)である。全般的に言うと、ウィタゼクの貢献は理論的なもので、それは彼の執筆した心理学教科書と視覚的空間知覚のハンドブックのなかにみられる。彼の知覚心理学の中心には、生産するという心理的作用のはたらきがある。この作用から複合体が生まれるが、作用が実質的に自動化している場合には、複合体は単純なものになり(金属音や単純なメロディなど)、そうでない場合は複雑なものになる(多声の曲など)。後者の場合、複合体のあり方は、刺激となる対象における外的要因と、産出するという内的作用の両方によって規定される。他方ベヌッシは、事実オーストラリアが生んだもっとも生産的かつ有能な実験心理学者である。その研究は視覚と身体感覚にまつわるほぼあらゆる問題領域をカバーしており、研究は量・質ともに大きなものである。彼の研究のなかには知覚の理論もふくまれてはいるが、大部分を占めるのは、オーストリア学派の理論的枠組みのなかでおこなわれたシンプルな心理物理的研究である。

 さて、以上のような形態質をめぐる動きを引いた視点から見てみると、確かにその盛り上がりは世紀末のものであったが、しかしその力は後にも存続し続けていったことが分かる。作用心理学内部で生じたこの運動は、要素主義者の注意をもひきつけた。というのは、新たな要素を発見したと主張されたからだ。だが、その要素とされたものは結局受け入れられず、また新しく発見された現象には別の説明がつけられ、そしてオーストリア学派の興味も形態質からはなれていったことにより、結局運動そのものは失敗したと思われた。オーストリア学派の議論の焦点は、内容学派が言う合成的知覚とそう変わらないような複合体にうつっていった(もちろんそれは作用に依存したものではあったのだだが)。

 だが今日の目から見ると、形態質学説の根本にあるのは要素主義批判である。この批判は、元々の形では失敗してしまった。形態質学説は新しい要素を追加するというかたちに留まり、心理的分析に関する新しい見解を提出するにはいたらなかったからだ。だが、要素主義に対する同じ批判が、1912年ゲシュタルト心理学によって、改善された形で提起されることになる。したがって形態質(=ゲシュタルト質)運動とゲシュタルト心理学は、精神化学というもはや支持できない学説を修正するというネガティヴな動機を共有しており、またそうした反論の根拠として知覚を選ぶというポジティヴな要素も共有していたのである。ただし、両者の間には違いもある。形態質学説は新しい要素を発見することによってジレンマを解こうとしていたのに対し、ゲシュタルト心理学はそもそも要素なるものがあるという前提の妥当性を否定する方針をとった。ゲシュタルト心理学を形態質学説の改善形態とみるべきか、それとも全く新しい運動と見るべきか、この点は読者の皆さんの判断に任せたいと思う。ゲシュタルト心理学が思想上でも人物上でも形態質学説とは独立の新たな運動であったことは事実である。ただしそれも、時代精神のゆっくりとではあるがたしかな展開の中に、そもそも新しいものがあるといえるならの話だ。たしかにエーレンフェルスは前進し、ヴェルトハイマーはさらに進んだ。だがそれと同じ方向への歩みは、すでにJ・S・ミルとヴントによって踏み出されてもいたのである。「アンド結合」の「アンド性」がもっとも顕著に見られるのは、父ミルなのだ。

作用の心理学と内容の心理学

 作用と内容は、ヨーロッパにおいてジレンマの二つの角となっていた。経験主義者は、つねにじぶん自身の意識の本性に注意を払っており、精神の本性は活動〔作用〕であると考えるようになっていた。他方、実験主義者が内容を受け入れたのは、その概念を使うと実験ができるからであったが、一度内容を受け入れてしまうと、作用が心をかたちづくっているという見解の妥当性を内観では確信できなくなってしまった。経験主義者は、実験主義者が実験という方法にひきずられすぎていると非難し、対して実験主義者は、統制されていない経験的観察では真理を生み出すことはできない、だからこそ科学は実験を使うのだと返した。こうした差が出てきてしまったのは、作用というのは感覚直観不可能〔impalpable = unanschaulich〕だが内容は感覚直観可能であることによる。作用は直接観察をすりぬけてしまうが、後から振り回顧すれば [retrospection]、確かにそこにあったという確信を伴って意識にあらわれてくる。他方で、感覚的であることを本質とする内容は、内観の使用を支持するのである。だがこのことは、二つの見解の間でのどん詰まりが見え始めたころには認識されていなかった。以下では、どのようにして衝突の解消がはかられたのかを見てみよう。

 はじめに言っておかねばならないが、作用心理学においても実験的方法に向かおうという動きはあった。ブレンターノは新しい実験心理学に共感的であったし、マイノングは実験室を開いた。ウィタゼクの心理学は、リップス同様、実験心理学のデータをあつかう傾向にあった。ウィタゼクはあきらかにブレンターノとマイノングの学派に属していたが、心理学において作用のみならず内容もみとめていた。彼の実験の中でも空間知覚にかんするものは興味深い。というのも、実験結果が作用のことばに翻訳されているからだ。このような実験の傾向をさらに押し進めたのが、既に見たように、ベヌッシであった。彼もまたブレンターノとマイノングの学派に属していたが、第一義的には実験主義者であって、間接的に理論家であったにすぎなかった。ウィタゼクとベヌッシの仕事を見れば、知覚にかんするデータのほとんどは作用の観点から表現できるということがはっきり分かる。何が生じているか、という観点から通常の心理学実験を考察すればよいのだ。そうした心理学実験の中には、判断をデータとするものもある。内容の心理学者ならば、判断されたものの観察という形で判断を扱う。これに対し作用の心理学者は、判断の内容ではなくて、判断することを強調するのである。実際ヴントでさえ、ウェーバーの法則とは感覚とその感覚にかんする判断のあいだの関係についての法則だと考えており、刺激と感覚の関係に関する法則だとは考えていなかった。さて、しかしながら、今述べてきたような仕事があったにもかかわらず、オーストリア人の手で作用と内容という2つの相反する見解の統合がなされることはついになかったのだ。

 作用と内容をなんとか結合させようとしたもう一つの動きもあった。その主導者はキュルペであるが、最も典型的な例がメッサーである。この運動の背後にはフッサールの影響がある。キュルペとメッサーは、フッサールを非常に真剣に受け止めていた。彼らの新しい見解は、ともかく作用と内容の両方を心理学の中にとりいれて、そのままにしておく、それぞれが別個に取り扱われるものにしておく、というものであった。この見解を、二部立て心理学 bipartite psychology と呼べるかもしれない。というのも、感覚直観可能な内容と不可能な作用という全く異なる種類のものが、一つの体系的全体の中で取り扱われているからだ。ここでは、メッサーによるこのような統合について検討してみよう。彼は、作用と内容という二重の視点から一冊の完結した著作を書くことの出来た唯一の人物である。

 アウグスト・メッサー(1867-1937)は、心理学に関心のある哲学者であった。ギーセン大学で学生時代を過ごし、哲学者シラーの影響をうけた。学生時代が終わるといくつかのギムナジウムに数年間勤めたが、1899年にギーセン大学で哲学の私講師になる。1904年には同大学で特別教授、1910年には正教授になる。ギーセンでは1904年に第一回実験心理学大会がおこなわれており、そこではキュルペは「抽象の研究」を発表した(この講演については既に触れた(pp. 401f))。この際、キュルペの哲学と心理学にかんする見解にメッサーはつよい印象を受け、彼の指導のもとで研究を行うことに決める。その後メッサーは1905年の夏学期をヴュルツブルク大でキュルペとともに過ごし、その結果として出版されたのが、これも既に触れた『思考についての実験的・心理学的研究』(1906)である。これはヴュルツブルク学派の重要な研究の一つだ(p. 406)。メッサーの興味は心理学と同じくらい認識論にもあり、この点についてはキュルペも同様であった。メッサーはキュルペよりも5歳若かったにすぎず、彼らの間には知的な友情関係がむすばれた。1908年にメッサーは『感覚と思考』を公刊した。ヴュルツブルクでの仕事の成果である。この本でメッサーが試みたのは、心理学と認識論の境界にあるトピック、すなわち知覚、意味、注意、抽象、判断、思考などの問題について論じることを通じて、感覚主義に対する代替案を提示することであった。知覚における感覚的要素と思考的要素についてあつかった章を見てみると、彼が内容と作用を二分しはじめているのを確認できる。その後メッサーは、キュルペが1912年に出版した著作『現実化』第一巻に大きな感銘を受けた(なおこの本は三巻本だが、キュルペは自分では一巻しか完成させられなかった)。キュルペはこのころ、内容と作用という二重の視点をとりはじめており、このことは、死後出版の講義から伺える。これとおなじアプローチをメッサーは採用し、それを1914年の『心理学』(二版1920年)で明確にした。従って、この二重の視点に関して出版上の優先権はメッサーのものということになるが、元々の発想の源はキュルペである。ギーセンとヴュルツブルクは75マイルの距離があり、二人の間でどのくらいのやりとりがあったかは分かりかねるのだが、この点についてこれまで問題を提起した人もいないので、ここでは我々もとくに触れないでおこう。

 メッサーが成し遂げた作用と内容の結合は、たしかに、2つの不両立なものの単なる併置以上のものであった。メッサーによると、心理学は志向的な経験のみを扱う。この志向的経験が、広義の「作用」である。ただしこうした経験には、感覚直観不可能な活動(狭義の「作用」)と感覚直観可能な内容が含まれている。そうすると心理学は、この両方について考察しなければならない。その研究範囲は内容から作用を含むまでに拡張されなければならない。

 メッサーは志向的経験を三種類に区別する。知ること(対象の意識)、感じること(状態の意識)、意志すること(原因の意識)である。それぞれについて、内容の要素と、その内容に加わる作用の要素がある。

 知ることの内容は、感覚、イメージ、時間的内容、空間的内容、印象である。感覚とイメージは明らかに感覚的なものであり、メッサーも当然考慮に入れようとした。一方で、理論家にとって常に悩みの種であった空間経験と時間経験について、メッサーはこれを感覚直観可能だと考えた。これは、キュルペが時間と空間を感覚的属性だとしたのと同じである。印象とは感覚直観可能な関係であり、似ている異なる多い小さい、などがこれにあたる。こうしたデータを実験精神物理学者は感覚直観不可能だとしていたが、この点については彼らも頭を痛めていた。というのも、内観的に言えば、これらは内容にかんする単なる判断というよりは、むしろ直接経験にちかいように思われるからだ。これに比べると、メッサーは内容に関してかなり寛容な態度を取っていたと言える。だがそうできたのは、多くのことを作用の方に残していたからだ。メッサーは知るという作用に、手のこんだ論理的な扱いをほどこす。知るという作用には、知覚と、その反対物である記憶および想像がある。これらはすべて、内容を持っているという点によって特徴付けられる。また、現在の対象についての思考、過去の対象についての思考、構成概念についての思考を協調させるためのシステムが存在するが、これは内容を持つものではない。様々な作用は混み合ってきて複雑さの程度も増していく。関係づけることと比較することは単純な知る作用である。反対物をペアにすること、肯定、否定もそうだ。同じことが、確信から推量にいたる作用の系列にも言えるだろう。これは、程度を持った肯定ないし否定の系列だからだ。これらのあらゆる作用を含むのが判断と、その反対物である仮定である。

 感じること[feeling]は感覚を内容とし、肯定的選好と価値の感じを作用とする。内容の心理学者にとって大きな問題となった単純な感じ[simple feeling]については、メッサーはこれを境界線上に位置付ける。つまり単純な感じは、ある時は内容であり、またあるときには同時に(感覚直観不可能であるかぎりでの)作用でもある。

 意志することは感覚を内容とし、欲望、欲求、意志を作用とする。意欲[conation]は、単純な感じと同じく曖昧な位置におかれる。すなわち、一部は感覚であり、一部は作用である。

 以上がメッサーの「二部立て」心理学である。この名称が適切だと思われるのは、メッサーにとって作用と内容とは感覚直観可能か否かが異なっているのみならず、場合によっては切り離しうるものでもあるからだ。もし、作用は無視して内容とはどんなものなのかを知りたいならば、意識の周辺部について考えれば良いとメッサーは言う。そこには意味を欠いたむき出しの内容が現れているからだ。逆に、内容は無視して作用とはどんなものかを知りたいのならば、イメージを欠いた思考を検討してみれば良い。

 さて、このような理論が実験心理学に対してもっている重要性は、この理論が何か積極的な貢献を実験心理学になしてくれるという点にあるのではなくて、むしろ制約を取り払ったという点に存している。精神は全て作用であるか全て内容であるかのどちらかだ考えているかぎり、作用心理学は実験心理学とほとんどの部分で対立せざるをえなかった。だがメッサーのような理論のなかでは、内容心理学と伝統的な実験心理学が、いわば健康証明書をあたえられ、作用心理学と干渉しないかぎりで、自由に自分の仕事を行うことが認められているのである。

 死後出版されたキュルペの未完の講義を見ると、彼がメッサーと同じ道をたどっていたことがよくわかる(1920)。この本を開いてみると、非常にヴント的な儲調子で書かれていることに気がつく。これは、1893年にライプツィヒで出版された『要項』の著者としてキュルペを記憶している人には、当然予想できることであろう。だがそれから20年の時がたち、ヴュルツブルクでの経験によりキュルペはブレンターノとフッサールに接近していた。それまでの自身の心理学に対し、キュルペはいまや作用を付け加えたのである(ただし彼もシュトゥンプ同様、作用のことを機能と呼んでいる)。これはまさしく、メッサーが作用に内容を加えたのと同じである。

 私の目からみると、キュルペのこの講義の中で最も興味深いのは、内容と機能の違いについて基準を与えようとしている点だ。そこではあたかも、実験主義者であるキュルベが、あらゆる実験主義者をそそのかす鬼火である感覚直観不可能な契機をついに捉えたかのようにおもえてくる。

 キュルペの議論を要約しよう。内容と機能は心的生活を構成する異なった事実である。(1)両者が異なるのは、経験の中で切り離して示すことが可能だからだ。内容が機能とほとんど結びついていない場合として、夢をみているときや、対象が純粋に与えられているときなどがある。逆に、機能がほとんど内容と結びついていない場合として、対象を持たない純粋な気づき[noticing]や期待などがあげられる。(2)さらに、内容と機能とは互いに独立の形で変化させることが出来る。たとえば、知覚していることはそのままに、その対象をある感覚的対象から別の感覚的対象に変化させる時、機能の変化なしに内容の変化が起こっている。逆に、同じ感覚的内容について、知覚、再認、判断を継起的に行う場合、内容の変化なしに機能の変化が起こっている(ブレンターノの学説との違いに注意せよ。彼のばあい内容と作用の分離はここまで鋭くない)。(3)さらに、内容と機能は性格が異なっている。内容は意識の中で分析可能だが、機能はそうではない。というのは、分析というのは機能を変化させてしまうが、内容は変化させないからだ。そうすると、内容は内観によって観察可能だが、機能は回顧[retrospection]によってしか観察できないということになる。また、内容は比較的安定しているのに対し、作用は比較的安定していない。こうした特徴を踏まえると、作用ないし機能の感覚直観不可能性(impalpability/Unanschaulichkeit)と言われてきたのは何だったのかがよくわかる。(4)内容と機能はどちらも強度と質を持つ点では似ている。だが、この点で内容と機能に関係があるかというとそうではない。機能間の質的差異というのは、内容間の質的差異とは全然違う。たとえば、音の強さは欲求の強さとは全く比較できるものではないのだ。ただし、延長だけは内容と機能が共通に持つものだ。音と欲求は、時間的持続という点では比較できるだろう。(5)最後に、内容と機能は異なる法則に従う点で異なっている。内容の法則とは、連合、融合、対象、刺激と感官の関係など、心理学的な相関関係一般である。だが機能の法則とは、視点の影響とか決定傾向の法則(Aufgabe)といったものだ。機能の法則としてキュルペは、ヴュルツブルク学派が発見した2つにのみ依拠しているが、感覚直観不可能な機能についてより多くの実験が行われれば法則の数が増えると考えていたことは間違いない。

 キュルペが若くして亡くなったことはきわめて惜しむべきことだ。もし彼が生きていて、この新しい心理学にとりくみまた完成させたとしたならば、作用というのはもっと分かりやすいものになっていたのではないかと思える。だが実際には、起こるかもしれなかったことについてほのかな予感は残ったが、はっきりとした洞察は残されなかった。そして実際に起こったのは予感とは全く異なることであった。実験現象学とゲシュタルト心理学が生まれたのである。これらの運動は作用と内容に対して実験的に取り組んだが、作用・内容という名称は用いなかった。あらゆる種類の経験を考察しようとしたからだ。ゲシュタルト心理学については後で戻ってくることにして(pp. 587−619)、次に私たちが見るべきなのは現代英国の心理学である。そこには、オーストリアの影響もないわけでもない。

 この章を終わるにあたって、作用心理学者たちの様々な用語法と心理学の主題に関する認識論的見解について、早見表をつくっておいた。彼らの見解の違いは非常に混乱をまねくものなので、単純化の恐れもあるものの、図式化しておくと話が明確になるだろう。なおリップスが表から落ちているのだが、彼は心理学の主題は内容だとしつつ、内容を作用のように描写しているので、どこに入れれば良いかよくわからなかったためである。

 今日の視点から見ると、二部立て心理学は遅かれ早かれ消えていたであろうと言うことが出来る。要素主義という死に至る遺伝子を内包していたからだ。心理学が内容を扱うのか作用を扱うのかという問題を、両方とれば妥協できると言うだけで片付けようとするとのは、単に折衷的怠惰である。キュルペたちが得ようとした賞品を手に入れるために内容を代金として支払うのは、ゲシュタルト心理学の仕事となった。