えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳的性質を経験することはできるか? → できる McBrayer (2008) 

This Is Not Available 040539

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https://mospace.umsystem.edu/xmlui/handle/10355/5510

  • McBrayer, J. (2008) *A Defense of Moral Perception*

Chapter 1: 道徳知覚の擁護
Chapter 2: 道徳知覚経験  ←いまここ
Chapter 3: 道徳知覚
Chapter 4: 道徳知覚の認識論

2.0 序

・やること:道徳知覚らしきものが知覚の内的(主体の心に関する)制約を満たすと示す

2.1 知覚経験

・内的/外的制約とは? →知覚と知覚経験を区別しよう:知覚はfactiveだが知覚経験はそうではない(例:ピンクの象の知覚経験)。標準的に、知覚経験は知覚の必要条件だとされる。そこで、知覚の内的制約とは、主体が適切な知覚経験を持つ事だと約定する。
・主体があたかも X is Fであるような知覚経験を持つ iff 主体はthat X is F を知覚することの内的制約を満たしている。

2.2 道徳知覚経験

・では、「あたかも X is Fであるような知覚経験」とは何なのか? 定説は無いが、〔具体的な〕知覚経験を持つことがどういう事かについて我々は直観的に把握している筈。そこで、知覚経験の典型例と道徳知覚経験らしきものが極めて似ていると示し、道徳知覚経験が可能なのだと結論する戦略を採る(類似による議論)。

【知覚経験の典型例】
レストランに入った時の経験を考えよ。外的制約が満たされていれば、皿を洗っている人がウェイターである事や彼が怒っている事を見たりするし、彼が皿を早く運ぼうとしている事を見たりできるかもしれない。

【道徳「知覚」らしきものの典型例(ハーマン)】:この例の「経験」を考えよ
角を曲がると、猫にガソリンを注いで火をつけている不良集団が見えた。

  • 【類似点1】どちらの経験も直接的な信念を形成する。

・知覚経験から「ウェイターが怒っている」という信念が意識的推論なしに獲得されうる。道徳経験の方でも「彼らのしている事は悪い」という信念が同じように獲得されうる。

  • 【類似点2】どちらの経験も本質的にクオリアを含む(独特な現象学を持つ)。

・上の道徳経験は、<主体が「猫が焼かれている」単に考える>という風なものではない。
・チザムは、that X is Fの知覚経験は主体がXをF的に感じる事だと論じたが、人を「ウェイター的」、「怒っているように」経験することができるなら、「不良の行為を悪く経験している」と上の道徳経験の現象学を描写することは尤もらしい。

  • 【類似点3】どちらの経験も「与えられている」という事ができる。

・どちらの事例でも何か外的なものが主体に対して自らを提示しているかのごとく見え、例えば想起のように経験を主体が呼び出しているという風ではない(cf. Sorrell (1985))。
・所与性を知覚の十分条件と考える論者もいる(Alston (1999))

2.3.0 道徳知覚経験の可能性に対する反論

2.3.1 高階表象ないよ派
  • 【主張】両経験の類似は認める。しかし知覚経験の事例でも「怒り」や「しようとしていること」など高次性質は経験されておらず、類似性から「悪さ」の経験は帰結しない。

【高階表象ないよ派の議論】
(1)知覚経験が高次性質を表象することはできない
(2)道徳性質は高次性質である
(3)従って、知覚経験が道徳性質を表象することはできない。

・(2)について:高階と低階を精確に分けるのは難しいが、直観的に考えてこれは正しい
低次性質の典型例:色、形、空間的関係…
高次性質の典型例:怒りや疑いなど行為者的性質、危険性、しようとしていることなど傾向的性質…… ←たしかに道徳的性質はこちらに近い
・(1)について:Clark 2000, Dretske 1995, Tye 1995らは、低次性質しか経験できないとする。内容の外在主義を採った上で、世界の性質の中でも、理想的な知覚状況の下で現象的な手掛かりcuesと因果的に共変する性質(タイ「感覚状態がトラックする性質」)だけが知覚的に表象されうるとし、そのような性質は低次性質だけだと考えるからだ。

・この議論に反対する方法は3つ考えられる。

  • 【A:外在主義を否定……(1)を否定】

・マクブレイアは外在主義が偽だと思うが、ここでは外在主義否定に頼らない。

  • 【B:外在主義は認め、表象内容への制限を否定……(1)を否定】

・反論者は、低次性質だけが現象的な手掛かりと適切な関係を結べていると主張しなくてはならないが、因果的共変関係はその関係の候補として不適当である。なぜなら理想的知覚状況では、虎的な現象的経験を持つことは虎の現前のかなり良い指標になるからだ。もちろん、虎が現前していなくても虎経験を持つことは論理的に可能だが、そのことは形や色など低次性質の経験でも変わらない。

  • 【C:全て認めるが、この議論は「知覚が道徳知識の源泉である」事にとって関係がない】

(4)知覚的表象は低次性質に限られるか、そうでないかのどちらかである
(5)もし限られるとすると、Pを表象する知覚経験を持つことはPという知識を持つことの必要条件ではないことになる
(6)もしそうでないとすると、(1)は偽である
(7)従って、どの場合でも知覚的な道徳的知識に対する反論には失敗している。

・(5)について:我々が高次性質の例化に関する知覚的知識を持っている事は明らかなので(「あれは君の家だ」、「妻が怒っている」……)、もし低次性質しか経験できないとすれば、知覚的知識は経験において表象されるものと切り離されている事になる。すると、上の〔経験に関する〕議論は知覚的な道徳知識の存在とは関係なくなる。

2.3.2 道徳表象ないよ派
  • 【主張】高次性質が知覚経験において表象可能だという点は原則としては認めるが、道徳性質は特殊である。すなわち、道徳性質には「〜のように見える」ような見え方が無い。この点で両経験は似ていない(Ross 1939, Thomson 2005, Huemer 2005ら)。

【見えlookによる反論】
(8)知覚経験が性質を表象している事が可能なのは、その性質が特定の見えを持っている場合だけである
(9)道徳性質はいかなる仕方でも見えない
(10)従って、知覚経験が道徳性質を表象している事はあり得ない。

・(8)は尤もらしいので認める。しかし(9)は全く明らかでない。「見える」を分析して真偽を確かめたいが、これは曖昧語なので標準的分析がない。

  • 【経験‐信念的な「見える」】

・そこでLyons 2005の「Xは主体SにとってFに見える」という語法の5分類を検討してみると、ここでの問題は彼の言う【経験‐信念的】な「見える」だとわかる 。この意味では、「Xは主体SにとってFに見える iff XがSに見えるその見え方が、SをX is Fと信じるように傾向づけている」。
・しかしこの意味での(9)は偽である。知覚経験を持つことが主体を道徳信念に傾向づけ得ると考えるのは尤もらしいし、しかもそれは対象の「見え方」の故であると考えられる。というのも、行為が悪いという信念は、「角を曲がった時に物事がどう見えたか」と無関係に持たれるようなものでは明らかにないからだ。道で子供がバスケをしていたとすれば、その行為が悪いという信念を形成するように傾向づけられる事はない。
ちなみに残りの4分類は以下、
【信念的】SはX is Fと信じる傾向にある ←現象学に関係ない
【認識的】SはX is Fと信じることにとりあえず正当化されている。←現象学に関係ない
【経験‐認識的】XがSに見えるその見え方が、SがX is Fと信じることをとりあえず正当化している。←経験‐信念な見えを認識的に強めたものなので、包括的な批判をする際には後者を扱うべき
【知覚‐出力的】Sの知覚システムが、XをFとして同定することを出力している。←道徳知覚でも普通に成り立つ

  • 【比較的な「見え」】

・チザムの言う「比較的な「見え」」の意味では、「Sに対象が赤く見えること」は、「対象が赤い事物がふつうそう見えるように見える」ことを含意する。すると(9)は、「道徳的性質がふつう そう見えるような見え方」は無いと言っている事になる。
(「ふつう」を全ての行為者にとって普通にすると(8)が偽になるので、個人内での「ふつう」を考える。)
・確かに、赤さがふつう「こんなふうに」見えると我々は簡単にわかるが、悪さに関してはそうではない〔(9)を認めてもよい〕。しかし同じ事は高次性質一般に言える。崖は「このように」、ピストルは「あのように」危険に見えるが、かといって<私には何物も危険なものとして見えていない>という事には全くならない。「危険さ」に関してこれを認めるなら、道徳性質の方でも同じであり、(8)が偽である根拠がある。
・他方、人々がうまく分節化するのは難しいが「危険さがふつうそう見える見え方」はあると言うなら、道徳性質の方で「ふつうそう見える見え方」が無さそうという事も、その「見え方」が実際に無いことの証拠にならない。つまり(9)が真である根拠が無い。

  • 【現象学と性質例化の結びつき】

・全く同じに見える(全く同じ現象学を持つ)行為が、道徳的に悪だったり許容可能だったりしうること(例:殺人と正当防衛)が、道徳知覚の可能性を怪しく思わせるのかも?
・しかし、ここ〔性質例化と現象学が対応しない事〕から何が帰結するというのか。経験は現象学と性質例化に必然的な結びつきを要求するわけではない。(熱いという性質を持つ星とストーブの見えは異なるので[X is F → このように見える]は偽だし、デカルトの塔の例から[このように見える → X is F]も偽だが、何かがが熱いとか丸いという経験を持てなくなる訳では全くない。)
・偶然的な結びつきを要求するかもしれない(このように見える → ふつう、X is F)が、道徳経験は不可能にはならない。ハーマンの事例は、ふつう、悪く経験されるだろう。

2.4 道徳表象

・知覚経験が道徳性質を表象することがありうるという具体的な議論を提示する。

2.4.1 知覚経験の内容を見つける

・知覚経験の内容を同定する一般的方法によって道徳経験らしきものを判定するという議論の方法がある。しかし、そのような一般的方法を見つけるのは困難である。

  • 【一般的方法の候補1:内観】

・内観が精緻な内容を与えてくれるとは到底思えない

  • 【一般的方法の候補2:知覚経験がふつう引き起す信念の内容を見る】

・人は特定の知覚経験からしばしば道徳信念を形成するので、これが正しければ経験が道徳的内容を持つことはある。
・ルイスはこの方法は内容を個別主体に相対的にしてしまいリベラルすぎるので、経験が様々な人の信念に与える共通要素をとりだしてそれを内容にすべきだと提案した。
・この提案には2つ問題がある。(1)ルイスは同じ知覚経験が集団毎に異なる内容を持つと認めており、相対性は解消されていない。(2)この提案が正しいと、経験は極めてわずかなものしか表象しなくなる。例えば「あれは私の家である」といった経験はありえない。しかし、この内容を持った知覚的「知識」があるというのは尤もらしく、知覚経験と知覚的知識そして知覚的道徳知識は関係なくなってしまう。

⇒これらの候補は失敗していると思われる(しかも正しかったとしても知覚的な道徳知識は可能)。しかし、別の議論の方法もある。

2.4.2 道徳的内容の擁護
  • 【1:背景条件の変化は知覚経験の現象学に影響する】

・被験者に、値段に関して異なる信念を抱かせた同じワインを飲ませると、高いと信じているワインの方がおいしいと報告する。さらにfMRIによって、信念が経験される快の量に影響していることが示されている(Plassmann et alia 2007)。またある言語を理解した前後や、人や物と親しんだ前後でも知覚的な現象学は明らかに変わる。

  • 【2:知覚経験の現象学に影響する背景条件の種類】

・概念(Peacocke1992)/再認能力(DePaul 1993)/連合(Goldman 1977) /信念(Peacocke 1963)……いづれの要因も獲得後の知覚経験の現象学を変化させるだろう

  • 【3:この現象学の変化は知覚経験に新たな内容が加わったとすると最もよく説明される】

・上記の人々は、背景条件の変化は経験内容を変化させると考えている。これはそうだとしよう〔BC変化→EC変化〕
・現象学が同じで経験内容が違うというのはかなり奇妙である〔EC変化→Pha変化〕。
・(さらに、たとえば松の再認能力を獲得した後は現象学が変化するだけでなく[あれは松だ]という知覚的知識を持てる。知覚的知識には対応する経験が必要なので、ここからもBC変化→EC変化が言える)。
・〔BC変化が直接Pha変化を説明する訳ではないので〕、現象学の変化は経験内容の変化によって最もよく説明される〔BC→Pha、BC→EC、EC→Pha ⇒ BC→EC→Pha〕。

  • 【4:同じことは背景条件が道徳的な場合にも言える】

・大学生になってからベジタリアンの主張を学び肉食は悪だという信念を獲得した人は、その前後で肉を食べる行為を見た時の現象学が変化する。他の事例において内容の変化で現象学の変化を説明するなら今回も同様である。従ってこの現象学の変化は、知覚経験が道徳的悪さを表象することで生じていると理解すべき。

  • 【反論:道徳事例では、情動的反応が変わったので現象学が変化しただけではないか】

・再反論1:我々がある光景に情動的反応を抱くのは、それが邪悪(など)に見えるからであって逆ではない(美的性質の知覚に関するヒュームの同形の反論に対するMcNoughton (1988)の応答とパラレル)。
・再反論2:後付けの感情で現象学が変化する例とは、例えば満腹時と空腹時に人が料理を持ってくるのを見た時だろう。表現しがたいが、ベジタリアンの例はこれとは微妙に違い、知覚経験そのものに内在的な何かが変化しているように思われる。

・以上で道徳経験は可能だと示された。では現実的か? 私(筆者)はそういう経験を持つし、他の人もそうだと言う。道徳経験が現実的だと考えるのにはこれで十分である。