えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

知識の理論における系譜学的方法 Kusch & McKenna (2018)

https://link.springer.com/article/10.1007/s11229-018-1675-1

  • Martin Kusch & Robin McKenna (2018). The Genealogical Method in Epistemology. Synthese, 197(3): 1057–1076.
1 序論

 この論文は、クライグ(Edward Craig)が『知識と自然状態』(1990) で用いた哲学の方法について論じる。この方法は、「自然状態認識論」(state-of-nature epistemology)、「概念総合」(conceptual synthesis)、「機能ファースト認識論」(function-first epistemology)、「実践的解明」(practical explication)など様々な呼ばれかたをしているが、本論では「系譜学」を用いる。この名称はクライグが最終的に使用しているものであり、またこの方法がニーチェやフーコーの影響下にあることを示してくれる。

2.系譜学的方法の概要

 系譜学的方法を概観していこう。まず、「認識的自然状態」が想定される。ここで人は、言語をもち、小規模の集団を形成しており、主に対面でのコミュニケーションを行いながら、互いの情報をもとに、協力的活動を行っている。ここで、次の点が問われる。この自然状態に「知識」という概念が導入されるのはなぜだろうか? それは、よい情報提供者にフラグを立てるためであり、それこそが、「知識」概念の中心的機能である、とクライグは答える。どういうことだろうか。

 自然状態には、自身では手に入らない情報pを必要とする「探究者」がいる。探究者は、よい情報提供者とわるい情報提供者を見分ける必要があり、そのために何らかの概念が使用されるはずだ。ここで、そうしたよい情報提供者を指す概念として「原-知者」を考えよう。人が「原-知者」であるための条件として、探究者は次のような事柄を求めると思われる。

  • 探求者のニーズにかなう程度には、pにかんして正しい
  • 誠実である
  • 探求者に、pであると信じさせることができる
  • いまここで探求者はその人にアクセスできる
  • 探求者にとって理解可能である
  • その人がpにかんする良い情報提供者であることが、探求者から見てわかる

 こうした特徴を備えた原-知者がもつ「原-知識」は、しかし「知識」とはやや異なっている。原知識は知識と比べ、(a) 証言と密接に結びついており、(b) 探求者の能力と関心に紐づけられており、(c) 自己帰属されず、(d) 知者である条件が満たされているのが偶然か否かに無頓着である。これらの特徴は、しかしながら、〔原-知者が一人の探求者にだけでなく、集団内のより多くの人にかかわっていくプロセスを経ることで〕弱まっていく。この「対象化」のプロセスの果てに、知識が出現する。以上のモデルは、これまで哲学者が指摘してきた知識の様々な(相矛盾すると考えられてきた)特徴を、よく説明してくれる。

 以下、クライグのアプローチに対する様々な反論を検討していこう。

3. 様々な機能

 よい情報提供者にフラグを立てること以外にも、知識には様々な機能がありそうだ。例えば、探求が終わったことを示す(Kappel 2010)、行為の理由となる命題を特定する(McGrath 2015)、保証(Assurance)を与える(Austin 1946)、責めるべき行動とそうでない行動を区別する(Beebe 2012)、称賛する(Kusch 2009)、など。このことをどう考えればよいだろうか。

 知識が単一の機能を持たなければならないと考える必要はない。クライグは自身の仕事を(カルナップの意味で)「解明」(explication)と位置づけており、一つの概念には複数の解明がありうる。また一般に、人工物はデザインされた機能と偶然的な機能という形で複数の機能を持ちうる。さらに、デザインされた機能が複数あることも稀ではない(五徳ナイフなど)。ただし、デザインされた諸機能の中でも派生関係がありうる。実際、「探求が終わったことを示す」と「よい情報提供者にフラグを立てる」のどちらが基本的かは論争になっている(Rysiew 2012 vs. Kusch 2013, Williams 2015)。

4. 典型事例

 知識帰属の典型事例でありながら、しかしよい情報提供者へのフラグ立て機能とは関係ない事例があるように思われる。たとえば「1616年、ガリレオは地球が太陽の周りをまわっていると知っていた」。この知識帰属は、地球の公転に関してガリレオに依拠できると、「現在の聴衆に」保証しているわけではなさそうだ(Gerken 2015)。そこで、フラグ立てにこだわる場合、こうした事例でのフラグは過去・未来・また反実仮想状況において立てられていると考えるほうが良いだろう。またいずれにせよ、前項でも述べたように、知識帰属の機能は一つに限らないため、こうした事例の存在は系譜学自体への反論にはならない。

5. 自然化された認識論と「知識」の系譜学

 コーンブリスは、クライグが知識を人工種とみなしていると解したうえで、これは誤りであると論じている。というのも、知識は認知行動学において重要な説明・予測役割を果たす自然種だからだ(Kornblith 2002)。しかしこの議論には問題がある。コーンブリス自身も依拠しているボイドが指摘しているように、何が自然種かは学問分野に相対的であるからだ(Boyd 1980)。知識社会学における知識もまた自然種だとなぜ考えられないのか。関連して、コーンブリスは、クライグの方法は自然種である知識を探求するにはあまりに直観に依拠しすぎていると論難している。しかし、社会科学における自然種の探求のさいに直観に訴えることは正当だろう。

 コーンブリスとクライグの対照的な点は、前者が行動の予測を知識概念の中心的機能だと考える一方で、後者にとって行動の予測はよい情報提供者にフラグを立てることから派生するものだと考える点にある。

6. 知識ファースト、機能ファースト

 ウィリアムソンは『知識とその限界』で、知識をその他の要素に分析する伝統的アプローチは成功しないと論じ、むしろ知識を原始的なものだと見なしている(「知識ファーストの認識論」)。そしてクライグのアプローチについて、自然状態において「真なる信念」が必要だとしている点で、知識よりも真なる信念を基礎的だとみなしており、伝統的なアプローチに近いと論難している(Williamson 2000)。知識ファーストの認識論と系譜学の関係についてどう考えられるだろうか。

 まず、系譜学自体が、伝統的なアプローチに対するオルタナティヴであることは注目に値する。つまり、伝統的アプローチが上手くいかないので知識ファーストの認識論が動機づけられる、という単純な議論は成り立たない。第二の論点として、ウィリアムソンは原始的な心的状態としての知識を、心の哲学における自然種だと見なしていると解釈できる。もし自然種をボイド流に理解するならば、上記のコーンブリスに対する応答がウィリアムソンにもそのまま当てはまる。

 別の自然種理解として、クリプキ/パトナム型のものを知識についても取れると仮定しよう。この時、ウィリアムソンによれば、「最も基本的で事実的な思考的状態であること」が知識の本質である。仮にこれが正しいとしても、系譜学的な探求は無意味にはならない。というのも、たとえば金の本質の探究だけでなく、金を人々が使用する様々な仕方にかんする研究も、興味深いものである。同様に、人々が知識を使用する様々な仕方も興味深いものでありえ、系譜学はこちらを探究していると考えることができる。このとき、ウィリアムソンとクライグのアプローチはむしろ相補的なものである。

7. 系譜学への制約

 系譜学が自然状態という架空の状態に訴える点に疑問を抱く人もいる(Fricker 1998)。しかし、自然状態に訴えることで系譜学が行っているのは、科学でもおなじみのモデル作成である。もちろんモデルは、その内的・外的妥当性を問えるものでなくてはならないが、系譜学の場合も直観や科学的知見に照らし合わせることでモデルの妥当性を合理的に評価することができる。実際この評価という点について、たとえばウィリアムソンは原-知識による実践からは協力は生じないと指摘したり、フリッカーは自然状態に社会的カテゴリーを導入する必要性を指摘したりしている(Williamson 2002; Fricker 2007)。これらはもっともな指摘であり、系譜学の更なる発展によって克服できるだろう。

8. 文脈主義と相対主義

 系譜学は、知識帰属にかんする文脈主義と結びつけられてきた(Greco 2007; Hannon 2013; Henderson 2009; McKenna 2013)。この見解では、”know” は ”I” などの指標詞のように文脈依存的だとされる。たとえば ”S knows that p” の意味は、話者の「認識的基準」に依存する。たしかに、文脈主義には系譜学と相性が良い部分がある。というのも、人が「よい情報提供者」であるかどうかは、明らかに文脈に依存していると思われるからだ。しかし文脈主義は、系譜学が証言を重視するという点とは相性が悪い。というのも、”know” の意味が文脈ごとに異なるとすると、知識を人から人へ伝えるときにかなりの不便を強いられるからだ(Hawthorne 2004)。

 そこで近年、系譜学を相対主義と結びつける主張が登場した(MacFarlane 2014)。文脈主義は、さまざまな知識帰属をその時点の基準に従って評価するが、相対主義は現時点の基準に従って評価する。相対主義は文脈主義と比べ、知識伝達にかかる記憶への負荷が低い点でもっともらしい。またマクファーレンは、社会的相互作用が拡大するとともに「知る」は文脈主義的なものから相対主義的なものへと展開していったと仮説している。これに対して文脈主義者は、記憶への負担をおしても認識的基準を追跡し続けることの利益を強調するだろう。
 
 この論争でどちらが正しいかというのは重要な問いではある。しかし強調しておくべきなのは、系譜学は第一義的には記述的なもので、認識論上の対立がなぜ生じるのかの説明を目的としているという点だ。そして、文脈主義も相対主義ももっともらしい系譜学的説明を提示出来ている点で、この目標は果たされているだろう。

9. 相対主義と偶然性

 相対主義は別の意味でも問題となりうる。系譜学は、知識を人間の心理と社会構造という偶然的要素に相対化しており、人間が「知識」概念を持つ必然性が無くなっている。この意味での相対性は、系譜学は現実の歴史・文化的探求によって補われなければならないとする議論を踏まえればさらに大きくなる(Williams 2002)。これは認識論上の絶対主義者には恐るべきことにみえるかもしれない。しかし、系譜学はあくまで記述的なプロジェクトだということを思い出そう。系譜学は様々な認識的直観を説明するものに過ぎず、様々な心理や社会構造に応じて「等しく妥当な」認識的基準の体系があるなどとは言わないのである。ただし、系譜学には暴露的な役割があるかもしれない。この点についてはさらなる研究が求められる。 
 

10. 結論

 クライグの系譜学的方法はさまざまな認識論上の議論を掻き立てるものだが、その割にあまり注目されていない。本論文では既存の様々な批判に対する応答をおこなってきたが、これを通じて系譜学は十分実行可能であり、現代の認識論にさまざまな貢献をなすことを示せていればと願っている。