えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

全てを考慮したときの良さとしての道徳性 Harris (2014)

How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement

How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement

  • John Harris (2014). How to be Good. Oxford University Press
    • 2. What It’s like to be good: Individual responsibility ←いまここ
  • 「おかわりどうですか?」などと聞かれたとき、人は「私はいいです」(私は善良です)などと大変厚かましい返答をする(see. Sen 2009: 31)。
    • この「ある人が善良である」(someone is good)という仮説は、どう検証すればいいのだろうか。
  • 検証のために、当人に次のように尋ねることができる。
    • 「自分が善良であるとか、自分のなしたことが良いことだと、どうやって知ったのですか?」
      • ここではひとまず、良い行為の方に注目
  • 上の問いに対して当人は、自分がなした良いことを色々挙げるかもしれない。
    • そこで挙げられる事柄が良い行為か否かという点については、おそらく異論は少ない。
      • というのは、良い/悪い行為の類的本質については広範な合意があるからだ(人を傷つけたり、不正に扱ったりするのは異論の余地なく悪い)
    • だが、別のより良い行為が可能だったかもしれない
      • このとき実際に行なわれた行為は、「それ自身としては良い」ものだとしても「全てを考慮した上で良い」ものではない
      • すなわち、実際に行なわれた行為は道徳的ではない
  • ここには、道徳的エンハンスメントが見逃しているかもしれない重要なポイントがある。
    • 詳しくは後述するが、ここでは次の点に注意を促しておきたい。
      • 道徳的エンハンスメントは、衝動と行為の間にある、思考や熟慮と言った「時間のかかる過程」(Dilatory process)をショートカットしようとする傾向がある。

2.1 人の重要性

  • 道徳性、すなわち正しさと不正(wrong)が重要なのは、人が重要だからだ。
    • 人は、たとえば動物とは違った仕方で、また動物以上に、重要である
      • パーフィットの見解(2011: 31):
        • 人は宇宙のなかで「理由」を理解しそれに応答できる唯一の動物かもしれない。
        • またもしそうなら、今後長年にわたって人類が子孫を残していくか否かがより重要になる。
        • なぜなら私たちの子孫〔だけ〕が、宇宙が存在していることを喜ぶべき理由を与えてくれるかもしれないからだ。
      • しかし、そうした理由とはどういうものだろうか?

2.2 良さの類的性格

  • ここで、良さの本性について広範な同意があるという上記の論点を補足する。
  • ハリスはかつて「障害」を次のように定義した。
    • 「害されている状態のうち、その状態に置かれないことに、人が強い合理的選好を持つもの。ただし「害されている状態」とは、通常の状態ないし種に典型的な状態との比較ではなく、可能だと考えられているものとの比較で言われる。」
    • 逆に言うと、「健常」(health)ないし「有益」(benefical)な状態とは、その状態になりその状態でありつづけることに、人が強い合理的選好を持つものだ。
      • この状態は害された状態の反対なのだから、当然良い状態である
      • そこで、他人が健常な状態になること、ありつづけるのを助けることは、道徳的に言って良いことだろう(害された状態と道徳的悪さについても同じことが言える)。
  • 〔ここからわかるように、〕大まかに言って、道徳性は人間の繁栄(flourishing:エウダイモニア、幸福)にかかわる
    • 自分や他人にとっての危害や障害を避けることと、繁栄を追求することには、道徳的理由がある
      • ただしこの意味での道徳的理由は、「全てを考慮した上での」ものとは限らない(この点は後述する)。
      • 人を助けることの良さ、助けないことの悪さは、あくまで「それ自体で」のものだ。
  • 「私たちは〔以上の意味での〕良いないし悪い状況についてよく理解しているし、どうすれば自分および他人のためにそうした状況を防げるかもおおむね理解している。もしそうでなければ、私たちは賢明である(自分自身を気遣う)ことも、他人に気を配ることも、できない」
  • 「なぜ彼を傷つけたのか」という道徳にとって重要な問いは、その行為がなぜ生じたのかについて道徳的正当化を求めるものでもある。
    • なぜ正当化が求められるかと言えば、人は自分や他人を危害から守ることがいかに重要であるかを理解している〔がゆえに、人を傷つける行為が理解しがたいものである〕からだ。
      • そして、もし何が害で何が利益なのかについて一般的な同意がないとしたら、正当化が与えられることで当の行為を理解するということは全く不可能だろう。〔というのは、ここで正当化を与えるというのはその行為を良いものとして提示するということだが、そこで提示される良さが受け手の考える良さと大きく異なっていれば、受け手はいっこうにその行為がなぜ行なわれたのかを理解することはできないからだ〕
        • 〔つまり、道徳という実践が成立している以上は、私たちは良さの類的性格の理解を共有しているのでなくてはならない〕

2.3 緊急救命室テスト

  • 障害、害、病とは何かを特定するのに、ハリスは次のテストを考案した。
    • 【緊急救命室テスト】任意の状態の人が意識を失った状態で緊急救命室に運ばれてくる。このとき、医者が即座に処置をすれば、その状態はすぐさま容易に反転するとする。このとき医者が、自分はその状態を反転すべきかどうかについて悩まないなら、その状態は障害、病、ないし「害された状態」である。
      • 例えば「1930年代ドイツでユダヤ人であること」を考える。人はそうでないことに強い選好を持つかもしれないが、これは障害、「害された状態」ではない。なぜなら、他人が攻撃しなければこの状態が人を害することはないからだ。
        • 〔このテストは、特定の状態が内在的に害をもたらすか否かを判定する。もしある状態が事実上は害をもたらすとしても、その状態が内在的に害をもたらすのではなければ、医者はその状態を反転すべきかどうか躊躇うだろう〕

2.4 人間の繁栄と人間の権利

  • ここで興味深い事例となるのが長寿である
    • 余命を劇的に改善する技術が可能になったとする。これによって他の人々は長い余命を得ている。ここで、長い余命を持って生まれることも可能だったのに、しかし〔その技術が適用されず〕通常の余命しか持たずに生まれてきた人がいるとする。この人は、一定程度の障害を持つとされるだろう。
      • 合理的な人は長い余命を求めるだろうし、余命の短さはたしかに緊急救命室テストをパスする
      • ここで障害による害は、人という種の通常の機能ではなく、可能な選択肢と相対的であることに注意
        • 「種の通常の機能は、障害の定義の一部にはなりえない。なぜなら、「他の人にはできることをしたいのだができない」という意味で、人は通常ではあるが障害をもっていることがあり得るからだ」
          • 別の例:オゾン層の破壊によって白い肌を持つ人のみが皮膚がんになりやすくなった場合。
  • 障害を「通常さ」と切り離すのは重要である。
    • というのは、「病気を治療する(通常の機能を回復する)義務はあるが通常の健康な人生をエンハンスする義務はない」と言われることが多いからだ。
      • しかし、通常の健康な人生とは、部分的には、技術、医療、その他(衛生学や公衆衛生)の発展によって構成されている。
      • 破傷風やポリオに対して免疫があることは、〔種としては通常ではないが、技術のおかげで〕現代では通常であり、この状態を維持することは、単に許容可能ではなく義務でもある。
        • 〔つまり、人間の種として通常なあり方を技術によって変化させることが、義務だと言うばあいもある〕
      • また、〔現存の〕医療供給者は、認知や運動能力のエンハンスメントは自身の権原を超えていると見なしがちだ。しかしこのことは治療とエンハンスメントに正当な区別があることの証拠ではない。
  • ここまでの害と利益にかんする論述は陥りやすい誤りを回避している。
    • (1)良い/悪い状態を通常さから定義しない
    • (2)主体がどう感じるかに依存しない
      • (2)によって、害や利益の概念を、潜在的にしか意識的でない対象(生殖細胞、胚、胎児、新生児)や、一時的に無意識的になる対象などに適用できるようになる。
  • 危害と同様、繁栄と幸福(well-being)に、多くの同意がある。
    • 病気、障害、その他の害がないこと
    • また、より積極的な項目とそれら順位関係についても、相当の合意が得られる

2.5 正義と人間の権利

  • 良いことをして害を避けよという道徳的鉄則は、人々のあいだで間で区別を設ける根拠がなければ、不偏なものであることは明らかである。
    • また、正義や公正、平等は、人間の繁栄のための必要条件であるし、不正や不平等は痛みや苦しみと同じくらい身近なものだ。
  • 従って、〔苦痛と正義の2領域が道徳を構成するとすれば、〕道徳というのは決してよくわからない問題含みのものではない。
    • 道徳とは全ての人に良いことをして害を避けることであり、しかも良さや悪さの具体的本性についても、我々人間のあいだで、そしておそらくポスト人間を含めても、広い合意がある。
  • ここまで、人間の権原や関心や義務を「権利」の観点から特徴付けては来なかった。
    • 帰結主義者として、権利は結論であり前提ではないと考えるからだ。
      • その他、権利による特徴付けの問題点は、主に3章で扱う
  • また、健康管理や基本的医療に対するアクセスを広げることの重要性は国際的にますます受け入れられており、ここからも、良さの本性は決して秘教的なものではなく私たちにも理解しやすいものだと示唆されている。

2.6 価値は客観的でありうるか?

  • 私たちは自分たちにとって良いもの、悪いものを知っている。だがこの知識はどのくらい信頼できるか?
    • 歴史を振り返れば、完全な道徳的地位、「人格性」を持つはずの人々がそこから除外されてきた(「道徳盲」)
  • だが、道徳的知識の発展は、その他の種の知識同様、時間をかけて発展してきたものであり、その歴史は誤りに満ちている。こうした誤りは、証拠と議論、いわば理性によってしか特定できない。
    • 人を道徳的考慮に入れる/入れない根拠、理由、正当化を絶えず吟味することが、私たちの道徳的誤りを正す唯一の道である
      • この考えを擁護するのが本書の仕事である。
  • ところで、私たちの最大の誤りは、人権というアイデアによって示されている考えかた、すなわち、「種に属する」ということが何か特別な重要性をもつというものかもしれない(この点は3章で扱う)

2.7 我々の進化的限界

  • また、道徳と科学の類似点に次のものがある。
    • 人間は類人猿を由来とする生物であるために、利他性に限界がある。
    • 同様に、現行の人間では発見できない科学的事実があるかもしれない。
      • ただし、後者の限界が文字通り思考不可能なものの可能性を問題にしているのに対し、前者の限界は単に現在では実行できないという性格の違いがあるかもしれない。

2.8 社会契約は単なる統治の理論ではない

  • ただし、個人の道徳性の限界が集団の道徳性の限界とは限らない。
    • 健康、福祉、国防などは個人の力だけでは効果的に供給されないが、政府や社会制度のおかげでそれが可能になっている。
      • 集団的責任については11章で扱う
        • 私的財団などが健康や福祉増進に関わることもあるが、こうした組織は支援している人々に対して責任があるaccountableわけではない。
  • 残る問題は、自分自身と他者にとっての良さをいかに効果的に確保するか、また関連する他者をどう適切に特定するか、という点だ
    • 誰が、どのくらい道徳的に重要なのかを決定するための唯一信頼可能で安全な方法は、何かに道徳的地位を与えるものは何なのか、何故なのかについて反省することだ。
    • モラルエンハンスメントによって何をすべきかを決定する唯一の道は、良さを確保したり害を防いだりする様々な方法について理性的に考えることだ。

2.9 反哲学

  • 哲学者の中には、何をすべきかは直観と気持ち[feeling]の問題であり議論ないし道徳哲学は必要ないとするものもいる(Kass 1977)。
    • しかしこの場合、道徳的まずさの証拠となるような気持ちと、単に偏見の表れかもしれない気持ちを、区別せねばならない。
      • そして、怒りや嫌悪感などが「正当に」感じられたものかどうかを判断するためには、何かそうした気持ちとは独立のものへと訴えなければならない。

2.10 なぜ独立したものに訴える必要があるのか?

  • 正しいことをすることに関心がある人は、正しいと感じることと実際に正しいことの違いに関心を持っているはずだ。
    • この見かけと実在の違いは、推論によってのみ明らかになる。
  • またエウテュプロン問題も同様の帰結を支持する。
    • 神が良いものであるためには、良さの根拠を神の命令とは独立の所に求めなくてはならない。同様に、自分の抱く共感が適切だというためには、適切さに関して共感と独立の根拠が必要である。
  • またロックは、人とは推論し反省するものを意味する[stand for]と述べている。

2.11 私たちが代表するもの

  • 同時に人は、別のものを代表して [stand for] もいる。
    • 人は推論と反省によって良し悪しを理解し、また良さを増加させ悪さを減らすように行為することができる。つまり道徳観を発達させることが明らかにできる、現在のところ唯一の生物である。
      • このために人は、品位[decency]と良さを代表している。
        • 言い換えれば、人間は道徳性を持つ。
  • 熟慮的能力によって、人は様々な道徳的・政治的原理を作り、再吟味し、改良してきた。その長い歴史の結果として、人権を含むような私的および公的な体系が繁栄している。
    • こうした体系は、その発展、調整、改良などの局面で、理性や反省の過程に依拠しており、本質的に熟慮的である。
      • たとえば政党は、マニフェストという形で、いかに公益や私的利益に寄与してきたか、していくかという議論を提示する。
  • また、上で示唆したように、道徳的に行為していると自認する個人ないし集団は、自分が道徳ということで何を考え行なっているかを説明する責任から逃れられない。
    • 道徳性を主張するものは、その正当化と擁護を理性的な仕方で行なう準備がなければならない。「単に良いと感じた」では済まされない。
  • ここで、「良いことをする」と「道徳的に行為する」の間や、「倫理的に重要なことについての判断」と「倫理的判断」の間に区別を導入しよう。
    • 「判断」とは単なる宣言[pronouncement]とは異なり、熟慮的過程を経て帰結として出てくるものだ。
      • そしてそれが倫理的であるためには、熟慮的過程の中で、様々な道徳的原理を比較考慮しているのでなくてはならない。
      • このような過程を経なければ、単に倫理的に重要なことに関する判断も倫理的判断ではない。
    • 〔同様のことが道徳的行為についても言える〕

2.12 良いことを偶然することはできるが、道徳的なことを偶然することはできない

  • 人はたまたま科学的重要性を持つものを発見することがあるかもしれない。しかしたまたま科学的であったり、たまたま科学をしたりはできない。
    • 科学をするというのは、熟慮的で規律的な過程だからだ。
      • 同じことが道徳にも言える。

2.13 道徳的行動と善良な人

  • 道徳哲学では、行為とその結果の良さと、人の良さを区別してきた。
    • 個人の伝記に興味があるというのは人の良さ(徳・悪徳)に興味があるということ(徳倫理)だが、世界をより良い場所にしたいというなら行為の良さに関心がある(帰結主義)ということだ。
  • 人はふつう帰結主義的である
    • 自分に降りかかってことそれ自体のほうに、それをもたらした人の精神状態よりも、関心を抱いている
    • 徳や悪徳に関心をもつにせよ、徳を発展させていくための自由が他人によって侵害されないことが必要になる。
      • 従って、徳倫理学者が帰結を無視することよりも、帰結主義者が徳を無視するほうが容易である。
  • 従って、道徳的行動は単に意図や情動といった心の状態の問題ではありえない。
    • よい意志は、しかし帰結に関する十分な考慮がなければ、悪の勝利へと繋がってしまう。
      • 「良くある」ということは、全てを考慮した上で最良のことのために行為するということだ。
  • こうして、どうすれば私たちの道徳性を改良できるか、言い換えれば、世界をよい場所にできるかという問題に徐々に近づいてきた。
    • しかし次章ではまず、一体人間という種がどれだけ重要なのかという問題にとりくもう