えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自由意志はないし道徳的責任概念を消去しても逆にまったり生きられるのではないか Sommers (2011)

Relative Justice: Cultural Diversity, Free Will, and Moral Responsibility

Relative Justice: Cultural Diversity, Free Will, and Moral Responsibility

  • Sommers, T. 2011 *Relative Justice*

Ch. 3 恥の文化、集団主義社会、原罪、ファラオのかたくなな心
Ch. 7 メタ懐疑論は消去主義を極めて暫定的だが支持する ←いまここ

・人はブツなので客観的態度の適切な対象であり、道徳的責任を否定するのが知解可能な形で尊重できる唯一の立場だよ
・ただしメタ懐疑論者にとって、<私たちが道徳的責任を持つのかどうか>という問いは主観的な<全てを考慮した判断>によって決まる。そこで――
【第6章後半】……両立主義者の実践的帰結を見た
【第7章】……道徳的責任を消去した時の実践的帰結を見てみる/責任あるよ直観を説明し去る/両立主義に少し譲歩する

道徳的責任を否定しつつ豊かで充実した人生を送ることはできるのか?

問い:自分と他者を道徳的責任ある主体だとみなさなくなった場合に、われわれが人間として大事にしている態度や価値を保っていることができるか?
→両立主義者・リバタリアン「できない」
――非両立主義者の議論・TNR原理・制御外の行為での罰という不正、これら説得力を認め、人に客観的態度を採るようになった道徳的責任のニヒリスト・サリーの対人関係は?

反感と憤り

・サリーにとって反感は意味をなさない。われわれが樹が倒れて家が壊れることに対して反感を覚えないように、サリーは盗人に反感を覚えない。→それは何か損失なのか?
・反感は私たちを悩ますネガティブな感情だし、少しの悪事からすぐ生じる。これがなければもっと悠長に生きられる。サリーは友人の行為を無慈悲に裁くのではなく、その複雑な事情を正しく理解しようとするだろう。
・悪が大きいと反感は生じざるを得ない。親を殺されたらどうしても復讐欲求は沸く(し、そうあるべきかもしれない)。が、この反感も削減することが出来るだろう。すると絶望が続くが、絶望は人への客観的態度や道徳的責任の否定とは両立する。

感謝

・感謝には、感謝の対象が賞賛に値することを前提する側面とそうでもない側面(涼しい風や素晴らしい見解への感謝)がある。
・例えばサリーが財布を拾ってもらった場合、全体的には冷たい調子でただ財布を受け取り、お礼を言って(その行動を強化する可能性があるので)おわり、というのが採るべき態度と思われるかもしれないが、別に冷淡になる必要はない。親切な人を自律的行為者として尊厳や尊敬することなしに、その人を生んだ世界(とやその人自身)を祝福することはできる。道徳的責任を否定することは、深く、温和に、しかし皮肉ではない形で人を賞することと矛盾しない。

許し

・確かにある意味では道徳的責任が無いなら許しはない。しかし許しは<その行為はその人の心からなされたものではない>という信念を前提しており、この原因帰属の信念がある場合は〔その表明として〕サリーも許すかもしれない。勿論最初の意味では悪人も許されなくてはならなし、悪人であることは彼らの落ち度ではないが、悪人は〔第二の意味で許されないという意味で〕悪人であり、彼らと付き合わないこともできる。

・多くの人が愛は自由な選択/道徳的責任を必要とすると言うが、誰も論証はしない。無論、夫が催眠術によって愛するようになるならこれは台無しだが、ニヒリズムは愛を持つ人の感情や行為の究極源泉はその人にはないと言うにすぎない。様々な経験の帰結として人は愛し合うようになるが、それがなぜ愛の真正性を掘り崩すことになるのか?
・それどころ愛を描いた世界の名作には、運命や地位やキューピッドの矢によって愛が生まれる事例がごまんとある。
・またペットへの愛を考えよ。ペットの愛は道徳的責任の考慮に関係ないどころか、そもそも犬は人間に懐くよう調教師に調教されているが、それが奴らへの愛を減じるのか?
・反論:犬とは何だ ←再反論:もちろん犬と人間への愛は違う。しかしそれは別に道徳的責任に関係する違いではない。人が人に対し愛を感じたり表現する仕方は、犬の場合よりはるかにより複雑で熱狂的である。

自己への反応態度:罪悪感、後悔、プライド

【罪悪感と後悔】
・確かにある意味では、道徳的責任がなければ罪悪感も後悔もない。しかし人は自分の未来の行動を熟慮し実行する両立主義的な「変化させる責任」を持ち、罪悪感や後悔はこの責任にも深く結び付いている。罪悪感は自分の行為が残念な結果に終わっている事の印であり、今後の行為を導いてくれるので、この意味では罪悪感を持っていてもよい。
・最初の意味の罪悪感は、人を眠れなくさせるものだが、これは未来の改善よりもやってしまった事のつらみや屈辱に向かうネガティヴ側面を持つ。道徳的責任を否定するとよく眠れるかもしれない「過ぎたことは過ぎたこと! 謝ってもうしないようにしよう!」。
【プライド】
・プライドが持つ、自分の行為が賞賛に値することを想定する側面は確かにニヒリズムとは折り合わない。しかし、達成感を否定する必要はないし、また美人さんが感心しながら鏡で自分を見る時のように、サリーは自分自身を賞することができる。

ニヒリズムを採るとちょっと良いこともある

・政治問題について。世間は道徳的怒りに満ちている。サリーはこれらを不合理だと考えるだろう。怒りたい衝動に駆られるかもしれないが深呼吸とかして和らげようとするだろう。選挙には行くが、対立する候補に反感は覚えないし、議論を毒す声高な独善的態度を採ったりせず、生産的に人々を説得することができる。

まとめ

・道徳的責任を排除した時の否定的な側面は強調されすぎである。消去主義は反感や苦痛、独善、後悔、の少ない人生という魅力的な案を提唱することができる。

PMR信念を説明し去れるか?

・ニヒリストは、人は自分の振る舞いに道徳的責任があるという信念(PMR)を説明し去ろうとする。例えばSommers (2005, 2007b)の議論――
 ・PMRは適応的なので、真偽に関わらず我々はそれを採用すべきだったのだろう
 ・いまや道徳的責任に反対する独立の健全な議論があるので、道徳的責任の信念はオッカムのかみそりで剃るべき

【問題点】
(1)人間の祖先が直面した環境上の困難に一様性を仮定しすぎていた。
→さまざまな環境に応じてさまざまな責任規範がある(第一部)
(2)道徳的責任の条件に関する信念の真理は、我々の関連する態度や実践や規範によって部分的に「構成されている」という可能性を考慮していなかった。
 →道徳的責任が客観的性質や能力だと理解されているなら、現象の自然主義的な説明を提示すればその誤りを暴くことができる。しかし「全てを考慮した道徳判断」に到達するために5章で見たようなアプローチは明らかに構成主義的である。

・別の議論として、現行の道徳判断は経験的に誤った信念に基づいているので、捨てるべきだとするものがある。
  ‐Greene & Cohen:責任判断は二元論的な行為者‐自己を前提としている。
  ‐Ross & Shestowsky:状況主義の研究から、我々は行動の状況要因より性格特性を過剰評価する傾向があることが知られており、こうした人間の自律性に関する誤った信念に基づいて道徳的責任判断は行われている。

【仮想反論】
こうしたバイアスや信念は心理に深く埋め込まれており克服できないのではないか?
【Green&Cohenの応答】
・日常的には克服しなくてもよい。日常的にはユークリッド的に世界を理解しないということはできないが、ロケットを飛ばすなどの特殊な目的のためには、非直観的だがより精確な相対論を採用した方が良い。同じように、刑法が人を裁くような特殊な場合には、自由意志の否定という反直観的な真理が認識されるべき。

・もし責任直観が誤った信念に基づくというのが正しいなら、それは全てを考慮した判断にも反映すべき。ただし、合理的な反応は責任の排除だとはまだ言えない。物理理論の真理を判断するのには、予測と説明の成功度を見ればよいが、しかし<かくかくの責任割り当て>を同じように評価できる方法は無い。〔Greenらが引く社会心理学のような〕経験的探求は人の制御能力の種類を明らかにするが、それに従って責任帰属するのが適切かについては何も言わない。

・Green&Cohenは、人間は直観的に非両立主義者であり、〔自律の種類の問題ではなく、そもそも〕リバタリアン的な意味での自由意志の信念は経験的に誤っているので、〔道徳的責任は放棄すべきなのだ〕と議論しているのかもしれない。
・しかしそうだとしても、行動の真の原因に関する情報を受けたうえでも、道徳的責任を消去するのではなく概念を改定するという道がある(Vargas 2004, Nichols 2007)。

【例1:ロマン的愛……改定主義】
愛というのはリバタリアン的な自由から発したものでなければいけないと考える人がいたが、愛の生じるメカニズムや進化的な説明に説得されたとする。しかしこのことが、彼らの愛に関する信念の誤りを暴くことになるかというと必ずしもそうではない。真実の愛がメカニカルな基盤を持つというのは確かに奇妙だが、「実は誰も愛していなかった」という結論も同じくらい奇妙であり、彼らは愛の概念を改定する方に向くかもしれない。(ソマーズの考えでは、愛にまつわる諸感情(献身・思慕・守りたさ)だけで、愛の概念を構成するには十分である。)

【例2:憑き物……消去主義】
予測不可能な異常行動を「とり憑かれている」と説明する人々がいるとする。「とり憑く」という概念の中には、超自然的な悪魔の存在が組み込まれている。ここで彼らがてんかんその他の病気について学び、悪魔を要請せずとも異常行動が説明できるとわかった場合、「とり憑く」概念を改定するか、消去するかの二択が残されているが、尤もらしいのは後者である。この概念にとって、超自然的な悪魔の存在は極めて本質的だからだ。

・問題:道徳的責任の概念はどちらの事例に近いのか?
 ――答えの一部は、リバタリアン的自由意志概念が道徳的責任概念にとってどの位本質的かにかかっている。そして、これはおそらく今度は、TNR原理をどのくらい直観的だと思うかにかかっている。〔TNRが直観的→リバタリアン自由意志は本質的〕
 ――さらに、問題の人生の中で占める中心性を考慮する必要がある。愛に関する信念は広範な行動や性格を説明するので、これが誤りだとどう生きていいかよくわからない。一方「とり憑く」概念はそうでもない。道徳的責任はどこに位置するのか……?
・道徳的責任の誤りを暴く戦略の成功度合を査定するには、 これまで広い均衡の中に入れた諸要因をこそ良くみなければならない。

両立主義者へ重要な譲歩

娘(エリザ)が生まれました。〔←!?〕もし誰かが娘を熟慮の上で傷つけようものなら、私(ソマーズ)はその行為をした相手は苦しむに「値する」と感じると思う。「でもTNR原理が……?」「そんなもの捻じ曲げてしまえ!」。さらに、この報復的反応は、「正しい」「適切な」ものだと思う。ただし、もし加害者が一定の基本的な両立主義的条件を満たしていなければ、報復的反応は「不当だ」とも思う。ここでの問題は、非両立主義的直観が弱まったという事ではなく、報復直観がそれを上回っているという事。

【非両立論者の叱咤】

(1)心理的反応と責任判断を混乱しているのではないか
→してない。
(2)非両立論的直観に揺さぶられることは<「本当は」娘を愛していない>と示すことなのだという間違いを犯しているのでは?
→違う。というのも、一種の両立論的基準には説得力を感じており、加害者が基準を満たさない場合には、その責任を否定することが娘への愛を減らすとはとても思わない。すると、どうして両立論基準を満たす場合だけ間違い犯すなんてことがあるのか
(3)自分が報復的態度を現に持つという事だけからそれを正当化していないか
→違う(理由同じ)

【じゃあどうするのか】

(1)責任の可変主義(Knobe & Doris):親族への大きな害が含まれる事例では有責性は両立論的条件を持ち、他の場合は加害者は「起源」条件を満たさなければいけない
→受け入れがたいほど恣意的である。せめて加害者の本性に根差した規準が欲しい
(2)責任の可変主義*:殺人に関しては両立主義的条件、それより軽度の攻撃には両立論的条件で臨む
→やっぱり恣意的で反直観的に思える。例えば児童への性犯罪の〔凶悪な〕本性を前にするとTNR原理を捻じ曲げたくもなるが、しかし同時にそれは、犯罪者を過酷な構成的運の犠牲者だと理解するのを助けもする。直観は同じ事例・同じコンテキストの中でぶつかっている。〔のであり、攻撃の程度で別の規準を運用するのはポイントを外している。〕
(3)スミランスキーの二元論:ニヒリズムと両立論はどちらも説得力あるから両方取り込もう。両立論的な区別を行った上で、しかし人間は自分の性格に責任が無いのだから、そこで課される責任は「薄い」のだと認識すべきである。
→一方で、両立論的区別を受け容れるという心の枠組みの中では、起源の考慮によって犯罪者の責任が薄くなるとは思えない。他方で、別の心の枠組みの中では、起源の考慮により全ての「値する」判断は不適切だというニヒリストに賛同する。つまり私の二つの直観はシンプルに「両立しない」のであ〔り、程度問題に帰着させるアプローチはポイントを外している。〕
⇒結局残るのは消去主義か。消去主義は私(ソマーズ)の価値や直観の全てを反映しているわけではないが、他のものよりはましである。ただしこれに確信は持てない。報復的感情は価値をもっている。今回の最終的な「全てを考慮した判断」が更なる改定や変容をこうむっても驚くにはあたらないだろう。

結論(的なもの)

もっと決定的な結論を出せるかと思ったけど間違いだった。ただ、メタ懐疑論者にとってこれは驚くべきことではないのかもしれない。道徳的責任の条件についての見解は、その人の環境や人生状況の変化によっていつでも変わるからだ(例外は哲学者くらいである)。ただし、分析を終えるにあたって、自分自身の考える道徳的責任の条件に関する判断と同じくらい理にかなった別の判断があると言うことはますます確実だと思われた。(おわり)