えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

純粋理性批判の歴史哲学 村岡 (2012)

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

  • 村岡晋一 (2012) 『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』 (講談社選書メチエ)

第一章 カント『純粋理性批判』の歴史哲学

  本書は、ドイツ観念論を「終末論的陶酔の哲学」として理解しようとするものです。この第一章の狙いはタイトルの通り、カントの純粋理性批判の中に歴史哲学を掘り出し、カントを(新カント派の解釈とは異なって)ドイツ観念論の出発点と位置付けることです(フーコーの言う「われわれ自身の存在論」への着目)。

  純粋理性批判には2つの出発点があり、筆者はそれぞれの含意について次のように述べます。

  • (1)知的直観はない

知的直観を持たない(感性的直観しか持たない)という事は神の視点を持たないという事で、人間は「つねに先立ってそこにある」存在者にしか出会う事ができない。この状況で可能な認識は、自分との関係でかんがえられた存在者、すなわち現象に関するものに限られてくる。このことは、「自然状態」においては人間が住む世界は人によって異なるという事を意味している。

  • (2)自然科学は成功している

ところが、いま(18世紀)や人間は世界に対して全く受動的である訳ではない。自然科学の成功は、我々が理性によって世界に能動的にむきあい、すべての人間に共通な「ただ一つの世界」にようやくたどりついた事を示している。

  孤独な私からわれわれの共同体へ、これが純粋理性批判が前提にする歴史哲学です。この歴史哲学は、人間が持つ「孤独な私への傾向」と「われわれへの傾向」の矛盾を原動力として人類は世界共同体へ必然的に向かうという、『世界市民という視点から見た普遍史の理念』(1784)での論にも表れています。

  続いて、『カント哲学に対する書簡』(1786)でカントを一躍有名にしたラインホルトが言及されます。ラインホルトは熱心な啓蒙主義者である一方、神の存在や魂の不死の信念の根拠が奪われる事に疑問を抱いおり、この苦境の解決策をカントに見出しました。ラインホルトはカント哲学の本質を、客観と主観の間という純粋な関係性〔現象〕に出発点をとる事だと理解し、この洞察を「意識律」として自らの哲学に取り込みます。しかし、カント自身はこの目標に対して不徹底であり、「形而上学の残滓」が残っているという批判が同時に行われます。
  感性・悟性・理性という「認識能力」を問題にしたカントに対し、ラインホルトは、3者の類である「表象能力」に立ち戻るべきだと考えました。というのは、表象の対象は何でもいいわけですが、認識の対象は客観的実在性を持たなければならず〔認識はfactiveなので〕、〔関係的に存在するものではなく〕「すでに〔先に〕存在するもの(Vorhanden)」が忍び込んでしまうからです。さらに、純粋理性批判の究極の基礎である「経験」も、体系に先立って存在する形而上学の残滓だとラインホルトは批判します。カント哲学は「関係性」の哲学ですが、「すでにそこにある」世界から出発する『純粋理性批判』は不徹底なので、それを完成させるのが「基礎哲学」だという訳です。
  これらの指摘は確かに正しく、カントの経験概念は自然科学の成功という歴史的「事実」から導出されたものです。しかしカントにとってはこの歴史的現在において初めて『純粋理性批判』は書かれうるのであり、ラインホルトには、この歴史意識、体系を展開する「哲学者」の立場にへの反省が欠けています。そこで、〔カントの徹底化という〕基礎哲学の企図を真に実現するためには、その考察対象である「意識」自身が体系を展開するものになることだ――こうしてフィヒテの『知識学』への橋は掛けられたのです。