えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

超越論的哲学から超越的哲学に進むリープマン Beiser (2014)

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

  • Beiser, F. (2014). The Genesis of Neo-Kantianism, 1796−1880. Oxford: Oxford University Press.

General Introduction[Mikro und Makro]

PART I. The Lost Tradition[Mikro und Makro]

    • 1. Jakob Friedrich Fries and the Birth of Psychologism
      • 1-6[オシテオサレテ]/ 7-9[Mikro und Makro]/ 10-12[begriffymd研究ブログ]
    • 2. Johann Friedrich Herbart, Neo-Kantian Metaphysician
    • 3. Friedrich Eduard Beneke, Neo-Kantian Martyr
    • 4. The Interium Years, 1849−1860

PART II. The Coming Age[Mikro und Makro]

    • 5. Kuno Fischer, Hegelian Neo-Kantian
    • 6 Eduard Zeller, Neo-Kantian Classicist
    • 7 Rehabilitating Otto Liebman
      • 1-2 / 3-5 / 6-10 ←いまここ
    • 8 Jürgen Bona Meyer, Neo-Kantian Sceptic
    • 9. Friedrich Albert Lange, Poetand Materialist Manqué[Mikro und Makro]
    • 10 The Battle against Pessimism
    • 11 Encounter with Darwinism

PART III. Introduction: The New Establishment

    • 12 The Young Hermann Cohen
    • 13. Wilhelm Windelband and Normativity [Mikro und Makro]
    • 14 The Realism of Alois Riehl

6. 自然科学と超越論的哲学

 1872年に退役したリープマンはストラスブール大で員外教授となり、10年に亘り奉職する。これにより、ドイツ南西部は新カント派の一つの中心となっていった。70年代のリープマンはやはり自然科学と超越論的哲学の関係という問題に取り組み、大著『現実性の分析』(1876)が出版される。この本は以前に比べはるかに慎重なもので、よく読まれまた評価された、リープマンのなかでも最良の一冊である。
 
 本書の3つの章は再び視覚心理学を扱う。リープマンの考えはやはり、経験科学によって、空間の実在性が私たちの意識と感性に依存しているというカントの主張が確証されたというものだ。新たな論点として、感覚内容が三次元空間のなかに配置されて見えるのは何故かという問題が扱われており、感覚が外界に投影されるメカニズムがより詳しく語られている。まず私たち自身がひとつの座標系の中心として設定され、その空間内に知性が視覚・触覚的感覚を配置することで、長さ、高さ、奥行、が手に入る。したがって、空間は知性による構成物である。

 別の2章では、時間・空間・運動が相対的か絶対的かという問題が検討される。ここでもリープマンは、絶対的であるというカントの説を条件付きで擁護する。たしかに、経験的世界においては、時間・空間・運動は相対的である。しかしながら、物理学は絶対空間・絶対時間を前提としているため、時間や空間は相対的なものではありえないとされる。

 本書で最も興味深い章は、カントの空間論とメタ幾何学(非ユークリッド幾何学)の関連を論じた「空間特性と空間演繹」である。リープマンによると、非ユークリッド幾何学はカントの空間論を支持している。非ユークリッド幾何学は、空間はいくつもの次元をもちうると示した。これは一見、ユークリッド幾何学だけを認める超越論的感性論と矛盾するようにみえるがそうではない。カントはあくまで人間の感性で知覚可能な空間の話しかしていないからだ。カントにとって、非ユークリッド空間は人間にとって想像不可能なだけで(直観的必然性)、矛盾しているわけではない(論理的必然性)。実際カントは、異なる感性をもつ生物は異なる空間を知覚すると述べており、そうした空間が論理的に可能だということをまさに非ユークリッド幾何学は示してくれたのである。

 また「数学的自然科学の哲学的価値」の章でリープマンは、数学的自然科学を擁護し自然哲学を批判する。自然哲学は数学を無視して質的な概念しか使わないために、自然法則にあらわれる量的な比の精確な値を導出することができない。だが自然はその根底では数的な領域である。あるものが何であるかは量によって規定されるからだ。リープマンはしかし、自然哲学を完全に否定したわけではなかった。次節で見るように、唯物論との戦いの中で、目的と有機的統一を持つ自然という自然哲学的な自然観がリープマンにとって重要になっている。

7. 唯物論との戦い

 『純粋理性批判』により論駁されたはずの唯物論が力を増していることに、リープマンは早くから軽蔑と不安をおぼえていた。そこで『現実性の分析』には唯物論論駁にあてた章がいくつかある。「脳と精神」の章では、精神は脳に依存しているというフォークトの主張が取り上げられる。60年代のリープマンはこの主張を「批判の価値もない」としていたが、今の彼は脳が思考の器官であると認める。しかし、脳の過程と思考の過程の相関関係を明らかにしても、脳の観点だけからは、なぜある思考は論理的で別の思考はそうではないのかを説明することはできない。この点を説明するためには、自然はある種の論理によって脳をつくりだしたので、脳は論理的思考を生み出せる、と仮定するほかない。こうしてリープマンは、目的論的な自然観に近づく。
 
 実際「宇宙発生論のためのアフォリズム」の章では、宇宙の計画を実現するための必然的な手段こそがメカニズムだとし、目的論と機械論の融和を主張している。こうした目的論的主張を、しかし批判期のカントは否定していた。そこで、「自然の一性」の章は、確率論的な議論によって目的概念の構成的主張を正当化しようとする。つまり、自然にみえる秩序や一様性が単なる偶然から出現してきた確率は無限に小さい一方で、それらが何か共通の実在する原因から出現してきた確率は無限に大きい。この原因が具体的に何なのかにリープマンは言及していないが、何らかの理性的なデザインであると考えられているのは明らかである。このように、宇宙が実際に目的に導かれていると考える点で、リープマンは「失われた伝統」および後の新カント派の多くと意見を異にしている。
 
 宇宙に関する以上のような主張は、宇宙内部の事象をもとに宇宙全体について推論してはいけないというカントの見解にも反している。だがリープマンは、カント自身自分の見解に従っていないと指摘する。というのも、物自体が経験の原因になるという考え方は、因果律を経験内部の出来事をこえて経験の全体に適用しているからだ。そして、カント自身が従ってないのだから、自分たちも従わなくてよいだろうと結論されるのである。これによって彼は内在の哲学を完全に放棄し、超越的な形而上学にお墨付きを与えることになった。

8. 実証主義批判

 『カントとエピゴーネン』が形而上学を攻撃していることや数学的自然観などから、リープマンは「実証主義的カント主義者」と言われることがある。だが、彼は単純な実証主義者ではない。唯物論との戦いの中で、リープマンは古典的な形而上学に近づき、また自然科学に対しても批判的になっていった。こうした反実証主義的に向かう傾向がよく見られるのが『諸理論の極地』(1884)である。このパンフレットは表向きは、自然にかんする様々な理論を区別するというものなのだが、実際のところ暗に、新進気鋭のアヴェナリウスを論敵にしている。アヴェナリウスは、あらゆる形而上学的前提から純化された経験をとりだし、それをあらゆる科学の基礎にしようとしていた。このプログラムに対してリープマンは、純化の果てには何も残らないと批判する。なぜなら、感性の直観さえも、知性のアプリオリな機能によって可能になっているからだ。
 
 こうした批判が提示される仕方が面白い。リープマンはまず、理論には3つの段階があるという。経験から決して離れない段階、措定物により経験を説明する段階、そして形而上学的段階である。そしてリープマンは、最初の段階こそ科学の理想型であるとする。この一見実証主義的な分類にしたがって、1章から6章まではそれぞれ一つの理論が解説されていく。ところが最後の7章で突如としてリープマンは3段階の分類は誤りだったと主張しだす。それも、第一段階の理論など存在しないという理由で。第一の段階は、世界が単純に与えられるとする素朴実在論的仮定の産物にすぎないのである。
 
 このパンフレットにはもう一つ重要な反実証主義的主張が含まれている。形而上学は正当でしかも必要な企てである、という主張だ。実証主義が好む科学の統一を実現するには、様々な科学がどうやって整合的全体を形作るのかを決定する形而上学が必要である。この批判的形而上学は、絶対者について思弁する独断形而上学とは違う。それどころか、純粋経験という理念に無批判な実証主義こそむしろ一種の独断形而上学なのである。

9. 超越論的哲学の精神

 リープマンの超越論的哲学の理解は、心理学的なものから認識論的なものに変わっていった。新たな理解を示す重要な著作の一つが、『現実性の分析』(1876)のなかの「アプリオリの変様」である。リープマンによると、ライプニッツは、アプリオリとは魂の中にある生得観念だと心理的観点から理解していた。だがカントはこれを認識論的観点から理解し、「認知主体の基本的な形式や規範」を意味するものとした。これらの形式・規範は、主体を含む宇宙の全てのものに当てはまる「メタ宇宙的」なものであるから、生得観念ではない。ここには考え方の「革命」がある。ライプニッツが魂をアプリオリの基盤にしたとすれば、カントはアプリオリを主体の基盤にしたのだ。さらに、リープマンは「超越論的なもの」と「心理学的なもの」もはっきり分けている。リープマンによると、カントは実際のところ「アプリオリ」をメタ宇宙的にも心理学的にも用いており、したがって〔後の人々が〕この語を心理学的に使うのは正当である。しかしだからといって、2つの意味を混同してはならない。

 メタ宇宙的アプリオリの強調により、リープマンは客観的観念論に近づく。これは、規範や形式がそれ自体としていかなる個人とも関係ない法則として存在しているとする立場のことだ。だが彼はギリギリのところで、やはりこうした規範や法則の起源を「表象し認識する意識」に求め、客観的観念論にはいたらなかった。

 リープマンが超越論的哲学を説明した最後の著作が、『超越論的哲学の精神』(1901)だ。ここでは超越論哲学の目的が認識論的なものであることがこれまでになく強調され、心理学について書いたのはカントの誤ちだったとまで言っている。今やリープマンの理解するアプリオリとは、経験にかんする知識にとって最も基本的な原理の論理的地位のことだ。そうした原理には、存在と出来事の「同一性」・「因果性」・「連続性」があるとされる(これらの原理のことを「カテゴリー」と言わないのは、心理的連想を避けるためだろう)。これらの原理は、経験にもともと無かったものを加えるものなので、「経験科学における理論的な内挿の格律」と呼ばれる。

 しかし、こうした原理をどのように正当化すればいいだろうか。この問いをリープマンははっきり立てたが、明確な答えを与えていない。恐らくこの正当化は、(ヴィンデルバントが言うように、)究極的にはプラグマティックなものだとリープマンは考えていたと思われる。これらの原理なしで自然の知識が手に入らないなら、原理に対する十分な正当化は手に入ったと言える。

 『超越論的哲学の精神』にも再び客観的観念論への抵抗が見られ、とくに超越論的原理の源泉である超越論的主体の身分が明確化されている。統覚の統一性を司る「自己」は、いかなる個人の経験的な自己意識とも異なり、「個人を超えた」ものである。この自己は、あらゆる個別の自己において同時に存在し、後者の自己が世界について知ることを可能にしているのだ。また、こうした超越論的主体は不可知である。このような主体は、かつてのリープマンが消去しようとした物自体と同様に厄介な存在だが、いまやリープマンは物自体を虚構ではなく実在物だとみなすようになっている。皮肉なことにこの同じ時期に、コーエンやヴィンデルバントは物自体を消去しようとし始めるのだった。

10. 批判的形而上学

 『批判的形而上学概説』(1901)は、リープマン自身の形而上学を展開した著作である。彼の形而上学は、カント的な知識の限界を認めた上での形而上学であるという。古典的な形而上学の問題にたいし、それが回答可能である限界を示そうとし、また思弁に対して警鐘を鳴らしている。だが、既に目的論の議論に関してみたように、古典的問題に対してリープマンは思弁によって一定の回答を与えようとしており、彼の見解は一貫してないと言わざるを得ない。ともあれ本書は、エピクロス的な機械論的世界観に対してプラトン的な目的論的世界観を擁護しようとするものだ。リープマンの言う「プラトン主義」は実際アリストテレス主義で、形相に構成的地位を与え、それは生物の構造や目的として実在すると主張している。
 
 リープマンはまず形而上学の擁護から始める。人間理性には、どこまでも「なぜ?」と聞きたくなる自然な要求がある。この要求は正当であり、一定の地点を超えた問いを許さないのは独断論である。しかし、普通に問うていくとアンチノミーが生じてしまうので、形而上学の出番があるのだ。実証主義は形而上学を否定するが、アンチノミーに答えられないし、しかも答えなくていいとする独断論に陥っている。
  
 古典的問題としてまずとりあげられるのが変化の実在性の問題だ。多くの形而上学者が、変化は矛盾していると認めてきた。しかし彼らは、思考の法則であるはずの矛盾律を存在に関する法則として扱っている。〔つまり、我々は変化を矛盾なく思考できないが、変化そのものは矛盾せず実在する、ということはありうる〕。こうして変化の実在性を確保したのち、これを自然の永遠性と認めるような仕方で説明するために、リープマンはプラトン主義的な考えを採用する。すなわち、経験的世界は変化を被っているが、その変化を司る自然法則は、自然のなかで常に同一であり続けている。

 このプラトン主義は、機械論と目的論の関係というもう一つの古典的問題において最も明確になる。リープマンは、形相なしに生命を説明することはできないとし、「形相の実在論」をとる。こうした主張は進化論に抵触するようにみえるが、進化論にあわせてプラトン主義を作り替えることができるとリープマンは言う。すなわち、ある種が進化の中で出現するのを必然とした自然法則こそが、その種のイデアなのだ。ただし、このイデアは単なる自然法則ではなく、目的的なものだと理解されている。生命を説明するのに、目的論は必須だからだ。

 リープマンは目的論擁護のための議論をいくつか行う。有機体はそれ自体が目的だと言っているのであって、生物が人間の目的のための手段だとする自然神学へコミットメントしているわけではない。機械論的説明を目的論的説明で置き換えようとしているわけでもない、等。逆に、機械論に対する攻撃も欠かさない。とくにダーウィニズムについて、発生、生殖、生存競争の概念は目的を前提していると主張している。
 
 リープマンは、仮に生命の機械論的説明が完全なものになっても目的論は無効にならないという。二種類の説明は完全に両立するからだ。だがこの答えでは、目的論が「必要」だという点までは示せていない。このような態度は、生命が機械論的に説明できないというのは原理的な問題なのか現状の科学の問題なのか、リープマンが決めかねていたことに由来している。

 精神と身体の関係という問題でも、プラトニズムと反唯物論があらわれている。経験的探究は、心理物理並行説を支持するように見える。だが、精確な相関関係は未だ不明な上、並行説は唯物論以外の形而上学とも整合的である。また、実際のところ自己の統一のような現象には物理的対応物はないのではないかとリープマンは疑っている。「脳と精神」の時点では、並行説によって自然に内在する論理・合理性が示される可能性をリープマンは認めていた。だが今のリープマンはこれを認めたがらない。自然主義者や唯物論者では自然と規範の二元性を決して乗り越えられないと考えるようになったからだ。

 一と多の関係という問題では、リープマンの形而上学の超越的な側面が最もよく出ている。ここでは「自然の一性」の議論が繰り返され、万物には一つの原因があることが確率論的な議論で正当化されている。これは上述のように超越的な議論である。
 
 さらに、意識の起源という問題でも超越的な側面がみえる。あらゆる意識は主体と客体を含むものなので、主体と客体両方をうみだす単一の起源を意識することはできない、とリープマンは言う。だがこうした制約を迂回する道をとして、神秘主義が示唆される。リープマンはまず、私たちが深い眠りにつくとき、意識は消え、あたかも主体があらゆる意識の起源に戻ったかのようだと指摘する。そして、ウパニシャッドやヴェーダに言及し、神秘主義が万物の根源である究極の統一に触れることを可能にしてくれるだろうと述べる。かくしてリープマンの歩みは、内在の哲学から神秘主義へと、極端から極端へ進んでいったのだった。