えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

直接的な社会性知覚説の弁明 Zahavi 2011

http://link.springer.com/article/10.1007%2Fs13164-011-0070-3

  • Zahavi, D. (2011), Empathy and Direct Social Perception: A Phenomenological Proposal
前史

・この20年でシミュレーション説(ST)と理論説(TT)に加えられる批判は現象学に先駆者を持つことが多い(現象学的提案(PP))。この論文では最近ST・TT側から加えられたPP批判を検討する。
【ジェイコブの整理と批判】
・G&Zが擁護するPPの一つ「共感の直接知覚モデル」は二つの標的を持つ

  • (1)共感のシミュレーションによる理解を

・共感のシミュレーションによる理解は、「<相互の類似関係>条件」(同形性条件)を強調する:共感者の経験は標的の経験に関して適切な類似関係を持たねばならない
▲直接知覚モデルは<相互の類似関係>から完全に自由な共感の説明を提出できるのか不明確

  • (2)STとTTの共通前提を

・共通前提:他者の殆どの心的状態と経験は観察できない。従っての理解は推論プロセスに基づく
▲直接知覚モデルは、行動主義に陥ることなく、この前提を排除できるのか不明確

1 共感と同形性

ジェイコブの共感概念とその検討

・ST説論者は、内なる模倣としての共感概念を理論の中心に据える。たとえばジェイコブは、共感と、感情伝染・同感・単なるマインドリーディング(MR)を区別する必要性から、次の5つの条件を設けた。

  • (1)感情条件:共感者と標的はなんらかの感情状態にあらねばならない

→共感を単なる認知的な理解から区別

  • (2)<相互の類似関係>条件:標的の経験Sと共感者の経験S*は、何らかの類似関係に立っていなくてはならない

→共感を同感から区別

  • (3)因果経路条件:標的の経験Sは、共感者が経験S*であることによって引き起こされていなくてはならない

→共感を偶然同じ感情にあることから区別

  • (4)帰属条件:共感者が標的に適切な感情状態を帰属している場合にのみ、共感的理解は成り立つ

→共感を感情伝染から区別

  • (5)気づかい条件:共感者は対象の感情を気づかっていなくてはならない。

→共感が相手の経験の意識に対する標準的な反応ではないことの反映

【問題点1】
(例1)相手が怖がっているのを見て悲しさを感じる
(例2)相手が悲しんでいるのを見て悲しさを感じる
・1は同感で2は共感ということ自体はいいのだが、それは本当に(2)の成立によるものなのか? 標的の情動を変化させることで同感事例が共感事例になるというのは変ではないか?
【問題点2】
(例3)相手がいかっているのを見て恐怖を感じる
・これは(2)がないので、共感でも感情感染でもなく、(5)がないので同感でもない〔???〕。従ってこの例は認知的理解という事になるが、変ではないか?
【問題点3】
・ジェイコブによると共感は、(4)のみが必要な標準的なMRより間接的な他者理解の形式である。そうすると、共感は他者理解の中で根本的な役割を果たすことはなくなり、これは多くの人が考える共感概念と少なからぬずれを生む。
・さらに、この区別では基本的な情動認知とより洗練された信念帰属がどちらも標準的なMRに入ってしまう

ジェイコブの直接知覚モデル批判とその検討

(例4)子供が死んで絶望している人に共感する
・この事例は、相手の自分の感情の志向対象が違うことから、(2)が成り立たない共感の例としてPP論者が挙げてきた。
・しかし、相手の経験の志向対象が子供で、私の経験の志向対象が相手の経験なら、メレオロジカルな意味で、子供は私の経験の志向対象でもあり、(2)が成立するとジェイコブは言う。従って直接知覚説も(2)を免れない、と。
・しかし、全てのものは全てのものに似てるので、<類似>とは何なのかもっと特定すべきである
・また、殆どの同感が(2)を満たすことになり、同感と共感を分けるというジェイコブの試みに困難が生じる。

2 心の理論と社会性知覚

・最近、STとTT両者の前提に対して批判が出ている
(前提1)心の帰属は説明と予測のために行う
(前提2)他者の心には直接アクセスできない
・一方批判者は、心理的な生活は身体的で環境に埋め込まれている事、他者の心にはより直接的な経験的アクセス(「共感的理解」「直接的社会性知覚」)を持つ事、を強調する
・しかしこうした論争は、単に言葉遣いの問題である場合も正直に言って多い。

【ジェイコブのG&Z批判】
・<社会性知覚は心なし対象の知覚と同じくらい直接的だ>というG&Zの主張に対し、後者の直接性を疑う形で批判。というのも、例えばあるものを「私の車」として知覚するためには様々な背景的知識が必要であり、これが直接的な知覚である度合いは不明確である。
・また、他者の意図や情動を振る舞いから理解できるのは勿論だが、表現的行動と心的状態は区別すべき。前者が後者を構成すると考える(行動主義にコミットする)のでない限り、相手の意図や情動を直接知覚することは無理である。

2.1 背景の役割

・たしかに社会性知覚は背景知識に影響されるので文脈的だろう。しかし――
(1)これはほとんど「直接的」の言葉遣いの論争であり、社会性知覚が背景知識に影響されるとしてもPPは論駁されるわけではない。
(2)「直接的」に意味に関して確立した見解は無い。「直接的」は「文脈的」ではなく「間接的」と対置されるべきで、<他者の心的状態理解は、それが第一の志向対象であるという意味で、直接的である>と主張することが出来る。しかもその状態は、手紙を読んで相手は怒っていると推論するような場合(間接的)と違って、私に実際に現前している。

・また、直接知覚論者は一人称視点と二、三人称視点の違いを無視しており端的に不合理だという主張は当たっていない。「直接的接近」〔という語〕を、一人称的な接近をモデルに理解するところに誤りがある。<相手の心的状態を自分が体験すること>と<相手の表出的行動を体験すること>は別物であ〔り、後者を直接的と言っているのである〕。
・(現象学者は結局用語を約定することで独我論の恐れから解放されたと勘違いしているだけだと批判されるかもしれない。これが正当だとは思わないが、今回の論点ではない)

2.2 行動主義

・問題は、ジェイコブが立てた<身体的表現で心的なものが尽くされるか否か>ではなく、<身体的表現は内在的な心理学的意味を持つのか、それとも、その心理学的意味は背後の心的状態から派生したものなのか>である。そして、この二択で後者を否定し前者を採る(PP)ことは行動主義を採ることではない。なぜなら、

  • (1)心的なものを行動にに還元するわけではない。(心的状態の存在は否定しない)
  • (2)表現的行動を物理運動と同一視するのではなく、むしろ表現的行動は既に心的なものに浸されていると言っている。

・我々の情動理解や行為者理解は行動上の表出に大きく影響を受けている。ストア的な抑制の可能性から、行動上の表出はこれらの必要十分条件ではないと言われるかもしれないが……

  • (a)それは例外事例であり、そこから<行動の内在的な心的意味の欠如>を引き出さなくてはいけないのが何故か理解しがたい
  • (b)表出されていない経験と表出されている経験は実際のところ似ていない(Niedenthal 2007; Laird 2007)
  • (c)「行動を排除した心理主義」(McClloch 2003)をとると、また別の問題が出てくる。たとえば、

(c-1)行動が純粋に物的だとすると、それを心的に説明しようという動機はどこから湧いてくるのか?
(c-2)私の経験は純粋に心的で、しかも相手への心の帰属の基盤は行動だとすると、自分と他人に同じ種の状態を帰属している事の保証が無くなる。

→従って、心的な生活のある側面が知覚的にアクセス可能だという主張は行動主義的ではない

2.3 被説明項の一致

・STとTTは日常的に使われる洗練された他者理解を引いてPPへの反論とする。しかしこれはポイントを外している。現象学者は別に社会性知覚だけが他者理解のすべてだとか言わない。
・理由や動機の理解には背景知識が重要なのはもちろんだし、PPは情動や感覚という最も基礎的な社会性認知に焦点を当てているのである(STやTTの方がこれらの説明を行うべきなのであ〔り、現象学者が高次認知を説明しなくてはならないのではない〕)。
・また見逃されがちだが、多くの現象学者は<行為の説明と予測がどうなされるか>という問いに取り組んでいるのではない。そこでなされるような特定の心的状態の帰属以前にある、根本的な心あるよ性の帰属を問題としているのである。後者は前者に先立つ。

3 現象学の役割

【STに対する単純な現象学的反論】
(1)もしシミュレーションが明示的(意識的/内観的過程)で、
(2)それが他者理解の標準的な方法なら、
・我々はシミュレーションの諸段階に関して意図的な気付きを持っているはずだが、
・現象学的/経験的にはそのようなものはない
⇒ので、STは誤り

・この議論を取り上げたジェイコブは、明示的/暗黙的の区別がミスリーディングだとした。実際にはこの区別は認知的課題が言語を使うか否かの区別なのだとし、どちらの場合でも、心のシミュレーションは意識的気付きから離れた認知的なヒューリスティクスであるとした。従って、現象学への訴えは内観を信頼しすぎである、と。
・しかしそれはG&Zの「明示的」の定義(意識的、意図的、努力を伴う)とは異なる。そして実際こういう用法で「明示的」を用いるST論者がいるのだから、この定義によるSTへの反論には意味がある。
・また、「他者の心のへ直接アクセス」は現象学的主張なので、それがサブパーソナルなメカニズムで可能になっている事は別に否定しなくてよい。
・ただし、現象学と認知科学が全く別のことをやっている訳ではない。認知科学の被説明項は現象学が探求するパーソナルレベルでの社会性認知であり、それを説明できないのならば理論を見直すべきなのである。

4 結論

〔省略〕