えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

心理学が科学になるための課題を設定した人物としてのカント Leary (1978)

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/1520-6696(197804)14:2%3C113::AID-JHBS2300140203%3E3.0.CO;2-C/abstract

  • Leary, D. (1978). The philosophical development of the conception of psychology in Germany, 1780-1850. Journal of the history of the behavioral sciences, 14(2): 113-121.

 カントは『純粋理性批判』で理性心理学を攻撃し、経験心理学のみを可能なものとした。しかし『自然科学の形而上学的原理』では、経験心理学は数学的ではありえないので真の自然科学ではないと述べる。むしろ経験心理学は、観察データを帰納的・アポステリオリに集めて「経験則」を明らかにすることしかできない、単に経験的なだけの科学なのである。さらに悪いことに、経験心理学にはさらなる弱点がある。まず経験心理学はその対象を操作できない、つまり実験的でありえない。さらに、内観は精確ではなく、経験心理学者が使える観察データは貧弱である(この最後の点は、人々の振る舞いを観察する人間学的方法によって改善できると『人間学』で示唆している)。

 だが経験心理学に対するこうした批判的主張は、カント自身の意図とは裏腹に、「経験心理学が真の自然科学になるために乗り越えるべき課題を設定する」という役割を果たすことになった。カントの心理学観に不満を抱いた19世紀前半のドイツ哲学者達は、まさにカントが指摘した欠点を再考するよう促されていったのだ。

 まずJ.F.フリースは、経験心理学は経験則しか明らかにできない単に経験的なだけの科学だという主張に反対し、心的経験の観察と分析によって合理的なものを手に入れることは可能だと主張した。実際、カントは私たちの認識にはアプリオリな原理が存在していると主張しているが、そのような原理の存在を私たちが知るのは、まさに心的現象の観察と分析をつうじてのことなのだ。つまり彼によれば、カントの批判哲学すら、その基盤を心的現象の観察においているはずなのである。また、カントは内観は精確ではないと述べるが、外観だって誤りうるのであり、精確ではない内観を使うから即科学的でないというのはおかしいと指摘した。

 つづいてF.ヘルバルトは、経験心理学は数学的でありうると主張し、実際にそのような体系を展開してみせた。ここで興味深いのは、彼の試みの基礎となっている考えは、「心的現象は強度によって互いに区別され、強度は時間によって変化する」というもので、これはカント自身の考えだということだ。実際、時間と強度の二次元によって表象の数学的取り扱いが可能になるとカントは『自然科学の形而上学的原理』で示唆しているのだが、カント自身はそれをやる価値のないことだと考えていた。だがヘルバルトはやった。表象が強度で区別できるなら、その強度に数を割り当てることができるはずで、さらに、表象同士は互いの強度を弱めあうという仮定を加えて、表象がどのように変化していくかを厳密に数学的な方程式で記述したのだった。

 しかしヘルバルトは表象の強度に数を任意に割り振っただけで、強度を「測定」したのではなかった。この測定の必要性を訴えたのがF.E.ベネケである。さらに彼はカントに反して、心理学は実験的でありうると主張するのだが、その主張が「カントに帰る」という文脈の中で出てくるのが興味深い。つまりベネケは、同時代の観念論者達の理性心理学に反対し、カントにしたがって心理学は経験的でしかありえないとするのだが、その勢いで経験心理学は実験的でもありうるしあるべきだと主張していくのである。実際、彼は知覚や記憶、感情等についてどう実験すればいいかを示唆するところまでいっている(が、実際にはやらなかった)。