えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

心理学史におけるアレクサンダー・ベイン Boring (1950)

心理学史の古典からベインにかんする部分を翻訳しました。伝記的情報が中心です。心理学史との関連では、哲学的な心理学から実験的な心理学への転換点を象徴する人物と位置づけられています。


   ◇   ◇   ◇

アレクサンダー・ベイン

生涯と著作*1

ベイン(1818-1903)は、これまで見てきた人物の中で最も心理学者に近い人物である。点呼してみよう。デカルト、哲学者・生理学者。ライプニッツとロック、哲学者・政治関係者。バークリ、哲学者・主教・教育家。ヒューム、哲学者・歴史家・政治家。ハートリー、学術的医師。ジェームズ・ミル、歴史家・外交官。J. S. ミル、哲学者・論理学者・政治経済学者。チャールズ・ベル、フルーランス、ヨハネス・ミュラー、E. H. ウェバー、全員生理学者。ここまでの時代には、心理学者が占める正式な地位はまだ存在しておらず、ベインもそれを見つけられなかった。ベインが長いあいだ占めていたポストは、アバディーン大学の論理学教授だったが、ベインはこの人事をしぶしぶ受け止めていた。

ベインは貧しい子供だった。父はアバディーンの織工で五人の子供がおり、出来高制の賃金が下がり続けるなか長時間労働によってなんとか収入を維持していた。ベインは少しだけ学校に通ったあと織機での仕事を学び、生活費を賄うため、そして不規則な形でも学業を続けるためにお金を稼いだ。早熟な子供だったが、本を手に入れることが困難で、自分の知的能力を十分活かすことはできなかった。科学や数学の本を借りることができたときには、それをすぐに吸収した。一度だけ、ニュートンの『プリンキピア』第一巻を30分だけ閲覧する許可を得たが、そこまで慎重ではない別の所有者から同書を借りられたのは数年後のことだった。17歳になる頃には、ほとんど独学で、幾何学、代数学、解析三角法と球面三角法、および流率法(ライプニッツの微積分に相当するニュートンの方法)をマスターしていた。天文学を学び、相当量の自然哲学書も読んだ。形而上学に興味を抱くようになり、ヒュームの『人間本性論』も読んだ。また、『プリンキピア』とその英語訳を通じてラテン語を学び始めた。ベインと知り合った教会の牧師が、すぐにマーシャル・カレッジ(当時はアバディーン大学から独立していた)への進学を勧めたのも当然のことだった。

カレッジの指導は貧弱だったが、この独学の学生は優秀な成績を収め、4年後22歳のときに、もう一人の学生と共に最優等で卒業した。自然哲学への興味と知識は増していた。だが、ベインは最終学年の主要科目として受けた道徳哲学講義に最も関心をひきつけられた(この講義は、教育手法面でも啓発面でも大学講義としておよそ最悪のものだったが)。卒業から一年後、道徳哲学教授が病気になると、ベインは代理として教授の講義ノートを読んで授業を進行する仕事に就いた。時折、自分の解釈を少しだけ付け加えた。これは自分にできる範囲内での付け足しだったが、それでも疑いの目を向けられるようになった。この疑いは、ベインが教会で聖餐にあずかったことがないという事実に基づいていた。

1840年から1860年までの20年間、ベインはロンドンとスコットランドでやむを得ずフリーランス状態に置かれた。スコットランドの大学教授職には何度も応募しており、強力な支持もあったのだが、学界政治とベインの自由主義的立場のせいで不採用が続いた。一度だけ、グラスゴー大学で数学および自然科学教授に任命されたのだが、給与が低く、仕事は過酷で、また高まる心理学への関心ともそぐわなかったために、一年で辞職した。ロンドンでは、12歳年上のJ. S. ミル、およびその知的サークルと交流した。雑誌への寄稿を行い、現在では心理学や科学哲学と呼ぶべきテーマについて主に論じている。1842年に『ウェストミンスター・レビュー』誌に寄稿したおもちゃに関する記事では類似の連合法則が展開されており、ベインの心理学への関心が並々ならぬものであったことがうかがえる。同年、ベインはミルの『論理学体系』の最終改訂を手伝い、1843年にこれが出版されると、同書を称賛する書評を書いている。

この間、ベインは多大な努力を傾けて、巨大な心理学体系を準備していた。実際の執筆は1851年に始め、出版の便宜ために結局二巻本となった。1855年にまず『感覚と意志』が出版。はじめは売れ行きが芳しくなく二巻目の出版は遅れたものの、1859年には『情動と意志』が出版された。ベインはこのとき40歳になっていた。この二巻は実際には一つの著作で、人類の思索に対してベインが行った最も重要な貢献となっている。二冊とも成功を収め、その改訂にベインは後半生のかなりの時間を費やすことになる。第一巻の改訂版は1864年、68年、94年に出ており、第二巻は1865年、75年、99年に改訂されている。これはつまり、ベインの著作はほぼ半世紀にわたって英国の標準的な心理学教科書になったということで、この状態はスタウトの著作が出てくるまで続いた。

1860年、マーシャル・カレッジはアバディーン大学(当時はキングス・カレッジしかなかった)と合併し、論理学(および英語)の教授職が新たに設けられた。ベインはこれに応募し、最早おなじみの反対論もあったものの、採用に至った。このポストには、健康を理由に辞職するまで20年とどまることになる。ベインが同大学でうまくやったことは、(やはり反対もあったが)学長に三回も選出されたという事実からも伺い知れる。

とはいえベインは論理学にも英語にも特別専門性があるわけではなかったため、この欠点をうめるべく教科書を書き始める。1863年から1874年にかけて、文法と修辞のマニュアルを三冊出版、また1870年には『論理学』を出版する。この著作は部分的にはJ. S. ミルの『論理学体系』に基づいていたが、ベイン独自の説明も多数含むものとなっている。

このように、採用に伴う必要からベインは約10年にわたり自分の第一の関心事に集中できなかったが、この寄り道はあくまで一時的なものだった。『感覚と知性』の二回の改訂、『情動と意志』の三回の改訂を経た1868年、ベインは教育目的のためにこの巨大な二巻本の簡易版となる『精神科学と道徳科学』を出版する。

次の年には、ベインは他数名とともにジェームズ・ミルの『精神の分析』におびただしい数の注釈をつけた版を出版している。

1872年、『精神と身体』が出版。ベインはすでに1840年代にはエネルギー保存則や熱の仕事当量について書いていたが、今や自然哲学と道徳哲学の間の不整合を取り除こうと、次の問いを発する。意志という開放システムはエネルギーの閉鎖システムと両立するか? ベインの答えは以前の心理学著作でも前提されていたもので、ベイン自身の言い方ではないが今日言うところの心身並行論である。本書は心身問題に関する充実した議論を含む点で重要なものであり、この問題はこの後1880年代に、そして90年代にはさらに盛り上がることになる。

ベインが雑誌『マインド』を創刊したのは1876年である。当初は哲学的な色合いが強かったものの、とにかくこれは世界で初めての心理学雑誌だった。実験心理学の雑誌を創刊するには世界のどこでもまだ時期尚早で、新しい科学を受け入れるのに遅かった大英帝国ではとくにそうだった。ベインは、自分の優秀な弟子でありユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの精神哲学および論理学教授だったクローム・ロバートソン(Croom Robertson)を編集者として立て、ロバートソンが1892年に急逝するまで、雑誌を資金面で支えた。

退職後の余生はアバディーンで過ごした。健康状態は思わしくなかったが85歳まで生き、1903年に死んだ。この年は、同時代人ハーバート・スペンサーの没年でもある。ベインが重要な人物となった理由の一部は長生きだったことにある。ベインが自身の心理学を書き始めた頃は、まだフェヒナー、ヘルムホルツ、ヴント以前だった。そして、積極的に著作を改訂しながら、新しい心理学の形成と確立の全期間を生きたのだ。

実際のところ、デカルト、ロック、ヒューム、ヨハネス・ミュラー、ヘルムホルツ、さらにはヴントが偉大だと言えるのと同じ意味で言えば、ベインは偉大な人物ではない。ベインからは学派も出なかったし、偉大な理論も出なかった。むしろベインは、連合主義が頂点を迎えたのち生理学的心理学に吸収されはじめる、その過程を代表している。心理学の歴史的な進みゆきの中で重要な位置に立っていたという点に、ベインの主な重要性はあるのだ。その慎重で学識ある著作は貴重なモニュメントであり、心理学が経験的連合主義から生理学的実験主義に転換する地点を画している。

ベインの主な見解

さて、ベインの体系的な心理学著作を要約することは我々には到底かなわない。ここでは、四つの重要な問題に関するベインの立場に触れることで満足する他ない。すなわち、心身並行論、生理学的心理学、連合学説、意志の理論である。

心身並行論

1. ベインは心身並行論の元祖だと言われてきたが、これは正しくない。ベインはあくまで、明確に心理学的な文脈のなかで並行論を具体化したにすぎず、この見解の最も一般的な形はすでに見たようにライプニッツに遡る。ライプニッツは、多元的な宇宙における調和はモナドの並行的な進みゆきというかたちで事前確立されていると考えており、精神と身体の並行論はあくまでその特殊事例にすぎなかった。ライプニッツの同時代人であるマルブランシュも心身平行論を唱えていた。なおハートリーも同様である。こういう文脈でハートリーが言及されることは普通ないが、それはハートリーがこの見解自体を発展させることに関心を持っていなかったことによる。医師であるハートリーは、身体に適用されるものとしては唯物論を受け入れた。そして唯物論から霊魂を救うために二元論を取らざるを得なくなり、そうすると心身を並行的に説明するのが最も簡単なやりかただったのだ。同じことはフェヒナーにも言え、唯物論に反対して進むなかで、1851年に並行論に訴えることになっていた。

ベインの場合、はじめはこの問題を直接とりあげることはなく、1855–59年の心理学では並行論は単に話の前提とされていた。ベインの考えではあらゆる心理学的問いには「物理的側面」と「精神的側面」の二側面があるので、個々のトピックについてこの両面を順にとりあげるという論じかたがよくなされている。後になって、エネルギー保存の学説が心理学に提起する問題がより深刻になってくると、ベインは『精神と物質』を著して次のような見解を展開した。「物理的側面」は因果的に閉じたシステムであり、原因と結果はエネルギーの点で量的に等しい。そして「精神的側面」は、量的同等性なしに物理的側面に並行する。だがこの見解は形而上学的な間に合わせにすぎないとベイン自身感じていた。ベインは、自分が一つの実体の二側面を扱っているのか、それとも二つの異なる実体を扱っているのか、自分でもはっきりわかっていなかった。この問題について後にはこう語っている。

一つの実体か二つの実体かに関する様々な対抗仮説を分類し、心理的なものと物理的なものの本質的な現象的区別を維持しながらも、両者が分かちがたく合一していると主張する必要があった。三位一体の教義を説いた者たちは、アタナシウス信条のなかでこの神秘的合一を表現するさいに「位格を混同せず、本質を分離しない」と定式化したーーこれは心身の合一の表現として悪くない。*2

生理学的心理学

2. こうした並行説の当然の帰結として、ベインは生理学的心理学を書かなくてはならなかった。このためにベインが採用したやりかたは、後にヴントが太鼓判を押して以降、心理学の教科書の標準的なパターンとなるものだった。ここまで読んだ読者はすでにおわかりだが、生理学的心理学はベインが新しく始めたものではまったくない。デカルトは生理学的心理学者だった。ただし、デカルト自身の言い方に倣って、デカルトは「古い」ものとして退けてよいだろう。ハートリーも生理学的心理学を書いた。だが、その生理学はニュートンの思弁的生理学であり、科学的発見から来たものではなかった。19世紀には科学的生理学と、その一部である生理学的心理学は急速に発展したーーこの点についてはすでに以前の章で詳しく見てきた。心理学の向かう先はかなりはっきりしていた。1852年、ロッツェは『医学的心理学』を著し、その副題を「霊魂の生理学」とした。この霊魂の生理学のなかに生理学は驚くほど少ししかなく、また形而上学が驚くほど多いということを、次章で見ていくことになる。とはいえ、この時代にこの書名があらわれたことは注目に値する。ベインはドイツ語を喋らず、読めたかどうかも怪しいため、ロッツェのこの本を知らなかったのはほぼ確実である。また、ベインはおそらくヨハネス・ミュラーの生理学的心理学も知らなかった。ベインはそもそもドイツ語文献にほとんど言及しないのだ。しかし、ベインは学士号取得後に解剖学の講義を取っていたし、W. B. カーペンター博士とも面識があり、感覚についての資料を準備するさいにはカーペンターの『人間生理学』(Human Physiology)や、後にはロンジェ(François Achille Longet)の『生理学』(Traite de Physiologie)を利用している(カーペンターが『精神生理学』(Mental Physiology)を公刊するのははるか未来のことである)。さて、ベインが採用したやりかたとは、本の序論のほぼ全体を神経系に関する長い章にあてて、そこから運動、感覚、本能に入り、そして高次機能に進んでいくというものだった。上述したように、ベインは各トピックについて可能な限り物理的側面と精神的側面の両面を論じている。神経系に関する序論のほとんどの部分は後ろにある心理学とはうまく調和していないのだが、この点は後代の教科書の多くも五十歩百歩である。

生理学的アプローチを取ったベインは感覚を強調することとなった。議論は充実しており、分類も慣例的である。アリストテレスの五つの感覚にベインが付け加えたのは、「内部」(organic)感覚だけだった。だがこれをベインは非常に重視していた。その主な理由として、ここには行為の理論と関連する筋肉感覚が含まれていたことがある。

生理学的データとしての運動も、ベインの心理学の中で独自の(つまり単なる筋肉感覚としてではない)位置を持っている。以前の章でみたように、無意識的運動としての反射作用に関する知識は、すでに前世紀中に大いに進展していた。そこでベインは、ハートリーと同様に、しかしよりきちんとした根拠でもって、運動を心理学用語だと考えることができた。つまり、運動は連合に関係しうるものとして適切に把握されたのである。

連合学説

3. 知性に関するベインの議論は連合にかんする議論に他ならない。ベインは二つの根本法則を持っていた。随伴性類似性である。

読者にはもう予想がつくはずだが、ベインの考えでは、随伴法則とは以前に共起した行為や感情が再び生じるということだ。行為や感情は「ともに発展ないし凝集し、後になって一方が精神に提示されると、他方もまた観念の中にあらわれる傾向がある」。*3 したがってベインにとって、この法則は観念の保続を説明する主要な要因である。観念の保続は、随伴の反復と、それに対する注意に依存する。また、個々人の一般的な保続性にも依存している。というのも、「学ぶ素質」には個人差があるからだ。50年後ーーつまり世紀転換期になっても、ベインはこれらの原理が基本的なものだと考え続けていた。

類似法則はジェームズ・ミル以降心理学から消えていたが、ベインはJ. S. ミルと共にこれを回復した。この法則について扱うさい、ベインが体系の観点から特に重視していたのは、「構築的連合」に対して心理学的説明を与えることだった。構築的連合とは、発明や精神的創造を指すのにベインが用いる用語である。随伴では保続(過去の共起の再発)しか説明できないとすると、記憶のほかに構築的連合が存在することが謎となる。思考のうちの新しいものを説明するためには、観念の「呼応」という原理が必要になるとベインは考えたのだ。類似という連合操作にベインが与えている説明の多くは、部分的に同一なものの随伴に還元可能なのだが、この点でベインを批判する必要はない。というのもこの第二の法則は、第一の法則とは異なり、新しい心理学には継承されなかったからだ。

ベインが「混合連合」について長尺で議論していることは重要である。これはつまり、すべての連合要因がまとめて働くことで連合が実現するという事例だ。「個別に見れば過去の観念を再生するには弱すぎる連合も、まとめて作用すれば過去の観念を再生させる可能性がある」。*4 ベインはこの学説を様々な複雑化を通じて展開した。

意志の理論

4. 連合主義のような主知主義的な心理学から、意志の問題が提起されることは少なかった。だが、いくつかの理由からベインはこの問題に直面した。科学の発展により、唯物論が一般的な問題になっていた。エネルギー保存の学説が徐々に確立していくと、物理的世界は因果的に閉じたシステムになっていくように思われた。連合学説は、精神世界において似たような働きをしている。前者は唯物論的な学説、後者は機械論的な学説だが、どちらも意志なるものに取って代わろうとしており、またベインは個人的にも両学説に関心を持っていた。ベインがこの問題を無視できなかったのも当然である。

ベインはまず、神経系には自発的作用が可能だと指摘する。自発的というのは、反射的作用や本能的作用とは異なり、外的刺激からは独立に作用が生じるということだ。だが、どの神経作用も実際の運動を伴うから、筋肉感覚や神経支配感覚*5が生じてくる(ベインは神経支配感覚の理論を後から採用し、さらに後には放棄している)。このため、運動には(さらには意図された運動にも)一定の感覚経験が伴う。これは努力という経験(experience of effort)であって、意志の経験的側面であった。努力経験は連合に入ってきて、実際には運動が生じない場合や運動が意図されているだけの場合を含むあらゆる状況で、〔任意の観念の〕本質的な同伴物となりうる。そうすると、意志は究極的には精神生活全体に浸透していると考えることができる。

このようにしてベインは、意欲の経験を基にして自由を擁護しようとする論証を丸め込んでしまう。自発的作用という言葉から、自由が何らかのかたちで残されているように思われるかもしれないが、実際はそうではなく、ベインが考えるシステムに自由の余地はない。自発的作用が自由なのは連合から自由だというだけの話で、この作用もやはり神経系の構成によって決定されているのである。宗教的正統派にひどい敗北を喫してきたベインはもしかすると、自発的という言葉によって少しの曖昧さを残しておこうとしたのかもしれない。後にダーウィンは、このような文脈で「自発的」という言葉が使われるのは理解不能だと漏らすことになる。

まとめ

要約すれば、ベインは後の心理学の多くを先取りしていた人物であると同時に、古い心理学の頂点を代表している人物だと言うことができる。ここまで見てきた四つの論点いずれについても、ベインはまさしく心理学の発展の曲がり角に立っていた。その背後には哲学的心理学が伸びており、前方の新しい方向には実験的生理学的心理学があった。20世紀の心理学者は、ベインの著作の大部分を心からの称賛と共に読むことができる。そしておそらく、ジョン・ロックも同じようにベインを読めただろう。

ベインの心理学が展開された二巻本はThe Senses and the Intellect (1855)とThe Emotions and the Will (1859) である。それぞれ三回改訂されており、改訂年については本文を見よ*6。連合についての抜粋が次にある。Rand, B. (1912). Classical Psychologists, pp. 483-504。より簡略な教科書が、Mental and Moral Sciences: a Compendium of Psychology and Ethics (1868)。1872年に精神科学の部分と道徳科学の部分を分けて二巻本とされたが、アメリカ版のMental Scienceは1868年出版となっている。

並行論については、Body and Mind (1872) を見よ。この本は内容を変えず何度も再版されており、フランス語、ドイツ語、スペイン語に翻訳されている。また、Balfour StewartのThe Conservation of Energy (1874) の付録としてベインが書いたThe Correlation of Mental and Nervous Forcesも見よ。心身並行論の歴史に関する簡潔な説明は、Eisler, R. (1910). Worterbuch der Philosophischen Begriffe, Vol. 2. の「並行説」の項目を参照(pp. 975–983)。この問題がいかに強い関心を引いたかは、Randによる精神と身体に関する文献目録を参照(In J. M. Baidwin (1905). Dictionary of Philosophy and Psychology, Vol. 3, [Part II], pp. 1091–1099)。

ベインの生涯については、Autobiography (1904) を参照。同書の付章を書いたW. L. Davidsonはベインの著作の完全な文献目録もつけてくれている。上で、ベインが書いたジェームズ・ミルとJ. S. ミルの伝記に言及したが*7。こうした著作の存在は、ベインがアバディーン大学を退官してすぐ、伝記に関心を寄せたことを示している。また、J. S. ミルの方の伝記はベイン自身の生涯にも関連している。

心理学史との関連では以下を見よ。Ribot, Th. (1874). English Psychology, pp. 194–254; Warren, H. C. (1921). History of the Association Psychology, pp. 104–115*8; Brett, G. S. (1921). History of Psychology, Vol. 3, pp. 206–212; Murphy, G. (1949), Historical Introduction to Modern Psychology, 2nd ed., pp. 104–108.

本文で言及したW. B. カーペンター博士はベインと旧知の仲であった。またMental Physiology (1881) で「無意識的脳作用」(unconscious cerebration)*9という言葉をはじめて用いた人物でもある。

*1:訳注:以下、小見出しは訳者

*2:訳注:出典不明

*3:訳注:The Sense and the Intellect, 1st ed., 1855, p. 318.

*4:訳注:The Sense and the Intellect, 1st ed., 1855, p. 544.

*5:訳注:当時の用語法で、筋肉運動から来る求心的神経活動に伴う感覚が「筋肉感覚」(muscular sensation)、筋肉運動へ向かう遠心的神経活動に伴うとされる感覚が「神経支配感覚」(senseatin of innervation)と呼ばれていた。

*6:訳注:前者は1864年、68年、94年。後者は1865年、75年、99年

*7:訳注:該当箇所未翻訳

*8:訳注:邦訳七五–八七頁

*9:訳注:問題の答えなどが意識的に考えていないのにふと浮かんでくる現象のこと。