えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

シジウィックによる「べき」の意味の区別の導入 Sidwick (1877) & (1884)

https://archive.org/details/methodsofethics00sidguoft
https://archive.org/details/methodsofethics00sidguoft

  • Sidgwick, H. (1877). The Methods of Ethics, 2nd ed. London: MacMillan.
  • Sidgwick, H. (1884). The Methods of Ethics, 3rd ed. London: MacMillan.

 以下に訳出したのは、ヘンリー・シジウィックの『倫理学の諸方法』第2版(1877)と第3版(1884)の第3章3節です。この章は初版(1874)から2版への改訂の際かなり書き換えられており、3節に当たる部分は初版には存在していません。2版から3版への改訂でも実質的な手が加えられており、それ以後の改訂は3版を基本に少しづつ手を入れるかたちになっています。3版改訂のさいシジウィックは「べき」(ought)の意味について「厳密な意味」と「より広い意味」の区別を導入しており、この個所はシジウィックが(「厳密な意味」での「べき」について)「べきはできるを含意する」という原理を支持していたことを示すものとして引用されることもあります。

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 以上より、私たちの常識的な道徳判断のなかでつかわれる「べき」ないし「道徳的義務」という概念が意味しているのは、次のどちらのことでもない。(1)判断者の心の中にある特定の情動が生じていること(この情動は、他の人の心にある類似の情動を共感的に表象することで複雑なものとなっている場合もある)。(2)一定の行為のルールが、それを破った場合にペナルティがあることによって支持されていること(ここでいうペナルティとは、命令ないし禁止されている行為に対する一般的な好意や嫌悪から生じるものであってもいいし、何かほかに源泉があるものでもよい)。さてそうだとすると、この概念はいったい何を意味しているのだろうか? 「べき」、「正しい」、ないし同じ基本的概念を表すその他の術語に対し、どのような定義をあたえられるだろうか? ここで、この概念はあまりに基本的すぎて、形式的定義によってより明晰にすることはできない[形式的定義を与えることができない(3版)]と言われるかもしれない。[3版追加:この概念をより明晰にするには、日常的思考の中で関連している他の概念、とりわけ、混同されやすい概念との関係を画定するしかないのだ、と。]だが、ここで定義を求める者が欲しているのが、[3版追加: 本当は]道徳とその他の知識の部門との関係を完全に説明することなのであれば、それを行うのは倫理学ではなく、何らかのより包括的な学であると言わねばならない。またいずれにせよ、そうした課題は本書の課題ではない。本書は単に、この基本的な概念を何らかのかたちで終始使わざるをえない[この基本的な概念を究極的で分析不可能なものとして扱わなければならないと著者には考えられる(3版)]私たちの道徳的[実践的(3版)]判断や推論を方法化しようとするものにすぎないのであるから。[改行して★へ(3版)]だが、道徳的な認識には、その他の種類の知識と比べ、特筆に値するある特殊性がある。まず、道徳的行為者と正しい行為のあいだの関係は、その行為者がその行為を正しいものとして認識しているか否かに応じて、二種類の関係に分けることができる。そして、このことに対応して、「正しさ」も異なる2つの異なる意味で述定されるのである。だがこの2つの意味は非常に混同されやすい。一つ目の意味では、私にとって正しいこととは、私が正しいと考えることをすることである。だが、私の思考は誤ることもあるわけだから、私にとって正しいこととは実は、また別の意味では、〔私が正しいと考えることとは〕全く異なったものであるかもしれない。ここで、ひとつ目の意味での正しさを「主観的」正しさ、2つ目の意味での正しさを「客観的」正しさと名づけるのが便利だろう。完全ないし絶対的な正義は、この両者の正義が一致することを要求する。だが一般的に言って、私たちの道徳判断は客観的正しさを述定するものであり、主観的正しさのほうは表出されているにすぎない。どういうことかというと、〔あることが正しいという〕道徳判断をするさい、その判断をする行為者はそのことが正しいと考えているというのはたしかにそうなのだが、しかし道徳判断〔自体〕が述べているのは、その行為者が正しいと思うか否かとは関係なく、あることは正しいということなのだ。そして、道徳判断とはそのようなものなのだと、本当に道徳について判断している理性的存在者であればだれであれ判断するはずである。そこで私は、客観的正しさの認知*1を、理性の指令[dictate]ないし指示[precept]の認知として語ってきた。ここで理性というのは、非個人的なかたちで理解されている。というのは、全ての理性的存在は、理性的に判断する限り、必然的に、同じ事柄については同じように判断するはずだからだ*2。理性の指令というフレーズはさらに次のことを含意する。つまり、理性的であるかぎりの理性的存在においては、正しさの認知が行為への衝動ないし動機を与えるのである。人間においては、もちろん、正しさの認知が与える動機は様々な動機の一つにすぎず、こうした様々な動機は互いにぶつかり合い、正しさの認知が与える動機が支配的動機になるとはかぎらない。そうならないのが普通かもしれない。このように動機の衝突が可能であるということは、「指令」ないし「命法」という術語によって含意されている。というのもこうした語は、理性と単なる傾向性ないし理性的でない衝動とのあいだの関係を、支配者の意志とその配下の者の諸意志のあいだの関係に比することで描き出すものだからだ。また、同じ衝突の可能性は、日常的な道徳言語における「べき」「責務」「道徳的義務」などという語によっても含意されている。だからこそこうした術語を、理性と衝突するような衝動を帰することができない〔純粋に〕理性的存在に対して適用することはできないのであり、このことは、「正しい」や「理にかなっている」といったおおむね同じ意味を持つ術語にもまたあてはまる。本章のはじめで私は、「理性が動機として振る舞うか否か」というのは議論の余地のある問題だと指摘しておいた。だが、本節で主張された倫理的判断にかんする見解を受け入れてくれる者ならば、理性的で意志的な行為者が行う倫理的判断が一定の種類の行為への衝動と少なくとも不可分に結びつきあっており、その衝動は理性的でない欲求や傾向性とは区別しなくてはならないものだということを、否定しないだろうと思う。もしそうであるならば、単なる認知(ないしなんらかの純粋に知的な操作)が意志に影響しうるか否かという問題は、心理学的観点からはいかに興味深い問題であろうとも、実践的な重要性をもつものだとは私には思われない*3

★[以下3版のみ]ここで、〔「べき」や「正しい」といった〕術語が用いられるさいの2種類の異なる含意を区別しなくてはならない。この区別は、「であるべき」だと判断される帰結が、その判断が適用される状況における個人の意志によって実現可能だと考えられているか否かによって分けられる。実現可能だというのは、厳密に倫理的な「べき」の含意だと私は考える。最も狭い倫理的な意味では、私はあることをすべきだが同時にそれができないと判断している、というのは理解不可能である。ただし「べき」には、日常の言語の中にあって簡単に捨てられないより広い意味がある。この意味では、私はよりかしこい人なら知っているはずのことを知る「べき」だとか、より善い人であれば感じることを感じる「べき」だという判断が、そうした知識や感情を自分の意志の努力で直接生み出すことはできないと自分でわかっている場合であっても、下される場合がある。この場合の「べき」という語は単に、私ができるかぎり真似しようと試みる「べき」(ここではより厳密な意味で)理想や型のことを含意しているのである。そしてこの広い意味のほうが、「べき」という言葉が技芸[Art]における指令一般や政治的判断のなかで使われるさいの普通の意味なのである。我が国の法と政体は今とは異なるものである「べき」だと私が判断する時、もちろん私は、私自身や誰か他の個人の単一の意志がその変化を直接実現しうるなどとは含意していないのだ*4。とはいえ、いずれの意味で「べき」を使うにせよ、私は(上で述べたように)自分の判断が客観的なものであるということは確かに含意している*5。つまり、私が「正しい」ないし「そうあるべき」だと判断していることは、私が誤っているのでない限りは、本当にその事柄について判断している理性的存在者であれば誰でも同じように考えることであるはずである。

 このような判断に「理性」という語をあてることで、私は単にこの「客観的」ということ以上のことを言おうとはしていない。道徳判断には普遍的原理からの推論[reasoning]過程によってのみ到達可能であり、個々人が持つ個別的な責務を直接的に直観することでは到達できない、などと言おうとはしていない。ただしたしかにこうした含意は、他の思考の領域でならば、「理性」という術語の使用によって示唆されるのが自然である。私たちは個々の物理的な事実に関して、それが理性によって理解されるなどとは普通言わない。理性という能力は、判断や命題の関係にかかわる論証的操作のためのものだと私たちは考えているからだ。また、論理や数学の公理のような普遍的真理の把握は、直観的理性にのみ許されるとされる(この直観的理性というのがここでは問題なわけだが)。さて、すぐに見るように、道徳的能力がまずもって個別事例にかかわるというのはそう珍しい理解ではない。道徳的能力は、責務という一般的な概念を個別事例に直接適用したり、この状況でこの人物は何をすべきなのかを直観的に決定したりするのだ。こうした見解の下では、道徳的真理の把握は(いわゆる)理性的直観というよりはむしろ感官による知覚に近い。だからこそ、道徳感覚という術語がなかなか適切なものに見えるのかもしれない。しかしながら感官[sense]という術語が示唆する能力は、〔同じ状況に対して〕異なる感情を生じさせ、しかもその一方が誤りだというわけではないような能力であり、これは客観的な認知の能力とは対照的である*6。この事情があるゆえに、こうした客観的な認知の能力を指す場合には理性という術語を使い、しかし上で説明したようにこの理性というのを普遍的な認知に限らないほうがよいと、私は考えている*7

 さてさらに私は、べきという語を厳密な意味*8で使って「Xがなされるべきだ」という認知ないし判断がなされる場合、これをその判断の関係者に対する理性の「指令」ないし「指示」であると語る。この際に私が含意しているのは、理性的であるかぎりの理性的存在においては、こうした認知が行為への衝動ないし動機を与えるということだ。人間においては、もちろん、正しさの認知が与える動機は様々な動機の一つにすぎず、こうした様々な動機は互いにぶつかり合い、正しさの認知が与える動機が支配的動機になるとはかぎらない。そうならないのが普通かもしれない。このように動機の衝突が可能であるということは、「指令」ないし「命法」という術語によって共示されているようだ。というのもこうした語は、理性と単なる傾向性ないし理性的でない衝動とのあいだの関係を、支配者の意志とその配下の者の諸意志のあいだの関係に比することで描き出すものだからだ。また、同じ衝突の可能性は、日常的な道徳言語における「べき」「責務」「道徳的義務」などという語によっても含意されている。だからこそこうした術語を、理性と衝突するような衝動を帰することができない〔純粋に〕理性的存在に対して適用することはできない。ただし、そうした存在についても、その行為が「理にかなっている」とか(絶対的な意味で)「正しい」と言うことはできるであろう。

*1:私は認知という言葉を、つねに、「一見したところの認知」と言ったほうがいいかもしれないような意味で使っている。どういうことかというと、私は認知の妥当性を肯定するつもりはなく、ただ単に精神的事実として認知が存在するということを肯定しているだけなのである

*2:「道徳において、私たちは自らに指令や指示を与える」と言われることがある。これはある意味では、もちろん正しい。たしかに、理性の指令はそれ自身では私の行為に影響せず、私が私の理性を用いてその指令を認識することが必要だからだ。だが、上のような物言いはミスリーディングであるように私には思える。というのもこのような言い方では、理性的な選択と単なる熟慮的な選択の区別、つまり、私たちの客観的な正しさないし善理解に従って行為が選ばれる選択とそうした理解が関係してこない選択のあいだの区別が無視されてしまうからだ。

*3:ただし、「べき」の通常の用法のなかには、自由意志に関する議論を経なければ解消されない曖昧さがまだ残っている。 cf. post, ch. v. p. 57, note

*4:また、個々人のなんらかの組み合わせによってなら、私が存在す「べき」だと考える政治的関係の状態が完全に実現する、とも含意していない。〔政体に関する〕私の考えは、実践と何の結びつきもなければ不毛なものではあろう。だが、そうした考えは、実際には近似しか可能ではないようなパターンを描くものにすぎないかもしれないのである

*5:「客観的」という術語を正しい行為に対して使うのには、一定の難しさないし曖昧さがある。この点については後に扱いたい(Book III., chap. i. §3)。ただしそうした困難は、この術語の意味について本文で与えたシンプルな説明に修正を求めるものではないと私は考える

*6:私は認知という言葉を、つねに、「一見したところの認知」と言ったほうがいいかもしれないような意味で使っている。どういうことかというと、私は認知の妥当性を肯定するつもりはなく、ただ単に精神的事実として認知が存在するということを肯定しているだけなのである

*7:理性という術語をこのように拡張して使うことに対する更なる正当化は後の章で行う(ch. viii. §3)

*8:本書では「べき」というのを常にこの意味で用いる。ただし、文脈によってより広い意味で使っていることが明らかな場合はこの限りではない(政治的な「べき」の場合など)