えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

義務論は情動的で功利主義は認知的な件、あるいは義務論は後付けの合理化 Greene (2007)

Moral Psychology: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development (The MIT Press)

Moral Psychology: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development (The MIT Press)

カントのジョーク:カントは凡人をひっくりかえらせる仕方で凡人の正しさを証明しようとした。カントの魂に秘められたジョークである。カントは学者を相手に大衆的偏見に味方したが、大衆ではなく学者に向けて書いたのである。 −− ニーチェ『華やぐ知恵』 193

・ハイト(Haidt 2001)は、道徳的判断は情動にかられた直観に基づくと主張したが、道徳判断の種類には目を向けなかった。一方バロン(Baron 1994)は、非帰結主義的判断はヒューリスティクスに基づくと論じたが、感情は強調されなかった。
・この論文は両方の視点に立つ。義務論的判断は情動反応に駆動される傾向があり、義務論哲学は道徳的「推論」に基礎を持つのではなく道徳的「合理化」の運動である。一方、帰結主義はより認知的で道徳的推論を含む心理過程から生じる。これらの経験的主張は、義務論を疑う規範的含意をもつ。

まえおき

義務論と帰結主義を定義する

・義務論は道徳規則を強調する理論として定義される。すると、義務論が推論を基礎にしてないという主張は定義から偽に見える(カント「情動のみからの行為に道徳的価値は無い」)。
・しかしここでは、「義務論」や「帰結主義」という語を、「心理的自然種」、つまり、2つの異なる道徳的思考の仕方を指すものとして使う。哲学における義務論的/帰結主義的な見解は哲学的発明ではなく、こうした心理的パターンの顕在化である。そして、哲学者の定義とは別に、自然種の本性は経験的探求によって明らかにする事が出来る。
・心理的自然種に関心がある我々は、哲学的定義よりも特徴的な機能的役割を強調する。典型的な帰結主義者は、何人かを救うために一人を殺す事を場合によって正しいと判断する。義務論者はしない。この不一致によって、帰結主義的判断と義務論的判断を機能的に定義する事が出来る。この定義の下では、本論の経験的仮説にもチャンスがある。義務論に特徴的な判断が情動に駆動されているならば、そうした道徳的判断への合理的正当化をうみだすことが、義務論哲学の本質である可能性がある。

「認知」と「情動」を定義する

・「認知的」表象は中立的な表象であり、特定の行動反応や傾向性を自動的にトリガーしたりしない。一方「感情的」表象はそうした自動的効果を持つ。柔軟な行動には認知的表象が必要だが、ステレオタイプ的行動には必要ない。
・「認知的」処理は、「高次実行機能」(推論・計画・WM内での情報の操作・衝動の制御など)に重要である。これらの機能は、前頭前皮質の背外側部や頭頂葉と主に関連する。一方で情動は、扁桃体や、側頭葉および頭頂葉の内側面に関連する。心理過程と道徳判断の関係は次のように整理できる。

義務論 功利主義  
認知的 認知的 Kohlberg
情動的 認知的 Greene
認知的 情動的 伝統的見解
情動的 情動的 Haidt

科学的証拠

神経画像研究からの証拠

・トロッコジレンマと橋ジレンマで人々の反応が違うのは何故? Greene et al. (1992) は、「「近くで・パーソナルな形で」人を押して死に至らせるという思考は情動的に顕著で、情動反応の違いが反応の違いを説明する」と考えた。つまり人は情動反応が低い場合には帰結主義的に、高い場合には義務論的になる(パーソナルな暴力に対して否定的情動が喚起される事は、協力のために行動を制御する手段として進化したと考えられる)。
・実際、パーソナルなジレンマについての熟考は情動反応や社会的認知に関連する脳領域(後帯状皮質・前頭 前皮質・扁桃体/上側頭回)、一方パーソナルでないジレンマについての熟考は高次認知に関連する脳領域(下頭頂葉・背外側前頭前皮質)の活動の増加を生む(Greene et al. 2001, 2004)。また、パーソナルなジレンマに対する功利主義的判断はRTが長く、情動的反応を抑制していると考えられる。一方パーソナルでないジレンマではRTに差はない(Greene et al. 2001, 2004)。
・さらにパーソナルなジレンマを、RTを基準に「難しい」(泣く子供ジレンマ)と「難しくない」(嬰児殺しジレンマ)に分ける。両方とも否定的感情を喚起するが、難しい方では功利計算が功利主義的判断を推奨すると考えられる。両者を比較した時、難しいジレンマでは反応競合と認知に関連する脳部位の活動増加が予測されるが、これは実際見いだされた(前帯状皮質および前背外側前頭前皮質・下頭頂葉)(Greene et al., 2004)。また、難しいジレンマで帰結主義的判断をする人の脳は、より大きな認知的活動を示す。

  • 【まとめ】:道徳判断は少なくとも2つの異なる心理過程の産物である

(1)パーソナルな危害への反対を促す情動的過程
(2)強い帰結主義的根拠がある場合に情動的過程に干渉するより認知的な過程

情動と、道徳的義務感

・Singer (1972) は、近くで溺れている子供を助ける義務があるのに遠くの飢えた子供を助ける義務が無いはずがないと論じる。この2つの事例にはやはり違いがあるように思われるが、何が重要な違いなのかを説明するのは難しい(Kagan, 1989; Unger, 1996)。
・この問題も、トロッコ問題と同じように理解出来る。溺れる子供を助ける事は「近くで・パーソナルな」ものだが、遠くの子供を助けるための寄付はそうではない。前者のみが情動を喚起するので、我々は援助の義務を感じるのである(Greene, 2003)。実際Greene et al. 2001, 2004では、パーソナルなジレンマに一種の溺れる子供事例が、パーソナルでないジレンマには寄付事例が含まれていた。

情動と、同定可能な被害者を押すこと

・ある人が「近くてパーソナル」であることの一面として、その人の同定可能性が挙げられる。既に多くの研究者が、統計的な被害者に比べて同定可能な被害者に対して差し迫った応答を行う人間の傾向を観察してきた(「身元のわかる被害者効果」)。既にSchelling (1968) は、「同定可能な被害者はより強い情動反応を引き起こす」という仮説を提示したが、Small and Loewenstein (2003) はこの仮説を実験で支持した。
・被験者にはまず基本金が与えられるが、その後引いたカードによっては没収される(被害者)。被害者でなかった者はくじを引いて出た番号の被害者とペアをくむ事になり、被害者に対して基本金を(どのくらい)分けるか問われる。この時、分ける金額を決める前に相手の番号を引いていると、後の場合より平均金額が6割も高い。この行動パターンには合理的根拠が何も無く意味不明だが、鍵はやはり情動にある。次なる研究で、被験者には被害者に対する同情と哀れみの程度の報告を求められた。すると、この感情の程度は渡す金額の程度をトラックしているのである。

怒りと、罰への義務論的アプローチ

・罰の正当化にあたって、帰結主義者は将来の有益な効果に、義務論者は応報に訴える傾向がある。幾つかの実験は、人々は具体的場面では応報主義者的であると示す。
・Baron and Ritov (1993) は、ある企業のワクチンで子供が死んでしまい、罰金が求められるというシナリオを用意する。ただし被験者には罰金によってより安全なワクチンを作るようになる(抑止)とされる事例と、罰金によってワクチンが全て作れなくなり(否定)悪い帰結が生じるとされる事例の両方が示される。被験者は各々の事例で罰金は適切か、また両事例で罰金額に差があるべきかを問われる。すると、大多数は罰金額に差があるべきではないと答える。つまり、帰結主義的な要因を全く考慮しないのである(またBaron, Gowda, & Kunreuther, 1993)。
・では人々の加罰の動機は何なのか。Kahneman, Schkade, & Sunstein, (1998) は似たような仮想事例にたいし、それがどの程度言語道断(outrage)かと、どの程度企業に加罰すべきかを尋ねた。両スコアは殆ど完全に相関したため、加罰の欲求は情動がかき乱された(outraged)程度の殆ど完全な関数だと論じられた。
・またCarlsmith et al., (2012) は、帰結主義者なら考慮に入れるだろう要因、検挙率と判決の公開性が異なる様々なシナリオを被験者に提示し、加害者に与えるべき罰の程度を尋ねた。するとシナリオ間で罰の推奨の傾向性に優位な違いは見られなかった(被験者は抑止的な矯正制度や企業ポリシーには全体的に支持を示していたにもかかわらず)。続く実験で帰結主義的に思考せよと教示が入ると、全ての事例で罰の程度が少し上がった(つまり、検挙率や公開性に基づく帰結主義的判断をしたのではなく、受けるべきだと思われた罰に、抑止のための罰をちょっと足したのである)。また、ここでも被験者が報告した言語道断さが罰の厳しさの良い予測因子になっているし、構造方程式モデルは、減刑事由の存在や刑罰の厳しさなど加罰判断に与える要因が、言語道断さを通して効果を持っている事を示唆している。
・さらに、Small & Loewenstein (2005) は、「投資ゲームにおいて共有投資プールにお金をあまり出さない利己的なプレイヤーを加罰する」という設定の下で、「身元のわかる被害者効果」と類似の効果を見いだした(相手の番号がわかっていると罰が大きい)。
・最近の脳画像研究は加罰欲求が情動に駆動されていることを示す。最後通牒ゲームでは、ゲームが一回しか行われなくとも、不公平な申し出は断られる(つまり不公平な提案者を罰する特権のために応答者は支払っている)。Sanfey et al. (2003) は、不公平な提案に対して前部島皮質(怒り・嫌悪・自律神経興奮)の活動増加を見いだした。また前部島皮質の平均活動レベルは申し出が拒否される率と正の相関を示し、また相手が機械だという信念によって活動レベルは下がる(また信用の裏切りと尾状核に関して de Quervain et al., 2004)。

  • 【まとめ】

人々は抽象的に罰の正当化を求められると帰結主義的になる(Carlsmith et al., 2002; Weiner et al., 1997)。しかし、より状況が詳細で特定の個人に関連する具体的状況では、罰の帰結には不感になる。また、自己報告および脳画像研究は、人々の義務論−応報主義的傾向は情動に駆動されている事を示している。

情動と、無害な行為に対する道徳的非難

・帰結主義者は有害な帰結で行為を評価するが、義務論者に帰結に関係ない。ここで、無害な行為(遺言破る・国旗で掃除・事故死した犬食べる・兄妹でキス・鶏獣姦)への道徳的非難に関するHaidt, Koler & Dias (1993) の間文化研究(ブラジル・アメリカ)が次の点から興味深い。

  • (1)無害な行為への道徳的非難は情動に駆動されている
  • (2)より認知的アプローチをとるように奨めることで、非難しないようになる

・無害な行為に対してなぜ道徳的非難がなされるかには二つの仮説がある。一つは、「その行為は有害だと知覚されている」(Truriel, Killen & Helwig, 1987)、もう一つは「情動が非難を駆動している」。前者が正しければ「この行為は誰かを傷つけましたか?」 という問い、後者が正しければ「この行為はあなたを不愉快にさせましたか」という問いへの肯定的回答が、道徳的非難の良い予測因子になるはずである。この点で、後者の方がより良い予測因子であった。
・また、(1)社会経済地位が高い(教育されている)(2)西洋化された都市に住んでいる(3)大人である、の3条件が道徳的非難を減らす事がわかった。これは「情動的反応がまず道徳直観を駆動するが、認知的な統制過程がそれを抑制する事がある」というモデルの下では理解しやすい(西洋人が認知的に発達している訳ではないが、道徳信念や価値を抽象的に議論・正当化する傾向はあるし、他の文化より多元主義的で他の視点を意識している)。
・なお、国旗で掃除や犬食を義務論が非難するかは難しい点ではあるが、約束の反故は明らかに非難対象であり、この事例でも上記の差ははっきり出ている。
・さらに、無害な行為に対する道徳的非難には情動が関わっている事を示すより直接的な証拠がある。Whealtley & Haidt (2005) は催眠術で道徳無関係語と嫌悪を結びつけ、またSchnall et al., (2004) は汚い机を使って嫌悪を誘起する。こうした条件下では、(問題の道徳無関係語で提示された)無害な行為に対する道徳的非難が増加する。

道徳判断の二つのパターン

・以上の様々な実験は、「義務論的な道徳判断パターンは情動反応によって駆動されているが、功利主義的判断は認知的過程によって駆動されている」ことを示すように収斂している。では何故義務論と情動が結びつくのか? 答えは2部に分かれる

  • 【1】道徳感情は社会的生活によって生まれる特定の問題に自然な解答を与える

・近年、多くの研究者の間で、我々の基本的な道徳的傾向性のほとんどが社会的生活の要求や機会に対応するための進化的適応であるというコンセンサスが出来上がりつつある。こうした理論を信頼しよう。今問題なのは、適応的な道徳行動がなぜ他でもない「道徳情動」によって駆り立てられるかである。答えは、情動は繰り返される状況に対する信頼可能で素早く効果的な反応だからだと考えられる。一方こうした状況では、推論は信頼できず、遅く、効果的ではない(see. Sober & Wilson 1998, ch. 10)。

  • 【2】義務論哲学は道徳情動の自然な認知的な解釈を提出する

・続いてなぜ道徳情動の存在が義務論哲学を生むのか。まず、多くの心理学者が繰り返し示しているように、人間は自分が何故いまその行為をしているのかわからない時、尤もらしいお話を作り上げる強烈な傾向を持っている(Nisbett & Wilson, 1977; Wilson, 2002; Dutton & Aron 1974(吊り橋効果); Struss et al., 1978 (コルサコフ症候群患者の作話); Estabrooks, 1943 (催眠術下); Gazzaniga & Le Deux, 1978 (分離脳))。
・ところで、直観的な情動反応によって駆動される道徳行動を行う生き物が、同時に自分の行動を後付けで合理化を行う傾向性も持つと……義務論的道徳哲学が出てくる。義務論は一種の道徳的作話である。我々には、「何かが端的になされてはいけない」あるいは「絶対になされなければいけない」とはっきりとしかし不確かな形で伝えてくる強い感情がある。そして我々は特に創造的な哲学者の手を借りつつ、合理的に魅力ある話を作り上げるのである。「ふくよかな人にも「権利」がある。だから押してはいけない!」。
・しかし、どうして道徳全体ではなく義務論だけが道徳情動の合理化だといわれるのか(cf. Haidt 2002)? 答え:帰結主義的判断は情動に(少なくとも義務論のような「危険信号としての情動」に)駆動されたものではなく、より認知的なものだから。
・既にみたように多くの証拠がこの仮説を支持している。また、帰結主義と認知的過程の間には自然な関連がある。帰結主義的判断はあらゆる要素を阻却可能なものとして考慮に入れ、重みづけてバランスを取る問題であるから、この際には、行為的な負荷がない認知的な表象が不可欠なのである。
・帰結主義的判断には情動が一切関与していないと言いたい訳ではない。むしろ全ての道徳判断には情動が関わるだろう。しかし、「重み付けプロセス」は「警告プロセス」ではない。義務論的判断において感情は、「やめろ!」と言うが、帰結主義的判断では「○○は重要です。考慮せよ」と言うだけである。また、義務論的判断が認知的であり得ないとも言ってない。定言命法について明示的に考えて判断をする事は出来る。しかしそれは我々が義務論的判断にたどり着くふつうのやり方ではない。一方で功利主義的判断にたどり着くためには実際に推論しなくてはならない。
・〔……〕

規範的含意

心理学的な「である」と道徳的な「すべき」

・ここからは、以上の仮説が正しいとした上で規範的含意を考えていく。多くの道徳哲学者は科学的探求は自分たちと無関係だと考える。しかし、科学的真理から道徳的真理を導きだせないにしても、道徳的思考が依拠する事実的前提に挑戦することはできる。とりわけ、道徳心理学は道徳的直観についてより良く理解する事が出来る。

理性主義、合理化、義務論的判断

・相手の合理化を言い当てるには、(1)相手の判断を予測するような要因を見つけ、(2)その要因が、本人が自分の判断の根拠だと考える要因とは関係ありそうにない事を示せば良い。この方法で、「義務論的判断は権利や義務などの抽象的な理論の観点から正当化される」という義務論の理性主義的理解に反対する事が出来る。
・ここまでで既に(1)感情的反応を予測要因として同定した。続いて(2)の作業がある。理性主義者はその定義からして、「ある行為が善い/悪いのは我々の情動によって決まる(基盤を持つ)」とは言えない。すると、なぜ義務論と感情が同じ事を推奨するのだろか。この一致を理性主義者は説明しなくてはならない。
・カントは、道徳法則に従って行為する事を励ますようにデザインされた情動的傾向性を神が与えたと説明した。しかし21世紀の理性主義者は、この一致が偶然ではない事、および、道徳情動は理性で発見される義務論的な道徳的真理をトラックしている事を、神無しで((文化的)進化で)説明しなくてはならない。
・理性主義にはさらに難点がある。義務論的直観は道徳関係ない要因の影響を反映していると思われるからだ。我々がパーソナルな道徳的違反に対して情動的になるのは、その種の違反が我々が進化した環境のうちにあったからだろう。すると、橋ジレンマで我々が義務論的直観をもつのは、進化の歴史の偶然的で道徳関係ない特徴による事になる。重要なのは、「道徳直観は理性によって発見できる深い真理を反映している」と唱えるどの仮説も、我々の仮説とは折り合いが悪いという点である。
・またしばしば義務論者は応報論者であり、悪人を目的自体として扱う。しかしこれも道徳的洞察ではなく心の進化の副産物にすぎない。自然は、まず将来の協同の利益を守る欲求を我々に与え、続いて非協調者への加罰がそのよい手段だと認識させる手段を与える事も出来た(加罰功利主義者としての我々)。しかし実際は、非協調者をそれ自身として(罰が善を生まなくても)罰する直接の欲求を与えた。この種の選択において自然は直接的な方を選ぶ事が殆どである。食物、性交、快適な場所にいる事、これらは〔内在的に〕快であるが故に欲される。同様に、加罰は満足を与え(de Quervain et al., 2004)、加罰されない違反は不満である(Carlsmith et al., 2002; Kahneman et al., 1998; Sanfey et al., 2003)が故に、我々は加罰する。すなわち、加罰へ駆り立てる情動は、生物学的に善い帰結をもたらすための「なまくらな生物学的道具」であり、その「効果的だが単純なデザイン」の副産物として、生物学的に何の善い帰結も期待できないところでも加罰してしまうのである。我々は応報傾向が遺伝子の拡散に有利だから応報を好むであり、「悪人は帰結に関係なく罰するに値するから罰するから」ではない。
・進化の副産物であると自動的に誤りだと言いたい訳ではない。「副産物として進化た傾向性が、それと独立の、理性によって発見される道徳的真理と一致しているのはありそうにない」と言っているのである。加罰の応報主義論に我々が引きつけられるのは、むしろ、進化の産物である情動的傾向に引っ張られていると考える方が尤もらしい。
・ここでisからoughtを演繹的に導出したのではない。最善の説明への推論によれば、義務論的哲学は情動的直観の合理化なのである。

義務論をずらす

・理性主義的義務論者「お前はカントをゼンゼンワカっとらん! 義務論は直観がどうこうという話ではない。人間性、人格の尊敬、他者を理性的存在として扱う事、合理的存在者が共有できる理由に従った行為うんぬん……を語っているのじゃ!」
・こうした標準的見解は誤解を招きやすい。いま提示された諸価値は別に義務論的ではないからだ(内輪の人にはそう見えないらしい)。功利主義者だって、「意思決定過程で全ての人の幸福を考慮する」という仕方で人格を尊重し、「一人を一人として数える」ことで合理的存在者なら共有できる理由に従っている。つまり義務論者の自己定義では、義務論とその他の道徳的立場をうまく差別化できない(Kagan, 1997)。
・むしろ義務論を特徴付ける良い方法は、他の理論との具体的な不一致点から出発し、より奥にある原理にさかのぼる事だろう。これこそトロッコ問題を使ってやろうとしている事なのである。権利や人格の尊重や共有できる理由について喋る事は、橋ジレンマにおける直観を認知的用語で説明する自然なやり方である。こうした説明は殆ど説明になってない(「殺人だからだ!」「権利は尊重しなきゃ!」……)が、力強い直観に声を与えてくれるので、「なんか深い意味で正しい事」のように思える。しかし、それは義務論特有の事を教えてはくれない。
・カントや義務論を誤解しているように見えるのは、それに新しい理解を与えようとしているから、義務論の隠れた心理的本質に関する経験的仮説を提示しているからである。そしてこのような仮説はアプリオリに排除できるものではない。

進化論的な道徳心理学と人類中心主義的道徳

・啓蒙の夢をあきらめた穏健な義務論もある。直観は、理性的理論によって正当化されるからではなく、「それがわれわれの直観だから」正当化されるのである(道徳に対する「人間中心的」アプローチ(see Haidt & Bjorklund Vol, 2))(こうした方向は最近よく見られる。義務論内部でもロールズの構成主義や、人間の「実践的アイデンティティ」から規範的要請が来るというコースガードがいる)。こうした哲学者は道徳直観に挑戦しない。道徳的な徳や感受性やアイデンティティが歴史的に変わるだろう事を認めるが、積極的に変えようとはしない。
・これまでの議論の対象になるのは理性主義的義務論者だけではないかもしれない。義務論的直観は我々の進化史における状況と制約にかかわる道徳関係ない要因によって作られていると思われる。この事は、こうした直観に味方する全ての人にとって問題になる。あるいは、遠くで人が飢えている時に外食することは許されるという直観は特に「義務論者」でなくても常識的なものなので、「非帰結主義的直観」と言う方が精確かもしれない。我々が、溺れている子供を無視するのはダメで遠くの飢えた子供を無視するのはよいと言う時、その「唯一の」理由が「前者は情動を喚起するから」である場合、我々は良心を持ってそういう常識的直観の側に立てるだろうか? もちろん、持つもの全てを投げ捨てて知らない人を救えと言いたいのではないが、しかし道徳的直観の起源を知る事は、我々のバランスをより帰結主義的方向へと変えるだろう。
・しかし、滑り坂のどこで止まれば良いのか。他所の子より自分の子を愛するのは自分と遺伝子を共有しているからだと知ったとき、自分の子供を溺愛するのをやめるべきか? 遺伝子を将来に残すために我々は自分に気を配ると知った時、自分の事なんて放っておくべきなのか? 
・これこそが、人間がますます科学的に自分自身を知る事になった時代における尤も根本的な道徳的問いであると、私は思う。この問題をここで扱おうとは思わない。しかし、帰結主義の原理が、真ではないものの、変化させる方が懸命な人間本性の側面を決定するための基準や公共的意思決定の基準として目下のところ最善のものだと考える(Greene, 2002; Greene & Cohen, 2004)。