えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

カントによる知・情・意三能力説の確立 Beck (1969)

Early German Philosophy: Kant and His Predecessors

Early German Philosophy: Kant and His Predecessors

  • Lewis White Beck, Early German Philosophy: Kant and His Predecessors (Cambridge: Harvard University Press, 1969)

 カントは、三能力説を明確かつ整合的に主張した最初の人物である。〔人間の精神には〕三つの自律的な能力、すなわち、それぞれ互いに還元不可能(一方から他方を証明不可能)な原理を備えた、互いに還元不可能な能力が三つある。認知、快苦の感情、欲求である。ヴォルフはこのうちの一つ、すなわち認知(表象能力(facultas repraesentativa))のみでやっていこうとしたが、敬虔主義者はそこに意志を付け加えた。メンデルスゾーン、ズルツァー、テーテンスは(いくぶん混乱した仕方で)感情ないし評価能力(Billigungsvermörgen)を付け加えたが、メンデルスゾーンもテーテンスも、その自律性と独立性を維持することができなかった。というのは、欲求充足による快ないし人を行為に駆り立てる快と、芸術的卓越から生じる快のあいだに、はっきりした区別を設けることができなかったからだ。一方カントは、芸術経験を精確に現象論的に検討することで、この区別を立てることができた。カントによると、美的判断は規範的なものであって記述的なものではないから、そこには認知的判断や道徳的判断のなかに必然的にあるもの、すなわちアプリオリなものの、類似物があるはずだ。ところで、もし美的判断のアプリオリな必然性が、知的判断や道徳的判断のそれとは違うものだとすれば、認知の能力や意志の能力があるように、美的判断のための「能力」があるはずだ。このようにして、ついてドイツ哲学は精神の諸能力を識別し区別する明確な基準に到達した。すなわち、アプリオリな判断の種類が異なるならば、それに対応する特殊で独立した精神の力能(Vermörgen)ないし能力があるはずである。
 おそらくカントは、美しい絵画や見事な彫刻を見たことがなかっただろし、「雑然と無秩序にたがいに重なりあいつつ、氷のピラミッドをいただいた不格好な山岳群、あるいは陰鬱な荒れ狂う海洋」〔26章, 原佑訳〕を見たことは絶対になかっただろう。音楽の趣味も完全に凡庸だったように思える。ただし文学に対してだけは、彼の批評的な感覚は洗練され研ぎすまされていた。ともあれ、崇高なものや美しいものにかんするカント自身の経験は非常に限られていたが、しかしそれだけに彼は、そうした経験の本質的特徴を、先行する誰よりもよく把握することができた(ただしバウムガルテンは例外である)。メンデルスゾーンやズルツァーらも、美的価値と知的価値の違いは理解していたが、美的なものを意志的で道徳的なものからはっきり切り離すことができなかった。カントは、感性的完全性にかんするバウムガルテンの発見をはるかに押し進め、感性的なものは知的で概念的なものから独立なだけではなく、感性的な満足、欲求の感情、意志の狙いの実践的充足からも独立であると理解するに至ったのだ。
 カントの考えでは、第三の能力の確立により、認知と欲求にリンクが与えられ、超越論的な心理学は完全なものとなる。また感情という第三の能力は、判断の能力のようなものでもあり、他の二つの認知的能力つまり知性と理性のリンクとなるとされる。このように整然と建築された能力の一覧表は『判断力批判』序論の末尾に置かれているが、私の考えではこれは単なる飾りにすぎない。感情かんして一番重要なのは、それがカント哲学を何らかの重要な形で「統一」するということでは無くて、それが芸術の正確な現象論的記述の上にしっかりと基礎づけられていること、美的判断のアプリオリな性格を理解可能なものにしたこと、そして、いかにして芸術が作られ何故それは快いのかについて心理学的仮説を与えた点にある。(pp. 497−498)