えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

純粋悪の神話 Baumeister (2012)

The Social Psychology of Morality: Exploring the Causes of Good and Evil

The Social Psychology of Morality: Exploring the Causes of Good and Evil

  • Mikulincer, M. and Shaver, P. (eds.) (2012). The social psychology of morality. Washington, DC: American Psychological Association.

1. Graham, J. and Haidt, J. Sacred values and evil adversaries: A moral foundations approach.
2. Cushman, F. and Greene, J. The philosopher in the theatre.
4. Bloom, P. Moral nativism and moral psychology
16. Doron, G., Sar-el, D., Mikulincer, M. and Kyrios, M. When moral concerns become a psychological disorder: The case of obsessive-compulsive disorder 
20. Baumeister, R. Human evil: The myth of pure evil and the true causes of violence.  ←いまここ

【要約】
悪にかんする私たちの素朴な理解は、悪人を過剰に悪だとみなしがちであり、「純粋悪の神話」と呼ぶべきものとなっている。だが、悪事を好む根っからの悪人というものは実際にはほとんどいない。実際の悪行は、主に、他の目的のための手段として、もしくは、高い自尊心が脅かされた際の防衛として行われるものであり(まれに、快楽目的の悪行悪行もある)、とくに自己制御能力が低下している状況で生じやすい。

  • 悪とは何か。本章はこの問いに社会心理学的にアプローチする。
  • 悪が不道徳的なものであるということは、科学的研究の中立性にとって障害となる。だがこの障害を多くの社会科学者は軽んじ、理解することと許すことは別物だと強調している。しかしバウマイスターのこれまでの研究は全く異なる結論を出している。悪人の心のうごきや態度を理解することで、私たちはその行いの悪さをかなりの程度低く見るようになってしまう。他方、ほとんどの悪人は、自分の行為が悪だとは思っていない。そこで、〔心理学者の仕事として〕、悪人自身の視点を理解することは、その行為をあまり悪くないようなものとして理解することなのである。社会科学的アプローチは悪人への非難の軽減につながるという道徳的リスクをもつことを、科学者たちは認めなければならないのかもしれない。
  • ほとんどの悪人は自分の行為を悪だと思っていないので、「あらゆる人が悪だと同意する対象」を研究することはできない。そこで問題を再定式化し、「なぜある人は、べつの人が悪だと考えることをするのか」とする必要がある。この問いに答えるには、「人々が悪をどのように知覚しているか」と「なぜ人々はそのような行為に動機づけられるのか」の二つの理解が必要である。〔後者はさらに、〕根本原因の問いと至近原因の問い〔に分けられる〕。以上3つの問いがそれぞれの節で扱われる。
純粋悪の神話
  • 悪がどう知覚されているかを理解するひとつの便利なやり方は、マンガから神学まで様々なソースにおいて悪がどう描かれているかを調べることだ。調査の結果、いくつかの一貫した要素を発見することができた。それらの要素はまとめて「純粋悪の神話」と呼べるものを形作っている。
  • 〔要素を紹介する前に言っておくと、〕悪の知覚の重要性は、客観的なデータを集める際の作業仮説や素朴な対抗仮説を提供してくれるということに留まらない。
  • まず、人々は実際の事例を純粋悪の神話の方にひきつけており、悪人の行為はある程度は誤解されているだろう(実際、これまでの社会心理学の研究から考えて、被害者ないし観察者が悪者の行為をバイアスなしに理解できるとしたらそちらの方が驚くべきである)。悪人の方では、自分の行為は誤解されており不当に非難されていると言っても〔ある程度は〕正当なのかもしれない。実際、被害者にとってテロリストは罪のない人を無意味に殺す極悪人であるが、テロリストの方からしてみればそれは自由や尊厳のための闘いであり、被害者は抑圧の共犯者だとさえ知覚されているかもしれない。もちろん、だからといって悪人が潔白だということにはならないが、しかし多くの事例で、悪人の行為は告発者が言うほど酷くはないというのは、全くありそうな話である。これはあまり気持ちのいい可能性ではないが、無視はできない。
  • 次に、悪の知覚の研究は研究者にとっても方法論上の重要性を持つ。研究者も人であり、純粋悪の神話のレンズで悪人を見てしまうからだ。例えば精神科医のJay Liftonは、ナチ医師へインタビューするなかで、彼らと同じように世界や出来事を見、共感をおぼえることがあった。その度に、このナチ医師たちは悪の怪物であり、自分たちのようなまともな人間ではないと自らに言い聞かせ正気を取り戻したという(Lifton 1986)。だがこの態度は社会科学者としては失格である。悪人を悪人自身の観点から理解することをやめると言うのは、道徳的非難のほうに肩入れして科学的理解を放棄することだ。
  • 純粋悪の神話の主要な特徴は8つある(5.7.8.は他と比べると少ない)

1.悪とは、他人を傷つけることである。

    • さらに、その危害は熟慮のうえ意図的になされていると描かれることが多い。

2.悪人は、人を傷つけることを楽しんでいる

    • これは現実とほとんど一致していない点である。被害者側の説明では、悪人は笑っていたとか快楽を感じていたなどと強調されるが、悪人側の説明からはそのようなことは全く伺われない。おそらく被害者側が、実際の事例を幾分か神話にひきつけてしまっているのだろう。悪人が、躊躇と葛藤のうえで悪行に及んだと知覚すると、相手の悪さが低く思えるからである。

3.被害者は、潔白で善良である

    • 現実の殺人は、被害者と加害者が相互に挑発しあっておりそれがどんどんエスカレートした結果として生じることが多い。もちろん被害者が潔白ということはあるが、それは神話が示唆するよりもまったく稀である。
    • Hearth (1984) は、同じ事件でも、報道のされ方によって受け手が抱く恐怖に差があることを示した。事件というのは実際のもので、ある郊外の家に見ず知らずの人物が押し入り、住んでいたカップルに暴行を加えたというものだ。男性の方は重体で病院に搬送された。窃盗されたものはなく、犯人は逃走中である。この事件は、ほとんどの媒体ではまさにこのように報道された。受け手は、無差別的な暴力が自分たちのコミュニティの中で生じたことに、当然おおきな恐怖を抱いた。だがある一つの記事では、その被害者の男性はかつて児童買春で逮捕されているという情報が付け加わっていた。この記事を読んだ人々は、純粋悪の神話から遠ざかっていることになるが、恐怖を感じた程度が小さかった。
    • 売春と暴行は無関係であり、売春の情報を載せないのは正当だと主張することは可能かもしれないが、それはちょっとありそうにない。全く潔白な人に対する無差別の暴力は確かにおこるが、私たちが報道からの情報によって考えているよりはおそらく稀である。

4.悪人は、私たちとは似ていない

    • 上述のLifton (1986) では、ナチ医師は真の人間だとは思われていなかった。自分たちのような人間が恐ろしい犯罪を犯すとは考えたくないというよくある欲求の反映である。別の例として、Dower (1986) は、戦時中の日米は互いに相手を異なる劣った人種と見なすことができたために、相手を悪魔のような存在として描くことが助長されたと分析している。また、子ども向けカートゥンにおける悪人たちは、外国なまりの英語で喋るのが一般的である(Hesse and Mack 1991)。

5.悪人は、常に悪人である

    • 映画を見ていて、初めは善良だったが徐々に悪くなる悪役というのはあまりいない。また現実の場合でも、「どんな経験がヒトラーないしポルポトを悪人にしてしまったのか」などと私たちは問わず、「この根っからの悪人がいかにして権力を得られたのか」と問うのである。

6.悪とは、社会的秩序を乱すことである

    • 1. と代替的。多くのホラー映画は幸福な家族の安定した生活を写すところから始まる。そこに闖入する無秩序を際立たせるためである。

7.悪人は、ひどく自己中心的である

8.悪人は、自制を欠く

    • 以下で見るように、この二つは多くの場合真実に近い。だが、やはり強調されすぎる嫌いがある。映画に出てくる悪役は計画が狂い始めると決まって味方同士喧嘩したり殺したりするが、そんな人たちがどうやって巨大組織を運営しているのか不思議に思ったことはないだろうか。
  • 以上が純粋悪の神話を構成する要素である。この神話は、悪人の動機にかんする何か一般的な知識に基づいている訳ではなく、おそらく文化の産物だが、しかし文化差はそれほどないのではないかと考える。
悪の根本原因
  • 純粋悪の神話は、暴力や搾取の動機について現実的で包括的な見通しを与えてくれない。悪人は悪人として生まれ、悪いことがすきだから悪いことをするということになってしまうのである。だが多くの研究を総合すると、悪には4つ(あるいは3つ半)の基本的な原因があることが分かる。

1.道具性

    • 悪行は、たんに目的のための手段としておこなわれることがよくある。悪人が欲するものは、金、土地、力、性など、その他の人が欲するものと大して変わらない。しかし、それらを合法的で許容可能な手段で手に入れることができないとき、人は暴力に走る。そこで、犯罪者の知性が比較的低いことは偶然ではない。知性が高く評価される社会では、知性が低い人は金その他の報酬を手に入れる方法がより限られているのである。
    • 様々な形態の暴力の研究者が、暴力的な手段は長期的には目的達成のために有効ではないと何度も論じてきた。犯罪者の中で豊かになれるものは少ないし、テロリストは望んだ社会を手に入れられない。植民制度が終焉したのも、人が道徳に目覚めたからと言うよりは、結局ペイしなかったからだ。しかし短期的に見ると、暴力は確かに効果的でありえ、しかも既に述べたように、悪人の多くは、自分が欲しいものを手に入れるための方法は悪行しか方法がないと思っている〔このために、人は暴力行為に訴えてしまうのである〕。
    • 道具的暴力の存在は、ある点では、進化の前の段階の名残なのではないかと考えられる(Baumeister 2005)。社会的な動物には、不可避的に、資源の分配をめぐる社会的衝突が生じる。このとき多くの動物では、攻撃能力が個体の地位を定め、より攻撃的な個体が報酬を得ることができる。すると、種内攻撃は社会的生活に対する適応として創発してきたと考えることができる。
    • だが人間は文化を発展させ、金、法律、投票などの非暴力的な衝突解決手段を生み出してきている。近年の調査により、長期的に見ると、20世紀の恐ろしい出来事たちを含めても、対人暴力は減少していることが分かってきている。従って、攻撃は進化的にいえばもはや時代遅れなのだが、しかし人間は社会的動物でありつづけており、暴力に戻ってしまうことがある。このことはとくに、文化的方策が自分にはうまく働かないと感じている人の間で起こりやすいのかもしれない。

2.脅かされた自己中心性

    • バウマイスターが暴力の研究を始めたときには、悪人は自尊心が低いというのが標準的な見解だった。ところが実際に文献をレビューしてみると、悪人はむしろ普通自分自身に対して(時として過剰なまでに)肯定的な見解を持っていた(Baumeister, Smart, and Boden 1996)。また自身が行った実験室内の研究でも、自尊心の低さと攻撃を結びつける説には支持が得られず、むしろ、ナルシストがより暴力的であるという結果が繰り返しえられた(Bushman & Baumeister, 1998)。ナルシシズムと自尊心を分離した場合でも、自尊心の影響は無視できるか、あるいは、高い自尊心がナルシシズムの効果を強くする形で攻撃性に寄与していた。
    • だが、高い自尊心が暴力の原因だと単純に考えることはできない。というのは、暴力が生じるのはその自己イメージが脅威にさらされたり傷つけられたりしたときだからである。例えばある実験では、感謝を受けたナルシストの暴力性はナルシストでない人と同じくらいであることが分かった。従って攻撃は、本人もしくは他人からの批判に反駁し、自尊心の欠如を回避するための戦略として創発してきたのだ。
    • 攻撃が批判への反駁となるという考えは反直観的かもしれない。たとえば知性をバカにされたとき、相手を殴ったとしても、別に自分の頭は良くならない。だが、これで望ましい自己像が保てるというのは何となくわかる気もするだろう。おそらく批判に対する反駁という攻撃の機能は、ここでも、人間の進化的な過去に起源を持つのだと思われる。実際多くの動物の場合、アルファ雄は挑戦者を攻撃することで自分の地位を守るのである。

3.理想主義

    • 右翼的でも左翼的でも、人は理想の実現のために暴力を行うことがある。これは、本人は良いことをしていると信じているので、もっとも悲劇的でつらい原因だと言える。
    • 理想はしばしば、より基本的な動機(富など)の存在を隠すために引き合いに出されることがある。だが、真剣な理想主義の存在を無視することはできない。

4.サディズム

    • 0.5にあたるかもしれないのがこれである。既に述べたように、悪人をサディストとするのは神話だと見なしたくなるのだが、実際そういうこともあると思えるサインもパラパラと存在している。
    • 人を殺して快楽を得たと自ら述べるものはほとんど居ないが、仲間がそうだったと述べる人は確かにいる。だがこれは、仲間が虚勢を張っているのを、本当に殺人を楽しんでいるのだと勘違いしているのかもしれない。他人に暴力を働くのは難しく動揺をさそうことであり、人はそれになんとか対処しようとする。たとえばMilgram (1963) は、なんの罪もない人に電気ショックを与えよという指示に従う被験者がひきつり笑いを示すことを報告しており、被害者はこれをとらえて悪人が楽しんで笑っているのだと考えるのかもしれない。
    • しかし、結局のところ、サディズムが存在することは完全には否定できないと考える。実際に、人を傷つけることを楽しむ人は存在する。この事実は、相反過程理論によって説明できる(Solomon & Corbit 1974)。他人を傷つけることは、生理的な嫌悪をもたらす。ところで相反過程理論によると、身体は、規範からはずれた過程に対する反動として、第二の過程を作動させることで、平衡状態を保とうとする。この第二の過程は、初めはゆっくりで弱いものだが、だが反復によってその強さを増し、ついにはむしろ元の過程よりも優勢になることもある。たとえば、私たちがバンジージャンプやスカイダイビングを楽しめるようになるのは、自然な反応である恐れに対する反動である幸福感が、反復によって強くなっていくからだ。同じことが、人を傷つけることに関しても生じていると考えられる。
    • この考えを支持する証拠を与えてくれるのが、拷問の研究である(ただし、これらの研究が科学的に理想的なものではないことには注意をする必要がある)。拷問では、相手を殺してしまうことで拷問が失敗する場合がある。バウマイスターははじめ、これは拷問人の経験が浅いために起こることだと考えていた。しかし研究によると話は逆で、むしろベテランの拷問人の方が相手を殺しやすいのである。これは、相反過程説による説明とうまくフィットする。拷問人の中には、拷問を行うことによる苦痛が減り、満足の方がましてくる者がいるのだろう。
    • また別の説明として、サディズムはサイコパスと関係していることが考えられる
    • いずれにせよ、サディズムは悪の〔はじめから独立した〕原因ではない。
  • 被害者の観点から言うと、どの原因で暴力を振るわれているかは大きな違いを生む。道具性や脅かされた自己中心性が問題の場合、被害者には逃れる術がある。お金をあげたり、悪人の自尊心を満たしてやればいい。だが、理想主義者は神聖な目的のために被害者の犠牲が必要だと思っているので打てる手が少なく、サディストが相手だとさらにどうしようもない。
至近原因
  • バウマイスターははじめ、悪はなぜあるのかという問いから悪の研究をスタートさせた。しかし暴力への誘引はあまりにありふれていることがわかってきた。社会心理学者によれば、批判されること、侮辱されること、気温が高いこと、メディアで暴力を見ること、欲求不満であることなどが、人の攻撃性を増加させる(Baron & Richardson 1993; Geen 1990)。これらの要因にこの一週間の間に身を晒さなかった人がいるだろうか。これを踏まえると、むしろなぜ悪は今ある程度ですんでいるのか、ということが疑問になってくる。
  • その答えは自己制御にある。多くの状況が攻撃的衝動を生じさせるが、人はそれにしたがって行為することを抑制することができる。人間の祖先は攻撃的衝動によって社会的衝突をうまく解決することができ、人間もそれと同じ衝動を持っている。しかし人間には、少なくとも他の社会的動物に負けない強さの自己制御の能力も持っている。〔非暴力的な衝突回避戦略を与える〕人間の文化は、規則や基準にそった行動を求めるものであり、自己制御の能力に大きく依存している。
  • そこで多くの場合、悪と暴力の至近原因は自己制御の破綻である。たとえばアルコールは、ほとんどあらゆる領域での自己制御に干渉するもので(Baumeister, Heartherton & Tice 1994)、攻撃の原因としても確立している(Bushman & Cooper 1990)。また、強い情動も自己制御を損ない、暴力衝動の抑止を無力化してしまう。
  • 自己制御が暴力抑止に役割をはたすというのは、単に理論的に重要であるに留まらない。これまで人間は、4つの根本原因をなくすことによって、悪の存在しない平和な世界を築くことができると考えてきた。だが根本原因はそう簡単にはなくなりそうにない。自己制御を改善していく方が、この世界をよくしていくためのより現実的な道なのかもしれない。