心を自然化する (ジャン・ニコ講義セレクション 2) (ジャン・ニコ講義セレクション 2)
- 作者: フレッド・ドレツキ,鈴木貴之
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2007/10/29
- メディア: 単行本
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- Dretske, F. (1995). Naturalizing the Mind. Cambridge, MA: MIT Press. (2007, 鈴木貴之訳, 『心を自然化する』, 勁草書房)
- 2. 内観
- 内観的知識:心がそれ自身について持つ直接的な知識
- 私たちが内観的知識をもっていることは自明。問題は……
- そうした知識をどうやって手に入れているのか
- 一人称権威の存在
- 私たちが内観的知識をもっていることは自明。問題は……
- 表象理論による説明
- わたしたちは、物的対象(例:線Aと線B)に気づくことによって、表象的事実(例:線Aが線Bより長く見えること)に気づく(置換知覚)
- 内観は内を眺める過程ではない
1 置換知覚
- 知覚によって、知覚されていない対象についての事実を知ることができる。
- 例:体重計の目盛りを見ることで、自分の体重に関する事実を知ることができる
- 知覚における置換:対象kではなく、別の対象hを見ることによって、kがFであることを見る
- 置換知覚の条件
- kの概念的表象はあるが、それに対応する感覚的表象はない
- hの性質とkの性質のあいだには、しかるべき結びつきが存在するという信念/知識(「結合信念」)
- こうした知識を拡張することにより、知覚される対象の数を増やすことなく、知覚される事実を増やすことができる。
- 置換知覚の条件
- 内観的知識は置換知覚の一種である
- 内観的知識の対象となるのは、心的事実(表象的事実)である
- また、内観的知識はメタ表象である。
- ある表象をまさに表象として表象するものを「メタ表象」と呼ぶ。なおこれに対し、ある表象を表象ではないものとして表象する表象はメタ表象ではない。
- 例えば、ある写真を、まさに写真として、〔文字で〕記述するとき、この記述はメタ表象である。これに対し、その写真を、一枚の紙として記述する時、この記述はメタ表象ではない。
- 内観的知識は、思考や経験をまさに思考や経験として表象する者なので、メタ表象である。
- また、内観的知識はメタ表象である。
- 内観的知識の対象となるのは、心的事実(表象的事実)である
- 内観的知識は置換知覚の一種である。
- ある経験(青の経験)が、他の対象(青い対象)の感覚的表象を介することで、そういう経験(青の経験)として概念的に表象される。
2 他人の心を知る
- 自分の心について知ることの前に、まず他人の心について私たちが知るとはどういうことなのかを検討したい。
- さらに話を単純にするために、装置が何を表象しているのかを私たちがどうやって知るのかを検討する。
- ある測定装置がk(対象)のF(圧力)を表象する時、その装置がkのFについて何を(何Paだと)意味しているかを知るためにはどうすれば良いか?
- 単純な答え:目盛りを見る
- ただし、人工物ではない自然の表象システムのばあい、目盛りなどは存在していない。
- 単純な答え:目盛りを見る
- 今問題となる測定装置には目盛りがないと仮定する。
- この装置の針が位置Pにあるとき、F(圧力)について何を(何Paだと)意味しているかをどうすれば良いか?
- 間違い:針(表象)を注意深く見る
- ≒内観を内的表象の感覚だとする説は誤り。内的表象を知覚しても、それが何を意味しているかはわからない。
- 正解:針が位置PにあることがF(圧力)についてどのような情報を担うのかを調べる。
- そのために更に必要なのは……
- [i] 装置が正常に動いていること
- [ii] 装置が対象kと正しい仕方で接続している(関係Cにある)こと
- これらが成立していれば、針が位置PにあるときのF(圧力)を何か独立の手段で測定することにより、その値こそPが意味することだとわかる。
- だが、[i]や[ii]が成立していることはどうすればわかるのか?
- その装置が何のためにデザインされているかがわかればよい。
- 自然な表象システムの場合は自然選択によるデザインが問題になる。もちろん進化史の再構成による機能の特定は無謬ではないが、原理的な問題はない。
- その装置が何のためにデザインされているかがわかればよい。
- そのために更に必要なのは……
- 以上が、装置が何を表象しているのかを私たち(外的観察者)が知るために必要なことである。
3 自分自身の心を知る
- では、装置が何を表象しているのかを装置自身はどうやって知るのか?
- 装置自身は外的観察者と同じことができないようにみえる。
- 装置自身には、自分が正常に働いていることを教えてくれるものは備わっていない〔※[i]を知るために必要〕。
- 備わっていたとしても、F(圧力)を測定する独立の手段がないと、Pが何を意味しているかはわからない。
- もしそうした手段が備わっているとすると、それはもはやあるシステムが外的観察者となって別のシステムについて知るという話になり、内観の話ではなくなる。
- だが上の推論は重要な点を見逃している。装置は自分自身が状態Pにあるため、その状態が担っている情報が利用可能である。
- 装置の状態Pがkについて何を意味しているかを外的観察者が知るためには、「装置が状態Pにあること」と、そのときに「世界(k)がどうなっているか」の両方を知らなくてはならない。
- これに対し装置自身は自分自身が状態Pであるので、「世界(k)がどうなっているか」を知るだけでよい
- こうしてシステムは、世界を知覚することによって、自分自身の状態Pが何を意味しているかを知ることができる(置換知覚)。
- この違いに一人称的権威の源泉がある
- ところで前章で述べたように、内観によって知られる事実(心的事実)とは、脳の中にあるものとそうでないものの関係(歴史的な関係を含む)によって構成される事実である。
- このような外在主義的な理論は、一人称的権威を脅かすように見える。
- たしかに、自己知の内容が外的な事実であるというのは逆説的なことに思われるかもしれない。だがそう思われるのは、内観を内側を眺める過程だと考えるからだ。
- 内観を、外的対象を知覚することによって内的事態についての情報を得る過程であると考えれば、それよって知られる事実が外的に構成されることは特に逆説的ではない。
- このような外在主義的な理論は、一人称的権威を脅かすように見える。
- だが外在主義は自己知に本当に限界を設定する部分もある。
- 「自分がpという信念・経験をもっていると信じること」は、「自分がpという信念・経験をもっていること」とは異なる。
- kをFだと表象しているシステムは、「自分がkをまさにFとして表象していること」について特権的な情報を持つ。仮にそうした表象関係が本当に成り立っているならば、実際その表象はkをFとして表象するものだろう。
- だがこの前提部分、「自分がFと実際に表象関係を結んでいる」ことについての情報を、表象システムは持たない。
- 実際、この点について私たちはかなり信用できない。〔実際に経験していないことを経験しているとよく思っている。〕
- この点で、内観的知識は知覚的知識と厳密に並行的である。
- 私たちが知覚するのは、外的対象のありかたであって、外的対象が実際に存在するということではない。同じように、私たちが内観するのは自分が何を経験したり思考したりしているかであって、そうした思考や経験が実際に存在するということではない。
- 外的対象ないし思考や経験が実際に存在するかどうかを教えてくれるのは認識論である。
- 私たちが知覚するのは、外的対象のありかたであって、外的対象が実際に存在するということではない。同じように、私たちが内観するのは自分が何を経験したり思考したりしているかであって、そうした思考や経験が実際に存在するということではない。
- 「自分がpという信念・経験をもっていると信じること」は、「自分がpという信念・経験をもっていること」とは異なる。
4 経験なしの知識
- 全ての表象システムが内観するわけではない。計器や動物や子供は内観できない。
- 前節で主張されたのは、表象システムは自身の表象状態についての事実を特権的なかたちで知りうる(利用可能)ということであって、知っているということではない。
- ある知識をもつのに十分な情報を持つことと、知識を持つことは違う。
- 知識を持つためには知られるべき事実を表象するための概念的資源が必要である。
- また置換知覚のためには「結合信念」が必要である。
- ある知識をもつのに十分な情報を持つことと、知識を持つことは違う。
- 前節で主張されたのは、表象システムは自身の表象状態についての事実を特権的なかたちで知りうる(利用可能)ということであって、知っているということではない。
- 内観的知識を置換知覚の一種とすることは、内観的知識を推論的で間接的知識にしてしまうと思われるかもしれない。
- だが、内観的知識とその他の置換的知識には二つの大きな違いがある。犬が吠えていること(媒介的事実)を聞くことで郵便局員が来たことを知るという通常の置換的知識と比較してみる。
- (1)「犬が吠えている」という表象が真でなくては、「郵便局員が来た」という置換的知識を手に入れることはできない。これに対し、「kは青い」という表象が真でなかったとしても、「自分はkを青いものとして経験している」という内観的知識をえることができる。内観的知識が推論的だとすれば、それは前件が偽でも後件が真という奇妙な推論になってしまう
- (2)犬の吠える習慣が変化すれば、郵便局員来訪との信頼可能な関係がなくなり、結合信念が偽になる。これに対し内観的知識の場合、このようなかたちで結合信念が偽になることはない。「kが青く見える」から「自分はkを青いものとして見ている」を推論するとき、この推論は誤りえない。これが内観的知識の「直接性」の源泉である。
- だが、内観的知識とその他の置換的知識には二つの大きな違いがある。犬が吠えていること(媒介的事実)を聞くことで郵便局員が来たことを知るという通常の置換的知識と比較してみる。
- ところで、以上の理論は、内観の「内的感覚」説では説明がつかない事実を説明してくれる。
- 内観が内的感覚であるなら、なぜ内観には現象学がないのか。あるいはあったとしてもその現象学はつねに経験と同じなのか。
- 表象主義の答え:内観するために経験の経験を持つ必要はなく、ただ経験とその経験の質にかんする概念を持てばいいから。