えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

2つの心仮説 Evans (2010)

Thinking Twice: Two Minds in One Brain

Thinking Twice: Two Minds in One Brain

  • Evans, J. (2010) *Thinking Twice: Two Minds in One Brain* (Oxford University Press)

Ch.1 The Two Mind Hypothesis ←いまここ
Ch.2 Evolutionary Foundations
Ch.4 Two Ways of Deciding
Ch.5 Reasoning and Imagination
Ch.8 The two mind in action: conflict and co-operation

・知覚や注意、学習、記憶、言語、推論などについて認知心理学の研究が進むにつれ、これらの多くの基礎にある過程は部分的/全般的に無意識的であると分かってきた。中でもこの本は、行動を制御する脳の「高次」機能に着目し、それらを制御する<人間の単一の心>があるという常識的信念は誤りだと主張する〔2つの心仮説〕。
・その背景には、学習・思考・意思決定・社会的判断の基礎にあると思われる「二重プロセス」の研究がある。すなわち、素早く・自動的で・大きな情報量を処理できる「システム1」と、遅く、順次的で、処理のキャパが低いがしかし意識の制御化にある「システム2」である。しかし「2つの心仮説」は、我々にはふたつの知り方、信じ方、行為の仕方あるというよりもさらに強力な主張である。

2つの心仮説

・〔というのも、〕多くの心的機能が無意識的だという事実について考える仕方は2つある。
・一つは、二元論的な素朴心理学とも両立する「最高取締役モデル」(図1.1)。大企業の最高取締役は、部下の詳細な仕事の方法を知らなくても〔決定権を持つ〕。同じように、意識的な取締役の心は低レベル制御過程の詳細を知らずとも、重大な決定を下すことができる。

・一方の「2つの心モデル」は常識からかけ離れている。「反省的な心」も行動を制御するが、その数は素朴に考えられるよりかなり少ない。大部分の行為は、関連する過程への意識的な気付きなしに、「直観的な心」によって制御されている。反省的な心は、自分が全ての行動の所有者であると「感じてはいる」。が、実際は行動の制御をめぐって直観的な心と競合した末殆ど負けており、この感じは幻想である(それどころか、反省的な心の主要な機能に作話がある)。また、2つの心は別種の知識にアクセスする(明示的/暗黙的記憶)。

・ただし2つの心の区別は、「意識的/無意識的行動」の区別では十分に捕えられない。反省的な心には無意識的な支えが必要である。例えばルーチン化した運転中に犬が飛び出すと、われわれはそれに意識的な注意を向けるだろうが、これが可能であるためには、運転が〔無意識的に〕モニターされていたのでなくてはならない。逆に、直観的な心も完全に無意識的なものではない。犬が飛び出してハンドルを切る動作は意識的反省なしに行われるが、その行為を導く恐れの経験や視知覚は意識的であり、行為の過程には確かに意識的側面がある。このように直観的な心は、意識経験を生む情動や、「認知的な感じ」(例:直観的判断に伴う強い確信感)にアクセスできる。さらに、2つの心の競合に気づくということもある(衝動的行動などの場合)。
・また、2つの心は「制御されている/自動的行動」の区別でも十分には捕えられない。自動的なタイピング中、打ちなれない字が必要になると急に行為が意識的で制御されたものになる例やカクテルパーティ現象は、直観的な心が制御を行う(注意を向けるよう決定する)事例だと考えることができる。
・2つの心仮説が関係するのは、(例えば)意思決定行動の高次の制御である。一方で、正しい「感じがする」から選択されるという、素早く努力を要しない選択の仕方がある。他方で、選択が重要なものや新奇なものの場合、採りうる選択肢や帰結について意識的に思考して選択を行う。これが「反省的」「直観的」という言葉遣いの基本にある。
・しかし2つの心仮説は意思決定のみならず、知識・思考・行為に関する二つのシステムが脳内にあると主張する。これが正しければ、2つの心の基礎には神経的に区別される領域がある筈であり、心が2つあることに関して尤もらしい進化的なストーリーが語られうるはずである(2章)。さらに、実験心理学(3−5章)、社会心理学(6−7章)からも2つの心の仮説の証拠が得られる。しかしまずは歴史的な話をする。

思考Thinking についての思考

・思考とは何か。心理学の歴史はアリストテレスに遡る。アリストテレスは思考を心の意識的な活動とみなし、内観による研究法をとった。また思考はイメージで構成されると考えたが、これは英国経験論者に受け継がれる。英国経験論は、特定の時点に特定のイメージが生じるのは何故かという問いに「観念連合」によると答えた。(また生得的知識を否定したが、生得的知識は20世紀後半、進化心理学の鍵概念として再興する)。
・19世紀半ば、哲学から心理学が独立する。初期の心理学も思考を意識内容と定義し、例えばヴュルツブルグ学派は、課題中に何が意識的であったかを被験者に聞くという実験を行った。ここでは、刺激(実験者「ベーコン」)に対して、イメージの形で思考(お皿にベーコンと卵が乗っているイメージ)が介入し、反応(被験者「エッグ」)に至ると予想された。しかし、何も考えなかった、描写しがたい思考を持ったなどと報告した被験者もいたため、「イメージなき思考」の存在が論争になった。「思考は行動を制御する意識的過程である」という素朴な考えの下では、この結果は確かに不思議である。
・内観法は当時から批判された。また意識としての思考という考えは20世紀前半、行動主義と精神分析によって疑問視される。まずワトソンは、内観による意識的思考の研究を「メンタリズム」と呼び、本人しか観察できない心的状態は科学的探求の対象であり得ないと批判した(この問題は意識研究に対して今も残っている)。
・一方で、我々には確かに意識的な信念・欲求・意図がある。他方、我々には習慣や経験によって条件づけられた低次の反応があることも正しい。メンタリズムも行動主義も、心の一部分しかとらえていない(メンタリズムの利点は行動主義の欠点で、行動主義には意図による行動が説明できない)。行動主義は20から50年代に大きな成功をおさめ、内観法や意識としての思考という考えへの固執はなくなっていった。
・またフロイトは、多くの行動は無意識的な思考によって引き起こされると考えた。フロイトの無意識は認知科学者の無意識とはかなり違うが、人間行動を理解するのに意識内容以上のものを見なくともよいという通念を破った点で歴史的に重要である。フロイトも指摘した無意識的思考に対する「作話」は重要な話題として取り上げるが、今日の多くの心理学者同様、フロイトの理論の多くの部分は受け入れない。特に、心の働きの大部分が無意識的なのは、動機や情動にかかわる理由からではない。ただ、心が行わなければならない計算が意識的思考のキャパを大幅に超えているからにすぎない。

認知心理学と認知科学の誕生

・60年代に新しいコンピュータが出現し、「脳は一種のコンピュータであり、心の活動はそこで走るプログラムである」という比喩が可能になる。この信念に基づき認知心理学(より広くは認知科学)が生じ、行動主義は凋落した。ここで、意識的・内観に開かれているという仮定なしに、思考は再び内的な心の活動として考えられるようになった。
・コンピュータは、「汎目的的で、プログラム可能な、情報処理システム」として一般に定義される。「情報処理システム」(IPS)とは、入力を適切な規則に従って処理し出力するあらゆるものの事をさし、サーモスタットもここに含まれる。プログラム可能な計算機はサーモスタットよりコンピュータに近いが、汎目的的ではない。
・コンピュータは原則的に任意の計算を実行するようプログラムされることができる。プログラムとは、普通のコンピュータでは、順次的に処理される命令のセットからなる。一方脳は大規模並列的な処理を行う。十分な時間があれば、順次的なコンピュータでも計算可能なものは計算可能だが、並列的に処理すれば極めて早く処理できる課題がある。脳が情報伝達に生化学的な遅い手段を用いるのに複雑な課題を早く遂行できるのは、並列処理によって説明されるだろう。
・認知科学の論争点に、心がどれだけ汎目的的なコンピュータのように活動し、どれだけ認知的モジュールからなるか、という点がある。この本では、心は一般的/特殊な目的を持つ様々な計算デバイスからなり、それらが相互作用して行動が産出されると論じる。
・最近までの認知科学は脳を体から切り離して考えてきた。このため例えば情動を無視することになった。最近では身体化された認知や情動と思考の関係に関する研究がゆりもどしている。この本は主に認知的な研究を扱うが、こうした話題にも後の章で触れる。

2つの心仮説への問いと困難

・意識の問題は2つの心仮説に対して困難となる(7章)。心理学は複数の無意識概念を持動の側面を指す「行動的無意識」、そして意識的な気付きと制御のレベル下にある計算的認知過程を指す「認知的無意識」。認知的無意識には、生得的に現れる過程、意識されることなく経験によって学習された過程、一度は意識的だったが反復によって素早く自動的になった過程など様々なものが含まれる。これらの一部/全ては直観的な心の部分だが、それとは別になぜ反省的な心があるのか。そもそもなぜ我々は意識を持つのか?
・また合理性にまつわる問題も心理学者や哲学者を悩ませてきた。素朴にもまた研究においても合理性には2つの理解の仕方があり、情動の位置がかなり異なる(8章)。一方の理解では、論理的に正しく無感情に推論する時われわれは合理的であるが、他方の理解では、目的を達成するだろう仕方で行為する事が合理的である。後者において、追求するに値する目的は快の充足や苦痛の回避をもたらすものだから、合理性は情動を前提する(選択理論的な合理性)。2つの心仮説によれば、生得的な衝動や身体的依存、学習された習慣によって、意識的な選択理論的な合理性が覆されることがある。
・「2つの心仮説」は一人の人間に帰される仮説ではなく、様々な「二重プロセス理論」の提案から生まれてきた。実際、論者ごとにシステム1とシステム2は様々な特徴付けを与えられているが(表1.1)、それは各々の理論が全く別のものであることを意味しない。二つのシステムが次のような特徴を持つ事には理論家の間でも比較的合意がとれており(表1.2)、この本でもそれらをとりあげていくことになる。