えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

私たちは自分の認識傾向や情動傾向を信用せざるをえないし、それは不合理ではない Zagzebski (2014)

Emotion and Value

Emotion and Value

【要約】
私たちは次の2点で、自分の認識傾向及び情動傾向を(積極的な根拠なしで)信用しなければならない
・信念/情動の正当化は循環的なものにならざるをえないので、私たちはどこかで自分の認識/情動傾向を信用しなくてはならない
・信念/情動が正当であることは、信念/情動が実際に対象と適合していることとは異なっている。そして正当化と適合に結びつきがあるという点については、私たちは認識・情動傾向を信用しなければならない。

1. 序
  • 論文の目的:自分の情動を、基本的な点で〔積極的根拠なしに〕信用することは合理的だと示す。そのための議論は、「自分の認識能力を信用することは合理的だ」と示すものとパラレルになる。
  • 心的状態は、その対象と、あるいは他の心的状態と、適合[fit]していないときがある。
  • いくつかの不適合は、反省によって明らかにできる。だが、反省が行われる以前のデフォルトの状態では、私たちは自分の心的状態が適合したものだと信用している
  • この、出発点としての信用に反省が加わったとき何が生じるか。私たちの心的能力は信用できるに値するという証拠が手に入ることで、信用自体は不要になるのだろうか?
2. 私たちは認識能力を信用するしかないが、それは合理的である
  • 反省以前の状態の私たちは[D]真理を求める欲求を持っており、また、[B]「真理を求める欲求は満たすことができる」という信念を持っている。
  • 【循環】 だが反省を行うと、[D] は循環的なやり方でなければ満たされないことがわかる。ある能力が信頼できることを示すためには、どうしてもその能力を用いなければならないからだ。そこで、 [B] を保ち続けたいなら、私たちは〔循環を受け入れて〕自分の認識能力を信用するしかない。
  • 【ギャップ】 だが、自分の認識能力を信用するしかないさらに重要な理由がある。仮に能力を循環しない形で正当化できたとしても、〔正当化されていることと真であることとは別のことなので、〕正当化された能力を使えば真理にたどり着けるという基本的な点では、自分の認識能力を信用するしかない。
  • 以上の状況に対して、[D] や [B] を変化させるという応答も可能で、これもまた合理的である。だが自己の認識能力への信用は反省以前にもあるので、これを保持するほうが、より小さい変化で心的状態の調和を保てる点で、より合理的だといえる。
  • このように反省は信用を不要とするものではない。むしろ、信用を反省的なものとすることが求められる。つまり、もっとも真理にたどり着ける仕方で認識能力を使う場合に限りその能力を信用するという、「認識的慎重さ」が求められる。認識能力への基本的な信用を、その他の信念や経験の変化を反映する形で何度も慎重に反省することこそ、自分が真なる信念を実際に手に入れているかをテストする唯一の方法である。
3. 私たちは情動傾向を信用するしかないが、それは合理的である
  • ある人に対し恐怖を抱いているが、その人が実際には恐ろしくないときがある。また、その人は恐ろしくないと判断していたとしても、恐怖にかられている時にはその人は恐ろしくみえる場合がある。このように情動は、[i] 適切な対象に向けられているか否か、および [ii] 情動の認知的要素(現れ)が対象を正しく表象しているか否か、の2点で、対象との適合を問題にすることができる。
  • 情動が適合しているか否かを反省するという場面を考えてみると、循環しないやり方でそれを示せることもたしかにある。[ii] が問題である場合には、対象の記述的特徴に訴えればいいからだ。だが、正確な事実を認識してさえいれば情動を正当化することができ、自分の情動を信用する必要はなくなるのかというと、そうではない。
  • 【循環】 情動は、認識能力に加えて特定の情動傾向によって生み出されている。そこで、ある対象について同じ事実認識を持つ二人の人物が、異なる情動傾向を持つために、その対象に異なる情動を抱く場合がある。例えば、ある人に対して恐怖を抱くAと、何の情動も抱かないBがいるとする。ここで、AがBに自分の情動を正当化しようとすると、できるのはせいぜい、適合に関して二人の合意が取れている別の恐怖事例を引き合いに出し、目下の事例との類似を指摘することだ。だがこのような循環的な正当化を行うさいにAは、自分の情動傾向が対象に適合していると信用していなければならない。
  • 【ギャップ】さらに、認識の場合と同じで、自分の情動が対象と適合していると考えるのが正当であることと、情動が実際に対象と適合していることは異なっている。この基本的な点で私たちは、自分の情動傾向を信用するしかない。
4. 信用できる情動と信用できない情動
  • 情動傾向は感覚能力とは違い、同じ入力に対して常に一貫した出力をあたえない。このため、信念は変わらないのに以前と異なる情動が生まれ、以前の情動が誤っていると判断されることがある。ここから、情動には循環的正当化すら与えられないので反省を生き延びることができず、従って私たちは情動を信用すべきではないと考える懐疑論者がいる。だが、私たちは少なくともいくらかの情動を信用しているし、日常生活をまともに送るにはそうしなくてはならない。
  • 「認識的慎重さ」とならんで「情動的慎重さ」がありうる。そして、慎重な反省を生き延びた情動への信用は、それを生き延びた信念への信用と同じように正当化されている〔※却下する積極的な理由が無いという意味で消極的に正当化されている〕。私たちが以前の心的状態について慎重な反省を行うさい、情動は信念より却下されやすいのかもしれない。そうだとすると、「情動傾向は認識能力より信用できない」とはたしかに言える。だが、慎重な人であってもあらゆる情動への信用を却下するとは考えにくく、従って全面的な懐疑論を信じる理由は無いように思われる。