えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

精神の病理学は身体の病理学とは違う フーコー (1954)[1997]

精神疾患とパーソナリティ (ちくま学芸文庫)

精神疾患とパーソナリティ (ちくま学芸文庫)

  • Foucault, M. (1954). Maladie mentale et personalité. Paris: PUF. (1997, 中山元訳, 『精神疾患とパーソナリティ』, ちくま書房).

・序 ←いまここ
・第一章 精神の医学と身体の医学 ←いまここ
第一部 病の心理学的な次元
第二章 病と発達
・第三章 病と個人史
・第四章 病と実存
第二部 病の条件
・序
・第五章 精神の病の歴史的な意味
・第六章 葛藤の心理学
・結論

【まとめ】
精神の病理学と身体の病理学は同じようなものだと考えられてきた。かつては、どちらの病も同じ本質を持つために2種の病理学には平行関係があるとされた。近年では、2種の病理学はどちらも個人の全体的なあり方の崩れにかかわっており、実際のところ1つ領域を構成するのだとされている。だがこのような考え方にフーコーは反対する。身体とは異なって、精神は部分に分けられず、正常と異常の線引きも難しく、またその病めるあり方は環境と切り離しては理解できない。精神の病の固有性を見ていくべきだ。

   ◇   ◇   ◇

 精神病理学は、つねに2つの問いに直面してきた。精神の病とは何かという問いと、精神の病と身体の病の関係は何かという問いだ。この問いに対し精神病理学は答えを与えられていないが、それは、こうした問いの基となっている或る想定に問題があるからではないか。その想定とは、精神の病を身体の病と同じように扱うことが出来る、すなわち病が身体的か精神的かを問わない「一般病理学」(メタ病理学)が存在するという想定である。

 一般病理学という考えは、二つの段階を経て発展してきた。
 かつて身体の病理学と精神病理学に平行関係が存在すると考えられたのは、身体の病と精神の病は同じ本性を持つと想定されたからだ。つまり病は、それが身体的であれ精神的であれ、症状に基づいて突き止められる「本質」であり、多様な症状の背後で統一的なグループを形成している自然の種のようなものだと想定されていたのだ。しかしここで言われる平行関係は、あくまで2種類の病の本性が同じだという想定に基づく抽象的なもので、〔精神と身体の関係にかんする具体的な解明に基づくものではなかった〕。人間の統一性・心身の全体性といった問題は手つかずに残ってしまった。
 この重要な問題に取り組むべく、近年の病理学は新たな方法と概念に向かうようになった。それは個人の全体的反応を重視するもので、身体の病理学の方ではセリエのストレス学説など、精神病理学の方では病をパーソナリティの内的な変性とする見方にあたる。このように「全体性」を強調することで、2種類の病理学は個々の人間という同じ対象を扱う単一の病理学に収斂すると考えられている。このことをよく示しているのが、失語症の原因を器質にも心理にも求めず、むしろ世界に対する個人の全体的な状況と関連づけたゴールドシュタインだ。「全体性」という概念は目下流行しているが、しかし厳密性には欠けるようだ。

 本書は以上のような一般病理学的見解に対し、精神病理学には身体の病理学とは異なる分析方法が必要だと主張する。2つの病理学の違いは次のような点にある。

(1)抽象化
 身体の場合、生理学や解剖学により、全体の中から部分を抽象化することが出来る。しかし精神の場合、心理学によって全体から部分を抽象化することは出来ない。部分は意味的に統一され、その統一性こそが部分を可能にしているからだ。
(2)正常なものと病的なもの
 身体には修復能力があるので、何が病的なのかは比較的わかりやすい。しかし精神の場合、どこまで極端なパーソナリティなら病的なのかを線引きするのは特に難しい。
(3)病と環境
 個々の病んだ身体のあり方は、診断・隔離・治療といった実践から切り離して決定することが出来る。だが個々の病んだパーソナリティのあり方はこうした実践の影響を受けてしまう。

 抽象的なメタ病理学的思弁から離れ、人間自身についての反省をもとに精神の病の固有性を分析すべきである。