えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

身体の病気に関する「正常」概念の解明不足について カンギレム (1966) [1987]

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

  • カンギレム, G. (1966) [1987] 『正常と病理』(滝沢武久訳 法政大学出版局)

第一章 病的状態は、正常な状態の量的変化にすぎないか?
I,II,III
IV, V
第二章 正常と病理の科学は存在するか?
I ←いまここ
II, III, IV, V, 結論

  • 精神医学では「正常」概念の解明が行われているが、医学や生理学には反映されていない。
    • 例1.ブロンデル:病人が異なる精神構造を持つように見えるのは、自らの体験を通常の言語の概念に置き換えられないから。病人の話から病人の体験を理解することは出来ない。
    • 例2.ラガッシュ:本性の変異(了解不可能)と程度の変異(了解可能)を区別。しかし障害は全体的障害の中でこそ病理的意味を持つので、精神病理学の資料は正常な人々に関して観察される事実と同じ資格で一般心理学に利用できる。病気を実験として理解することは出来ない(連合主義/能力心理学批判)。
    • 例3.ミンコフスキー:精神障害は「病気」の概念に含まれない独自の特徴を示す(「違った仕方で存在する」)のであり、正常な人への参照によって決定される「病気」に精神障害を還元することは出来ない。
  • ミンコフスキーは身体の病に関しては、〔病気を単なる標準からの逸脱ではないとする〕立場を取らなかった。この点にはカンギレムは反対である。ミンコフスキーに同意してエイは「正常なものは社会的概念に相関した平均ではない。それは現実に関する判断ではなく価値判断である」と述べたが、この同じことは身体的な病にも当てはまる。
  • 生理学と医学が「正常」概念に無頓着なのには、特に臨床医に関してもっともな理由がある。多くの臨床医は、何が正常で何が異常なのかについて、患者個々人の規準 norm に従うのにやぶさかではないからだ。患者にとって「正常に戻る」とは、中断されていた個人的・社会的活動を再び始めることにすぎない。しかし例えば、負傷から回復した腕は他方の腕に比べて栄養的・機能的側面から正常ではなく、(これまで使わなかったかもしれない)広範に亘る神経−筋肉的な適応と即座的対処の能力を失っている。
  • 病気であることは、有害である、望ましくない、社会的に価値が低いということだ。しかし反対に、生理学観点から健康において望まれるのは、「生命、生殖能力、肉体的労働能力、疲労への抵抗、苦痛の除去……」である。こうした概念に価値判断が消滅しているのにもかかわらず医者が「病気」について語り続るのは、患者の価値判断に関わっているからだ。
  • 診断し治療すること(=機能や有機体を規範に連れ戻すこと)を旨とする医者が〔正常のような〕あまりに当たり前あるいはあまりに形而上学的すぎる概念に無関心なのは尤もである。そして、この規範の出所は主に生理学である。
  • しかし、記述的で純粋に理論的概念を生物学的理念に変化させるのは医学なのか? そうであるならどのように変化させるのか? 医学は生理学から規範的な意味での規範概念をも受け取っているのか? こうした問題が生じてくる。