えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

医療技術の抽象化としての生理学 カンギレム (1966) [1987]

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

  • カンギレム, G. (1966) [1987] 『正常と病理』(滝沢武久訳 法政大学出版局)

第一章 病的状態は、正常な状態の量的変化にすぎないか?
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IV ルリッシュの考え

・ルリッシュ(René Leriche, 1879–1955)は、健康と病気について次のような定義をおこなう。曰く、「健康は、器官の沈黙の中での生活である」、「病気は、人間たちをその生活の正常な営みや彼らの仕事の中で妨げるもの、とりわけ彼らを苦しめるものである」。しかし、長い間本人に気づかれない機能不全が存在することを考えると、器官の沈黙はかならずしも病気の不在ではない、とルリッシュは定義を修正し始める。すると結局、病人の立場は病気にとって重要でないものになる。
・だがカンギレムは、病人の立場の方が正しいと思う。たしかに、今日の医者は、病人が自分の病気に気づいていないということを知ることができる。しかしそれが可能なのは、かつて自らを病気だと感じて医者に訴えた人がいたからだ。病人がいるから医学があるのであって、逆ではない。
・ルリッシュ自身、病気と病人を一致させるような考察を展開してもいる。彼はベルナールを取り上げ、生理的状態と病理的状態には量的連続性があると認める。しかし、その量的な違いは異なる帰結を生み、それが質的な区別を生み出すことがよくあると彼は主張する。とりわけ、閉塞、壊疽、痛みなどが生じる場合、これらは病理的な状態ではあるが、生理的状態では全くない、真に異質な状態である。なぜなら、生理学的に言えば、閉塞した動脈はもはや動脈ではないし、壊死した細胞では細胞ではないからだ。このように、ルリッシュは病気をメカニズムそのものではなく質的に異なりうる結果の観点から定義しており、とりわけ彼が「病気としての痛み」に言及するとき、病気は人間の具体的意識レベルでの事実となっているのである。

・コントやベルナールは、技術(医学)は科学(生理学)の応用であるという科学重視の視点をもっていた。一方でルリッシュにとっては話は逆で、まず病人がおり、その問題提起に刺激された医学技術や外科技術があって、この技術を抽象して得られるのが生理学なのである。このような技術重視の視点こそ、ルリッシュの理論を価値あるものにしている。