On Delusion (Thinking in Action)
- 作者: Jennifer Radden
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2010/07/28
- メディア: ペーパーバック
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- Radden, J. (2010) On delusion (Routledge)
- Ch.5 Delusion as shared: folies à deux and the Madness of Crowds
- 妄想の特徴は、その内容が「本人特異的」であることだ。ところが「二人組精神病」や「群衆の狂気」の場合妄想は他人に「移る」ので、共有されていれば妄想ではないということにはならない、というパズルがある。
二人組精神病
- 二人組精神病には「孤立した集団で起こりやすい」「家族で起こりやすい」といった特徴もある。このため遺伝的な傾向の有無が問題となっているが、いずれにせよ個別の妄想共有に関しては社会的側面が必要条件である。
- 経発者が妄想をどう「獲得」するかの整理が試みられてきた。
(a) Folie imposeé: 経発者が観念を受動的に受け取る
(b) Folie communiqué: 経発者は観念に積極的に関わり、はじめは抵抗するも、結局受け入れる
(c) Induction reciproque/division du travail: 二人はそれぞれ妄想を持っており相互に影響を及ぼしあって観念が共有される
- ところが、(a)他人から情報を受け取るのも、(b)他人に説得されるのも、(c)他人と共同してある結論に至るのも、それ自体は社会的学習の普通の形態である。従って、二人組精神病における信念に不合理な点があるとすると、それは内容や根拠、信念が維持される仕方に存することになる。
集団妄想と群衆の狂気
- これに対して集団妄想は、個人の普通の信念獲得方法をバイパスする強力な感染力をもつ。このようにして得られる信念は、内容がありそうになくまた根拠を欠いているだけでなく、情報伝達に関する合理的規範が破られているように思われる。
- 「大衆」や「群衆」が個人の信念状態に与える影響の研究は19世紀以来長い研究の歴史を持つ。人間がもつ様々な模倣の傾向によって社会的感染は可能となっている。そうした社会的感染から生じるおかしな信念が全て妄想だということはできないが、ここでは社会的感染から臨床的意味での「妄想」が生じることがあるという仮説を検討しよう。
摂食障害とスリム教
- 「自分は太っている」という誤った危険な確信がまさに「妄想」だという見解には批判がある。しかしこれは摂食障害に殆ど必ずついてくる信念であり、そのうち幾つかはルーズには妄想と言えるだろう。
- 社会的感染がこの信念を作り出すさまを記述したのがヘス=バイバーの『スリム教』 (2007) だ。その過程は、母親の説得、いじめ、立派な(痩せた)知人を見習う欲求、あるいは異性へのアピールなどを含む。これらの社会的圧力は本人の意識下のレベルで働き、その影響力は自覚されない。
- ヘス=バイバーは、摂食障害にまで至る今日の若い女性の行動を「カルト(教)」と呼んだ。カルトは儀式的振る舞い(拒食・過食・強迫的運動)や理念(痩せること)への脅迫を含む。また「カルト」という言葉はそれが集団であってメンバーが互いに影響を及ぼすことを思い出させてくれる。
- とはいえ、摂食障害のような行動上の病理が生じるのは、特定のリスク要因がある場合に限る。一定の観念やイメージに晒されることと、一定の模倣傾向が組み合わさることで、通常の学習過程や合理的な信念獲得に結びつく意識や制御をバイパスする形で、身体への態度が変わるのである。
模倣傾向と「理由の空間」
- 人間には学習によらない模倣能力が様々にあり、それは「社会の接着剤」として人間の間主観性を支えている。
- 標準的なコミュニケーションの仕方を介さず伝達される模倣的反応にかんする議論は、近年では行為者の力を割り引く見解に至りがちだ。(ミーム論など)。しかし模倣は、感染によって起こることも意図的な努力の結果として行われることも両方ある。ファッションの流行のことを考えれば、社会的感染力を持った観念がもっと複雑な行動に現れることもある。
- 社会的感染はおそらくこれまで理解されていた以上に人間相互の影響の大きな部分を占めている(それは間主観性を支える「判断の一致」の前提条件にすぎないのかもしれないが)。とはいえ、意識的な社会的学習と感染の間の区別がなくなることはないし、観念を批判的に評価する可能性を与えてくれる前者は私たちの認識的価値や理念とよく合致する情報交換のあり方であり続けるだろう。