えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

内観すると病むのか Titchener (1912)

http://www.jstor.org/stable/1413427

  • Titchener, E. B. (1912). Prolegomena to a study of introspection. American journal of psychology, 23(3):427−448.

 ティチナーが内観を主題的に扱った論文のひとつを読みました。この論文は、内観に関する様々な批判を検討しその誤解をといていくというものなのですが、取り上げられている批判にちょっとおもしろいものがあって、それが「内観は病的morbidだ」という批判です(pp. 433-434)。
 ティチナーはこの批判を4つのエピソードで紹介しています

  • 小説家やエッセイストは、内観をやめろ、内的経験に心を奪われすぎるなと注意している。
  • 思考や感情について日記を付けるのはほとんど狂気そのものであるとカントは注意を促している(★)
  • 自分がライプツィヒにいた頃、実験心理学の生徒が、〔実験心理学をやっている〕自分はアサイラムにいく危険性があると半分冗談半分真面目に語っていた。
  • 自著に対する書評のなかで、ティチナーが定めた実験のやり方は人を神経質nervesにする重大な危険があると批判された。

ティチナーはこうしたエピソードの中で想定されている内観のあり方を、「話を道徳的なものにしたがる常識 moralizing common-senseの内観」と名付け、それは「心理学実験室の内観」とは違うのだと論じます。前者は、自分自身の様々な心的能力を評価するためのものであり、たしかにこうしたことは病的だと言えます。しかし後者は、誉めたり貶したりするためではなく、ただ知識を得ることそれ自体を目的としており、そこには特に病的なものはない。このようにティチナーは反論します。

ここで気になるのは、ティチナーはある意味では、批判者が内観とは何か、その本性を誤解しているとは言っておらず、むしろ内観の「目的」の点で見解の相違があると言っているようにみえる点です。当時の心理学実験室では、正しい内観ができるように徹底的な訓練が求められていたのですが、この訓練はそうするとある意味では、内観を病まないように使う訓練だったとも言えるのかもしれません。

(★)該当個所は『人間学』の以下の部分と思われます
「〔自分自身を観察すること〕はわれわれ自身について[内的に]知覚されたその諸知覚を、それなりの方法に従って構成することであって、これが素材となって自己観察者の日記が書かれるのであって、さらには容易に夢想や妄想に導くのである。」(岩波版全集15巻 p .31)
「本節の本来の意図に戻ると、それは上述したように、自分の思考や感情の意のままにならない流れの内的な変化を探知しようとしたり、ましていわばきざに学問風の記述を試みることにはけっして手を染めないようにという警告であるが、その理由は、そうした試みの道をたどると間違いなく、この世よりも次元の高い霊感を得たと思い込む錯乱とか、こちらは何もしていないのにどこからともなくわれわれに流入してくる力があると思い込む錯乱に、つまり照明説[前者]とか恐怖説[後者]とかに迷い込むことになるからである。」(pp. 32−33)