えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

どうして奇妙な道徳原理が存在し続けるのか Cushman and Greene (2012)

The Social Psychology of Morality: Exploring the Causes of Good and Evil

The Social Psychology of Morality: Exploring the Causes of Good and Evil

  • Mikulincer, M. and Shaver, P. (eds.) (2012). The social psychology of morality. Washington, DC: American Psychological Association.

1. Graham, J. and Haidt, J. Sacred values and evil adversaries: A moral foundations approach
2. Cushman, F. and Greene, J. The philosopher in the theatre. ←いまここ
4. Bloom, P. Moral nativism and moral psychology
16. Doron, G., Sar-el, D., Mikulincer, M. and Kyrios, M. When moral concerns become a psychological disorder: The case of obsessive-compulsive disorder 
20. Baumeister, R. Human evil: The myth of pure evil and the true causes of violence.

【要約】
私達の直観的道徳判断は、意図帰属や原因帰属といったより一般的な自動的プロセスにかなり依存している。こうしたプロセスの複雑さにより、直観的道徳判断自体も複雑なものとなる。直観的道徳判断の複雑性の痕跡は、哲学者やふつうの人がもつ明示的な道徳理論・原理の複雑性の中にも残る。このため道徳理論・原理は、より熟慮的に考えると奇妙に見える部分を残すことになる。しかし、道徳理論は科学理論と違い、直観以外に照らし合わせるデータを持たないので、奇妙な道徳理論は訂正されたり消滅したりすることなく存続し続けていくことになる。

   ◇   ◇   ◇

  • 哲学や法には奇妙な道徳原理がしばしば見られる。
    • 一年一日以内に被害者が死ななければ殺人ではない(英(昔の話))
    • 強盗が警察と銃撃戦している際に、警察の弾で通行人が死んだ場合、強盗が罪に問われる(米)
  • 一方で素朴に考えれば、殺人というのは単に人の死を意図的にもたらすことだと思われるし、アメリカ法律協会の模範刑法集にもそう書いてある。
  • この論文の主張:(I)抽象的な道徳的原理は、個別事例にたいする直観的反応をもとに作られている。(II)その反応はとくに道徳的ではない多くの心的過程に依存しており、道徳原理の複雑さはこうした直観的な心的過程の複雑さの反映である。(III)そうした複雑な道徳原理は、熟慮にしてみれば奇妙に見えることもある。(IV)だがそうした奇妙な道徳原理は、科学理論のように外界に照らして訂正するということが出来ないために、存続する。
I 直観と原理による推論
  • 普通の人の道徳判断は、哲学者や法律家の立てる明示的な原理と軌を一にしていることがよくある。なぜか?
    • 昔の説明:人は明示的な原理を用いて推論し、道徳判断を下すから
      • 批判点:人は道徳原理を明示化できない(Cushman, Young, & Hauser, 2006)。小さな子供ですら道徳原理に合致する道徳判断を下す(Pellizzoni, Siegal, & Surian, 2010)。
  • 話は逆で、むしろ道徳原理の方が道徳判断から出てきている
    • 実際、多くの哲学者が倫理学は直観の体系化だと言う。心理学者も、道徳原理は直観的道徳判断に対する後づけの正当化として提出されることが多いと示してきた(Haidt 2000)。
  • ただし……
    • 〔明示的な原理が直観的判断に全く影響しないという訳ではない〕
      • 危害:危害は最小化すべき
      • 因果的責任:危害を引き起こすのは悪い
      • 意図:意図的に他人に危害をもたらすのは悪い
    • 〔直観に関係するものが全て明示的原理に反映される訳でもない〕
      • 被害者に対する直接的な力:直観的判断に影響するが、被験者はこれが道徳判断に関連することを否定する(Cushman et al., 2006)。
  • →直観的なものが全て明示的な道徳理論に反映される訳ではない。
    • むしろ、直観的態度と原理的なコミットメントのバランスの取り合いにより、「反省的均衡」の状態が目指されている
      • 哲学者が道徳原理を構築する方法と、普通の人が道徳原理を構築する方法はだいたい同じ。
  • だとすると、哲学者の方が、道徳的に重要だと思われる直観を選り分けて、うまく道徳原理を作れるのではないか?
    • そんなことはない(Schwitzgebel and Cushman 2012)
      • 哲学の院生も、そうでない人と同様にシナリオの提示順序によって道徳判断が変わる(順序効果)。
      • 特定の順番でシナリオを提示された後には、特定の抽象的原理を採用しやすくなる。
    • 教訓(1):哲学者による道徳原理の採用は、先行する個別事例に対する判断に実質的な形で依存している。
    • 教訓(2):哲学的な訓練をつんでも、道徳的に「無関係」な要因を原理による推論から排除することは出来ない。
II 複雑性
  • 1997年、アメリカ最高裁は、積極的安楽死(殺す)と消極的安楽死(死ぬに任せる)には重要な違いがあると認めた。
    • この区別は、しかし説明するのが難しい。医師はどちらでも患者の願いを聞いている訳で、行為か不作為かがなぜそこまで問題になるのか。
      • 道徳原理の複雑性のケース・スタディ。
  • 不作為に比べ、行為には自動的な原因帰属・意図帰属がなされやすい。
    • 道徳に関係ない行為・不作為にかんして、両者の間には因果帰属・意図帰属の開きがある(Cushman & Young 2011)
    • 行為に対するロバストな目標(≒意図)帰属は既に6-7ヶ月の時点で見られる(Cushman, Fieman, and Carey 2011)。幼児に、手がある対象を選択し続ける条件を観察させると、その後もその対象を選ぶだろうという期待が形成される(その対象を選ばなかった場合に注視する)。他方で、手がある対象を避け続ける条件を見せても、同様の期待は形成されない(その対象を選んでも注視しない)。
  • 道徳的判断に関する行為と不作為の区別は、原因・意図帰属の帰結である。
    • 〔おなじ道徳的判断の中でも〕量刑判断は道徳的悪さの判断より因果的帰属の判断に依存する。そこで、本当に因果帰属が道徳的な行為・不作為の区別に寄与しているならば、行為・不作為の区別は道徳的悪さの判断よりも量刑判断に大きな影響を与えると考えられ、実際にそのような結果が得られた(Cushman & Young 2011)。
    • さらに、Baronらの研究により次の点が明らかになっている。
      • (a) 多くの人は、行為は不作為よりcausalだと明示的に言う
      • (b) そのような人は、不作為より行為を道徳的に悪いと判断しがち
      • (c) この区別を説明する際、人は因果的な区別を引き合いに出す〔「行為の場合は行為者が害をもたらしているので悪いが、不作為の場合はそうではないので悪くない」〕
  • (c) が提起する問い:道徳的判断における行為と不作為の区別は、〔判断に前に〔(c)で引き合いに出されたような〕因果や意図概念の原理的で明示的な適用を行うことで生み出されているのか? 〔それともその原理は後づけのものにすぎないのか?〕
    • 抽象的規則の明示的・制御的な適用に関連する脳部位DLPFCは、行為より不作為についての判断でより活動する(Cushman et al., 2011)。
    • 解釈1:不作為を許す規則を明示的に適用している
      • 「医者は悪くない。死をもたらした訳ではないからだ」
      • 予測:DLPFCの活動が最大になるのは、有害な行為と有害な不作為に関する非難の判断の差が最も大きい被験者。〔DLPFCが働くほど医者が免責されるため〕
    • 解釈2:不作為を非難する規則を明示的に適用している
      • 「医者は悪い。患者の死は医者の決定に基づいているからだ」
      • 予測:DLPFCの活動が最大になるのは、有害な行為と有害な不作為に関する非難の判断の差が最も小さい被験者。〔DLPFCが働くほど医者は帰責されるため〕
    • →解釈2の予測の方が正しかった。
      • 人は道徳的判断における行為/不作為の区別を説明する明示的規則を持っている(c)が、それは判断に至る過程で実際に使われているものではなさそうだ。
      • むしろ、有害な不作為を有害な行為と同じ水準に持っていくために、統制されたプロセスが必要になっている。
  • 道徳判断は、原因・意図帰属のような、出来事や行為を解釈する特に道徳とは関係なく比較的自動的な過程に部分的に依拠しており、この過程の複雑性が道徳原理の複雑性にも反映されていると考えられる。
III 奇妙さ
  • 確かに、積極的な害は消極的害より悪いと感じられる。しかしながら、積極的安楽死を行う医者が消極的安楽死を行う医者よりも悪いというのには、〔熟慮的に考えると〕やはりどこかおかしな点があるとも思われる。 
    • この引き裂かれた状態は、明示的思考過程に利用可能な概念が、直観的・感情的反応の基盤と根本的に合致していない点から説明できる。
  • アメリカの法律には二種類の因果概念がある
  • (1)事実因果(factual causation):ある行動がある出来事を引き起こしたのは、その行動がなければその出来事が起こらなかった場合に限る。
    • だがこれは、道徳的責任に関する直観的判断を捕まえられない。
      • 「フランクは銃を撃ち、それが的に当たったことで射撃大会に優勝し賞金をえた。破れたブルースは資金不足から叔母の家に旅行するのをあきらめた。しばらく後、叔母はベリーを喉に詰まらせて死んだ。蘇生術の心得があるブルースが叔母の家に行けていたら、叔母は死ななかった。」
        • フランクの銃撃がなければ叔母は死ななかったが、フランクに道徳的責任があるとは思えないし、そもそも銃撃が叔母の死の原因だったとすら考えられない。
  • (2)相当因果(proximate causation):極めて複雑な概念で定義し難い。因果関係の認定には、時間、空間、あるいは間に介入する出来事といった観点からの「近接性 proximity」などが重要となる。
    • この概念の最も奇妙な点に、「予見可能性」への依拠がある。
      • 「娘がちょっとした病気にかかったので、母は化学者である夫にどうすべきか尋ねた。疲れていた夫はあまり考えずに二種類の薬品の投与を勧めたが、しかしそれら薬品は混ぜると有毒なのであった。母は娘に薬品を飲ませ、娘は死んだ」
        • 父親は有害な帰結を予見してしかるべきだったので、娘の死の相当原因は父であったとされる。
    • こうした明らかに因果と関係ないと思われる要因への依拠は、しばしば批判対象になる。だがこの概念は直観を捉えている。というよりも、明確な定義づけを拒む点でこの概念は直観そのものである。
  • 普通の人の直観的因果判断の場合でも、心的状態に関する情報が思わぬ強力な役割を果たしている。
    • 意図的にやったことに対しては、偶然やったことに対してよりも、行為者に対する因果的責任帰属がされやすい(Lombrozo 2007)
    • 幼児でも、意図的行為には因果的推論が行われやすい(Muentener 2009)
  • 法における二種の因果概念は、因果判断に関する心理メカニズムと平行関係にあるように見える。
    • 相当因果が直観を捉えるのと同じように、事実因果は心理学者や哲学者の明示的な因果理論を捉えている(White 1990)。
      • そして相当因果を明示的な理論で定義できないように、直観的因果判断を明示的な理論で捉えることは出来ないのだと思われる。
        • =直観的な判断メカニズムと明示的な理論の共約不可能性
  • この共約不可能性は、直観的メカニズムが計算に用いる単純(と思わしき)道徳規則から複雑で奇妙な道徳原理が一般化されるのは何故かを説明する。
    • 直観的メカニズムが用いる規則が「意図的に危害を加えるのは悪」だとしよう。これがそのまま明示的道徳理論になったとしても、そこに明示的な意図理論や因果理論を組み合わせると、反直観的な帰結が生じてしまう〔例:フランクは祖母の死に責任がある〕。そこで直観にあわせようと道徳理論の方を改訂していくと、結局複雑で時に奇妙な理論が生まれる。
IV 存続
  • しかし、なぜ奇妙な道徳原理が存在し続けるのか。
    • 科学的原理との対比で考えてみよう。「科学者としての人」メタファーによれば、人間は自動的メカニズムからの入力をもとに、世界を記述・説明・予測するために明示的な理論を構築する。
      • デネットは入力を一望できるカルテジアン劇場の存在を否定したが、科学者メタファーを真剣にとればこの劇場には科学者がいると考えるしかない。
  • 例えば人間には物体の運動に関する直観的な感覚があり、これを明示的な理論にせよと求めるとインペトゥス理論のようなものが出来上がる。この理論は、自動的で直観的な心理メカニズムの特徴を反映している。
    • しかし、科学理論は改訂・棄却・再構成を被り、究極的には自動的メカニズムの構造から離れたものになっていく。このプロセスはとくに、理論の予測をテストすることで進む。
  • どうして道徳ではこうはいかないのか。それは、素朴物理学・化学・生物学が世界の構造を写し取る表象的なものであるのに対し、道徳は情動によって世界に価値を割り当てる体系だからだ(Haidt 2001)。
    • このため、道徳的な主張は実験によってテスト可能な予測を生まない。生まれる予測は〔世界ではなく〕我々の心にかかわる。
      • (「子供殺しは悪い」は、子供を殺すと罪悪感を感じるだろうという予測は生む)
  • つまり、カルテジアン劇場には二種類の研究者がいると考えるべきである。
    • (a)科学者:理論を外界からくるデータに照らして改訂する
    • (b)哲学者:理論を心から来るデータに照らして改訂する
  • 行為/不作為区別の場合、事情は以下のようになる
    • 自動的な因果・意図帰属システムは行為によりロバストに反応するので、自動的な道徳判断システムは行為の禁止により感情的な反応を生む。このように道徳判断には複雑さが増し〔、それを反映した明示的な道徳理論が作られる〕。だが明示的因果理論に照らせば、行為と不作為に明確な区別はないので、この道徳理論は奇妙である。しかし道徳理論のソースとなる道徳判断は情動的なものなので、科学理論のように改訂されずに存続する。
結論
  • カルテジアン劇場の中の哲学者というアイデアの教訓
    • 人は、物体や生き物のみならず善悪についての理論を構築・テスト・改訂する
    • 〔その結果として生まれる〕道徳哲学は心の構造を反映する
  • 以上のように考えることで、広く共有された直観的道徳判断に関係する原理については、その複雑性、奇妙さ、存続、を説明できる。
  • ただし、複雑で奇妙で存続し続ける原理の中でも、目下の理論では説明できないものもたくさんある。
    • 例えば、裁判所の証拠に関する次のような原理
      • 違法収集証拠排除法則:警察が違法に収集した証拠は証拠能力を否定される
      • 伝聞証拠排除則:伝聞の証拠能力は否定される
    • こうした規則は、個別の事例では反直観的かもしれないが、より広く見ればうまくいくという単純な理由で存続している。
  • この例は、個別事例に対する直観を超えて人はどう道徳原理を構築・使用する〔べきな〕のかという大きな問題に関連している。
    • だがここでは、哲学者を劇場に位置付けることで、哲学者の逃げ道を示しやすくなったと指摘するにとどめる。〔倫理学を心理学に結びつけることで、大きな問題について袋小路に陥らずに建設的に議論が進められるようになった、の意か〕