えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

痛みをイメージできるか? Titchener (1904)

https://www.jstor.org/stable/pdf/2010659.pdf?refreqid=search%3A734804f1ee44a499d621798bbc255cd6

  • Titchener, E. B. (1904). Organic Images. Journal of Philosophy, Psychology and Scientific Methods, 1(2): 36-40.

 多くの心理学者が、全ての感覚について、そのイメージを持つことも可能だと考えている(Sully, Ladd, James, Lay, Stetson, Galton以来の質問紙)。しかしティチナーは、イメージ化可能なのは高次の感覚だけではないかと考えている。

 高次の感覚部門について、私たちは自由なイメージを持つ。この部門においては、イメージが必要なのだ。というのも、会話ないしその他のかたちでのやりとりを継続していくためには、視覚および聴覚的イメージを持たなくてはならない。これらの場合、刺激は「遠くから」作用しており、したがって一時点をとればわずかな部分しか現前していない。こうしたアクチュアルな刺激におけるギャップを埋めるために、イメージは必要不可欠である。他方で、スケールの低次の端のほう、厳密な意味での器官感覚〔Organic Images: 身体の内部に由来する感覚のこと〕の場合には、イメージは必要ない。身体は私たちといつも共にあるのだから、器官感覚は必要とあればただちに刷新、更新、再確立されていく。低次の感覚のイメージをもつことには生物学的な利得がないのだ。だからこそ、例えば視覚については様々な形で自由な想像ができるのに対して、飢えや渇きについては自由に想像することはできない。(p. 37)

感覚のイメージと、感覚の刷新・更新・再確立との区別は、想像力の研究にとって極めて重要である。例えば、語を発するときの「唇の感覚」を例に出して、運動感覚的想像力が存在すると論じる人がいる。しかし、唇の感じは実際の感覚であり、イメージではない。筋肉感覚について自由な想像が可能だと報告する人もいる。しかしティチナー自身の内観では、筋肉感覚をいま再確立することは容易ではあるが、筋肉感覚的イメージを自由に持てるとは思えない。(圧や温かさは可能だが、)冷たさや匂いあるいは痛みなどのイメージは持てない。イメージ可能性については個人差があることも確認しているが、例えばLaddの報告からは、器官感覚の更新・再確立と器官感覚のイメージを混同している観察者が相当数いることが伺われる。
 いま問題となっているのは内観の難しさであり、解決のためにはより体系的な研究が必要だ。どのような器官感覚がイメージされるのか。単体でイメージされるのか、全体のコンテキストの中なのか。意志的にイメージできるか。そのイメージは意識の通常のテクスチュアのなかにどう入ってくるのか。器官感覚をイメージする素質をすべての人が持っているのか、それを訓練や注意で引き出すことはできるか。こうした問題に取り組むには質問紙調査は不適当である。

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この種の論文を見ていると、こうした心理学者の関心がいかにphenomenologicalなものかを思い知らされます