えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ポアンカレの科学:色彩の主観性と関係の客観性 Daston and Galison (2007)

Objectivity (Zone Books)

Objectivity (Zone Books)

  • Daston, L., and Galison, P. (2007). Objectivity. New York, NY: Zone Books.

第一章 目の認識論
第五章 構造的客観性(/2←いまここ/

【まとめ】
 「人によって色の経験は異なるのではないか」。これは19世紀中盤に現れた新しい問いである。それまで、感覚経験は最も信頼できる知識の源泉であった。しかし19世紀中盤、生理学や民族学、歴史学、あるいは色盲をめぐる事件などにより、色彩感覚の個人差の問題がにわかに浮かび上がってくる。こうして、色彩を典型例とする感覚経験はむしろ主観的で信頼できないとされるようになった。しかし個々の感覚経験を科学的客観性の領域から追放しても、感覚経験の間の「関係」は客観的なものとして残り、それは方程式によって捉えることが出来るーーそうポアンカレは考えた。個人差・理論差・時代差を超えて残り続ける「関係」は、世代を超えて科学者たちをつなぐ絆でもあった。

主観性の色

[1] 19世紀終盤、色は私秘的で通約不可能な主観性の典型例となった。色の主観性にかんする19世紀の考察は、初期近代のそれと連続的ではない。たとえばデカルトが色について問題にしたのは、知覚内容が世界の事物と似ていないのではないかという表象の精確さの問題であった。[2] だがポアンカレの問題は、全ての精神が赤を同じように知覚しているのかという点にあった。「他人の感覚は我々には永遠に閉ざされた世界である」。[3] デカルトは黄疸などにより逸脱的な色知覚が生まれると知りつつも、標準的な精神は同じように色を知覚すると前提していた。他方ポアンカレにとって、色知覚が世界と対応していることはもはや感覚生理学的事実であり、問題は色に個人差があるか、伝達可能かという点にあった。

[4] 構造的客観性の擁護者全てが色の感覚生理学に着目した訳ではない。だが彼らを突き動かした困難を最も明確に示していたのが色だった。その困難とは、心に客観性はあるのか、あるとすればそれは世界の客観性や心的過程の主観性、そして心の科学の客観性とどう関係するのかというものである。[5] これらの問いは19世紀中盤に現れた。カントにとって、主観的なものといえば神や来世にかかわる臆見であり、感覚経験の報告は17世紀以来最も信頼でき伝達可能なものだとされていた。感覚経験と伝達不可能性の連合は、19世紀前半の実験科学の出現によって築かれたのだ。

[6] ミュラーやヘルムホルツは、意識の自発性や総合的アプリオリの存在といった哲学的主張を、経験的なリサーチプログラムの上にのせようとした。初期の色彩の科学はカント的な「主観」・「客観」という用語を率先して使用し、たとえばゲーテの『色彩論』は「主観的」な視覚現象の宝庫として賞賛された。[7] だがすぐに新しい意味での「主観的」および「客観的」現象が探求の中に入ってくる。ゲーテの弟子でチェコの生理学者ヤン・プルキニェは、主観的な視覚現象の観察・実験ということで、自分の網膜などを自分で観察するという点にまで進んだ。

[8] こうした主観的視覚印象から客観的なものを切り離すには、「未開人が絵画を単に様々な色からなる表面として見るように」見る訓練が必要だとされた。この職人的な技は、感覚の精確さ・熟練度の個人差をさらに強調するものである。ヘルムホルツは、プルキニェの観察結果の一部は、プルキニェ自身の感覚器官の「個人的な特異性」から来ているかもしれないとコメントしている。

[9] しかし訓練を経た研究者の中でも個人差は消えない。プラハの生理学者エヴァルト・ヘリングは、自分には純粋な緑と見えるものが助手には黄みがかって見えたことに驚いた。彼は、標準的な色彩視覚はどこでも一様のものではないと結論している。注意深い感覚生理学者や心理物理学者は、データが特定の個人のものだと明白にわかるようにして公表するようになった。

[10] 色経験の個人差を示すソースは他にもあった。1876年のスウェーデンで、色盲の鉄道従業員が信号を見間違えて大事故が起こり、後の調査で従業員266人中19人が色盲だとわかった。このニュースはヨーロッパを騒がせ、色にかんする科学的研究を加速させた。また歴史的、民族学的なソースもあった。例えばヴロツワフ(ポーランド)の目医者Hugo Magnusは、サンスクリット、ヘブライ語、古代ギリシャ語の色彩語彙の研究をもとに、古代の人々は明るい赤と黄色は識別できたが暗い青・紫・緑は識別できなかったと主張した。一方で民族学者は、色彩語彙の豊富さと色彩の識別可能性を区別すべく色見本を携えて各地へおもむいた。1870-80年代に生じたこの種の論争は広く認知され、色知覚が心的表象の個人差の典型例と見なされるようになる。

[11] フレーゲもやはり色を主観性の例としたが、色には一定の客観的、つまり構造的な側面もあると主張した。フレーゲによると、色盲者は赤と緑の区別を他人から学ぶことで、標準的な人と同じ言葉遣いで色を語ることができる。[12] 色彩語彙の使用法は色彩経験とは違い公共的な合意の問題なので客観的なのである。ただし他の客観性の擁護者は、色をすぐれて個人的な経験とする心理生理的説明を受けいれ、そのような閉ざされた自己にも開かれた科学を探し求めた。

神でさえ言えないこと

[1] 「言説なきところに客観性なし」としたポアンカレもまた、客観性から感覚を閉め出した。だが彼には、現象の関係を捉える方程式が残されていた。[2] 彼にとって、科学の目標は事物の単純な構造、調和的関係である。調和というのは心の内にしかないが、しかし全ての思考する存在にとって共通なものなので、客観的である(→規約主義)。このようにして彼が「科学の客観的価値」を擁護した時、敵は両面にいた。第一の敵である伝統的形而上学は、真理を神の観点から理解する。神はこの深い真理を人間に伝達できないし、人間もそれを真に理解できない。従ってこの真理には伝達可能性がなく、客観的ではない。

[3] 他方、マッハのように現象だけを実在とするラディカルな経験主義も敵であった。[4] この見解のフランスでの擁護者エドゥアール・ル・ロワは、真の理解は感覚世界への没入により得られるというベルクソン的哲学を展開した。彼によれば、まさに規約主義が言うように科学的法則や事実はつくりもので、科学は実践の規則を与えるにすぎない。[5] これに対しポアンカレは、感覚を接合する関係の中に伝達可能な知的共通貨幣を見いだすことができると反論した。[6] この関係は、特定の理論図式や経験がなくなっても残る。〔こうした関係に基づいた〕「分類」こそが科学であり、問題なのは真偽ではなく便不便である。

[7] 持続する関係への注目は、ポアンカレの教育や論文にも表れている。例えば1899年の電気力学講義は、複数の理論から共通点を抽出している。観察結果を説明できる力学モデルは複数ありうるので、各理論の細部は重要ではない。[8] この考え方は、理論変遷の激しかった電磁気学への取り組みや、科学史から得られたものでもあった。理論は新しい世界のイメージをもたらすが、それはやがて忘れ去られる。だが関係は残り、新しい理論もとで再び見いだされる。科学的客観性は、世代を超えて科学者をつなぐものでもあった。

[9] 晩年、ポアンカレは科学を一人一人が石を持ちよってつくる石碑にたとえ、自己を全体へ埋没させる道徳的感覚を科学が養う可能性を認めた。この石こそ、思考する存在全てにとって知解可能な「関係」である。客観的思考は、科学、共同体、人がのぞみうる形の不死の基盤だった。「思考は、長い夜のただ中のわずか一条の光だ。[……] だがそれこそが全てなのだ」。