えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ウェルビーイングの本来的幸せ説 Sumner (1996)

Welfare, Happiness, and Ethics

Welfare, Happiness, and Ethics

  • L. W. Sumner (1996). Welfare, Happiness and Ethics. Oxford: Oxford University Press.
  • 第六章 福利と幸福

 福利(Welfare)は主観的だが、快楽説も欲求説も適切な理論ではない。そこで、経験の要請を守れる快楽説から再出発し、新たな説を構築していこう。快楽説には3つの特徴があった。

  • (1) 福利と幸せの同一視
  • (2) 幸せを快へ還元
  • (3) 快の本性にかんする心的状態説

このうち(3)は快の本性の説明として適切である。しかし快楽主義は、(1)・(2)によって福利を純粋に心的状態の問題としてしまったために、幻覚や欺きの問題が生じたのだった。

 たしかに福利と幸せには重要な関係がありそうだが、[139]それを(1)・(2)のような単なる同一視とは違うしかたで理論化したい。すなわち、福利とは「本来的な幸せ」である。ここでいう幸せ(Happiness)とは、主体が自分の人生の状態ないし人生経験を満足なもの(satisfying or fulfilling)として認めている状態である。そしてそうした承認(endorsement)が本来的であるためには、情報と自律という条件が必要である。幸せは経験の問題であるから、この説は「経験の要請」を満たしている。しかし本来性は主体と世界の関係なので、この説は〔福利の〕心的状態説ではない。ではこの説を目的地として議論を進めていこう。まず幸せの本性について扱う。

6.1 人生満足

 古典的快楽主義者は、幸せを快と同一視していた。ところで4章で見たように、快には2タイプの捉え方がある。1つ目のものは、快を、特殊な感覚だとするものだ。[141]しかしこのモデルに従うと、快と幸せのつながりは薄弱なものになる。快を欠いた禁欲主義的人生が幸せではないとは言い難いからだ。ここからわかるように、感覚としての快がどれだけ幸せに寄与するかは、私達がそこに付与する重要性に依存している。同じことは痛みについても言える。

 [142]ベンサム以外の古典的快楽主義者は以上の点に同意しており、快のモデルとして2つ目のものを採用していた。すなわち快とは、経験を、その感じられる性質の点で私たちが好むとき、その好むという態度のことを言う。しかしこの態度を表現するのに、「快」という語を使い続けるのはミスリーディングなので、「楽しさ/つらさ」(enjoyment/suffering)という語を使うことにする。では、楽しさと幸せにはどのような関係があるのだろうか。[143] 自分の人生の状態に対して肯定的な態度を持つとき、私たちは幸せである。これはおおむね正しい。「おおむね」というのは、「幸せ」という語には体系的な曖昧さがあるからだ。以下では4つ意味を取りあげる。

  • [a] 満足している(Being happy with or about something)

幸せは志向対象を取る場合がある。この場合の志向対象は自身の経験とは限らない。これはおおむね、何かに満足している(satisfired or content)と同じことである。

  • [b] ハッピーだ(Feeling happy)

 この意味での幸せは、人生と世界全体の見え方を彩る楽天的なムードであり、完全だという感覚を伴う。これは、現に生じている(occurent)感じにかかわっており、また志向対象を取らない点で、[a]と対照的である。ある種の判断的な次元が含まれるかもしれないが、それは「いま・ここ」と結びついており、人生〔全体〕に対する安定した(settled)判断ではない。

  • [c] おめでたい人である(Having a happy disposition/personality)

[145][b]のムードになりやすい安定した傾向をもつ人もいる。こうした人も幸せだと言える。

  • [d] 幸せである/幸せな人生を送っている(being happy/having a happy life)

 本書で主に検討しているのはこの意味である。幸せであるとは、人生に対して特定の肯定的な態度を向けていることであり、その態度は、完全な形態においては、認知的要素と感情的要素の両方を含んでいる。認知的要素とは、人生のすべて/一部の重要な側面について、自分自身の基準に照らして、それを肯定しているということだ。[146]感情的要素とは、自分の人生に満足しているという感覚である(いわゆる幸福感(sense of well-being))。[a][b][c]の意味での幸せと、[d]の意味での幸せのあいだには、単純な関係はない。

 [147]以上を踏まえて、あらためて「楽しさ/つらさ」と「幸せ/不幸せ」の関係を見ていこう。
[a:満足]楽しさの対象は自分の経験に限られるが、満足はそうではない。従って、何かを楽しんでいるならそれに満足しているだろうが、逆は成り立たない。[b:ハッピー感情]他方でハッピー感情は、自分の経験への応答として生じる。もしハッピーならば、自分自身を楽しんでいるとは言えるだろう。また楽しさという概念は、さまざまなハッピー感情を捉える(capture)ことができる。しかし、最高潮のハッピー感情を「楽しい」と言うのは生ぬるいだろう。また、極端なアンハッピーさでなければ本当の「つらさ」とは呼べないだろう。従って、ハッピー感情と楽しさはやはり異なっている。[c]おめでたい性格については、問題はハッピー感情に還元される。

 [d][148]では、楽しさと幸せな人生との関係はどうなっているか。古典的功利主義者が言うように、できる限り苦しまずできる限り楽しい人生が、幸せな人生なのだろうか。楽しみ/苦しみは、快苦ほどではないが、やはり特定の活動ないし状況とあまりに結びついているため、幸せ/不幸せと同一視することはできない。また、楽しみ/苦しみの強さと持続から、人がどれだけ幸せかを決定するアルゴリズムも存在しない。楽しみ/苦しみは、快苦と同様、また欲求充足とも同様に、幸せの典型的な源泉ではあるが、唯一の源泉ではない。楽しさの対象が人生全体になる場合、楽しさと幸せは一致に近づく。だが完全には一致しない。まず楽しさは、幸せの判断的次元を完全には含んでいない。また感情的次元についても、[149]「幸福感」は単なる安堵から深い充実感までを射程に収めるのに対し、「楽しさ」は強い感情をカバーできない(逆に、「不幸」が広い射程を持つのに対して、「苦しさ」は弱い感情(なんとなくの不満感やアンニュイさ)をカバーできない)。

 人生全体を対象とする態度として、「楽しさ」ではなく「満足」を考えてみよう。これは、欲求説の章で見た、欲求の満足に対する「本人の満足」に対応する概念であり、「人生満足」とも呼べる。幸せとは人生満足だという見解は、幸福を測定しようとする多くの社会心理学者、および経済学者、政治家の暗黙の前提になってきている。実際近年、経済的福祉(5.1も参照)概念への反発から、幸福の測定がブームになっているのだ。これまで経済者は、社会福祉を一人当たりの国民所得などと同一視してきた。[150]しかし70年以降、経済成長が社会福祉につながっていないのではという懐疑が広まった結果、経済的福祉は個人にとっても社会にとても全体的福祉の一部でしかないという基本的な真理が認識されるようになった。これを受けて、経済的説明をより洗練させるいう動きもあったが、お金を単位とした測定法の制約からは逃れられていない。

 ここで、「社会指標運動」と呼ばれる運動に触れなければならない。[151] 社会指標とは、人の福祉と信頼可能な形で相関した統計的証拠のことだ。この指標にも主観的なものと客観的なものがあり、経済的指標は後者にあたる。経済指標をその他の客観的指標(消費、栄養状態、平均寿命、自殺率など)で補うアプローチは、多くの政府や国際組織によってとられてきたが、そうした指標は人生の質に関する個々人の認識とあまり相関しないという問題がある。この状況を受けて一部の社会科学者は、個々人の報告をより洗練された方法で集める方向へ向かった。[152] そうして、質問紙法やインタビューによって測定される主観的指標が「人生満足」である。一番単純な場合、被験者は自分の人生全体に対する評価をリッカート尺度で答えるが、[153]人生の特定の領域(家庭、結婚、近所付き合い、仕事)などについて質問される場合もある。

 福利を評価する手段として客観的指標から主観的指標へ重心が移動したことは、多くの(暗黙の)前提を反映している。たとえば、

  • (i)福利は主観的なものである
  • (ii)福利は幸せと同一であるか、密接に関連している
  • (iii)幸さは人生満足に存する
  • (iv)人々が自分の人生にどのくらい満足しているかにかんして最も信頼できる測定法は自己評価である

 本書のここまでの議論から、(i)と(iii)は正しそうだ。しかし(iv)はどうか。人々は問いを正しく理解せず、人生満足ではなく美的、完成主義的、また倫理的な観点から見た人生の良さなどを答えてしまうかもしれない。これらの次元が互いに一定のレベルで相関するということはない。また、不誠実な回答の問題もある。実際人は、自分の人生満足について体系的に過剰評価していると示唆する研究もある(Matlin and Stang 1978, Chs. 9 and 10)。[155]さらに、人生満足にかんする主観的報告は、その時のムードによって変化してしまう。これらの点を踏まえると、自己評価は問いにきちんと関連し、誠実で、反省的であればよい。また自己評価を補うものとして、行動指標や二人称的評価を参考にすることもできる。すべてのバイアスを取り除くことはできないが、しかし私たちの自己評価は、おおむね信頼できるといえるだろう。

 哲学的に重要な問題はむしろ(ii)にある。人生満足ないし幸せの測定は、福利も測定しているのだろうか?

6.2 本来性と自律性

 幸せ、ないし人生満足とは、主体が自分の人生の状態に対して抱く肯定的な認知的および感情的応答である。では、幸せと福利はどう関係するのだろうか。もっとも単純な関係は同一性だが、ここには二つの深刻な問題がある。

 第一の問題は、事実の誤りに基づいた幸せは福利と同一視できないという点だ。[159]この問題に対処するため、幸せを構成する肯定的評価の条件として、その評価が真なる信念に基づいているという条件を課す方法がある。この方法は多くの哲学者に支持されているが、正しいとは全く思えない。というのも、信念の誤りに気付いた人は過去の幸せを再評価するだろうが、しかしその過去の時点で幸せだったことを否定しているわけではないからだ。[158] 従って、幸せはやはり純粋に心的状態なのだと思われる。幸せに真理という条件を加えたくなるのは、幸せと福利を同一視しているからだろう。そこでむしろ、同一視をやめて幸せの心的状態説を維持し、認識論的な条件は福利概念の方の一部だと考える方が良い。

 では、具体的にどのような条件を課すのがいいか。「現実要請」(人生の状態かんする全く誤りのない認識を要求する)は強すぎる。〔現実要請によれば、事実の誤りが減れば減るほど、幸せは福利に近づくことになる〕。しかし私たちはこのような基準で過去の福利を再評価しない。より良い認識的条件に立ったうえでも、過去の人生をどう評価するべきかは、[159]私たち次第(up to us)の問題であるはずだ。この「私たち次第」という点は、より弱い「正当化要請」(人生の状態かんする正当化された認識を要求する)をとっても改善しない。ここでもやはり、あるべき評価が理想的認識論的条件からの偏差のみ決定されているからだ。

 別のアプローチを取ろう。5章2節で、欲求充足説において選好は知悉的でなければならないが、この要請を欲求充足説の内部からは根拠づけられない、という論点に触れた。しかし話が本人の満足(人生の状態の承認)になっている今は、[160]この承認に対して知悉性の要請をかける根拠がある。というのも、そもそも福利の主観説は、福利を決定するにあたって当人の視点が権威を持つものだった。そしてこの「視点」とは、人生の状態に対する「本人の」承認だと解釈された。しかし承認が誤りに基づくなら、当人の権威も失われてしまう。従って、本来的な承認は知悉を要請する。しかしながら、情報には福利にとって重要なものとそうでないものがある。主観説にとって情報は、その人の価値観に照らして、人生の状態に対する当人の感情的反応に違いを生み出す限りにおいてしか福利に関係しないのだ。[161] 他方で現実要請や正当化要請は、情報が減るほど、全ての人に等しい形で、幸せの福利に対する重要性を低減させてしまう。そこで、人生の自己評価が本来的であるためには、それは撤回可能(defeasible)でなければならないと言おう。その意味は、「自己評価は本人の深い価値観を反映していないと考える理由がない限りは本来的である」ということだ。自己評価が知悉的でないことは、本来性を疑うひとつの理由となりうる。

 本来性を疑う理由は、知悉性の欠如だけではない。幸せと福利の同一視に対する第二の問題に移ろう。3章3節でセンは、福利と効用を同一視できない理由として、選好が社会的条件などの外的要因にあまりに左右されがちであること(選好の展性(malleability))を挙げていた。[162]この批判は全ての主観説にとって重大であり、目下の見解も例外ではない。というのも明らかに、いくら承認が経験的事実に関して知悉的であっても、人が自分の人生を判断する基準それ自体に対する社会的影響を除外することはできないからだ。

 [164]センの批判に対して、多くの哲学者は主観説と客観説のハイブリッドを展開した。例えば、何かが福利に寄与するのは、主体がそれに満足しており、かつそれは満足とは独立に価値がある場合に限られる(「価値要請」)、といった形で。[165] こうした説の支持者には、古くはアリストテレス、ミル、そしてヌスバウム、ラズ、ドゥオーキン、またグリフィンがいる。この価値要請は、事実を問題にしていた「現実要請」の価値版だといえる。しかしこちらの要請のほうがさらに問題が大きい。まず、経験的真理に対応する評価的真理が存在すると仮定されている。さらに、「独立に価値がある」と言うときの価値の種類の問題がある。循環を避けるため、これは慎慮的(prudential)価値以外の価値でなければならないが、倫理、美、自己実現、いずれだとも考え難い。そしていずれにせよ、幸せが福利にどう関連するかをすべての人に一様に押し付けるという点で問題がある。[166]価値要請が強すぎるならば、より弱い正当化要請ではどうか。しかし結局話は変わらない。事実・価値とわず、現実/価値要請も正当化要請も、あまりに上から目線で厳格主義すぎるのだ。むしろ必要なのは、情報〔知悉性〕要請の対応物だ。教化や搾取によって自己評価が歪められている人に対する治療は、その人が自分自身に対する期待を形成するさいの条件を正してやることである。こうした人々の問題は、価値観が客観的に誤っていることではなく、自分自身の価値を形成する機会がなかったということ、自律の欠如なのだ。
 
 [167]そこで、(自己評価された)幸せないし人生満足が福利に数え入れられるのは、それが自律的な場合に限られる、と言おう。しかしそれは具体的にどういう場合か? 人が自律的なのは、その人の信念、価値、目的、決定などが、自分自身のものである場合だ。そこで、自律性の核には本来性(Authenticity)があるといえるのだが、[168]本来性をどう解明するかには諸説がある。一つのアプローチは、同一化(identification)に訴えるものだ。同一化は目的に対する批判的反省を要求するが、この反省は欲求の階層という形で表現されることが多い。しかし、高階の反省的プロセスで用いられている価値ないし基準が、自律的に獲得されていないかもしれないという問題がここで生じる。[169]これを防ぐためにさらに高階のプロセスを要求すると、無限後退に陥ってしまう。

 そこで別のアプローチは、選好がどのように獲得されたかという歴史的プロセスに注目する(John Christman)。[170]この説は、「操作的」な選好形成過程と「通常の」選好形成過程を区別する方法を必要としている。直観的には、操作的な選好形成過程とは、その過程と帰結に関する反省的批判の機会を奪う過程だ、といえるだろう。しかしこの時、主体には階層モデルが提示しているような反省能力が要求されている。また、非自律的に形成された選好を後に自律的に受容するということが考えられるため、選好が形成された最初の歴史だけでは自律の説明に十分ではない。

 従って、既存の自律理論はどれも自足的ではない。[171]同一化を重視する説では、選好形成過程の自律性を前提せねばならず、逆に選好形成過程を重視する説は、批判的評価能力を前提せねばらならい。しかし、ここまでの検討が目下の説に対して持つ含意は明らかである。幸せの自己評価が疑わしいものとなるのは、それが自律性を奪う社会的条件付けのメカニズムによって影響を受けていると考える良い理由がある場合である。そうしたメカニズムには、教化、洗脳、考えや役割の植え付け、などが含まれる。

 まとめ。主観説は人の福利の究極的な権威を当人におく。ただし、当人の報告が非本来的な場合は例外である。本来性の条件は、知悉性と自律性として説明された。

6.3 福利の理論

 本書のここまでの議論をまとめていこう。[172]この6章では、福利と幸せの関係を扱っていた。まず、幸せは人生満足と同一視された。ただし、幸せは福利と同一ではない。人生に対する自己評価が本来的でない、すなわち知悉性と自律性を欠いている可能性があるからだ。この「本来的幸せ」としての福利理論は、福利を本人の態度に依存させているので、あきらかに主観説である。2章2節で見た任意の主観説の4変数に対応させて言えば、人生の状態が当人を益するのは、(1)その人生の状態を、(3)当の主体が、(4)本来的に、(2)承認しているときである。[173]すると今や、福利(精確には、内在的に利益であるという性質)は二次性質だと考える良い理由がある。すなわち福利とは、私たちの人生の状態が持つ力能ないし傾向性で、私たちに適切な肯定的態度を喚起するものなのだ、と(これは道徳的性質に関する感受性説に近づいている)。

 しかし、知覚的性質の主観説は、(3)参照すべき主体群と(4)通常の条件、が特定できないと批判されてきた。[174]同じ批判が福利の主観説にもあてはまるのではないか? すなわち、主体はいつ知悉的で自律的なのか。この問いに対して、主体が承認しているものが、当人にとって本当に慎慮的価値がある場合だと答えてはまずい。というのも、「価値がある」が「価値があると承認されている」よりも論理的に優先されることになり、循環が発生するからだ。しかし、本来の幸福説には循環を避けるリソースがある。というのも、情報と自律の要求は、本来性というより基本的な要求から出てきており、本来性は主観性から出てきているのだった。したがって、誰が標準的観察者で何が標準的条件なのかの特定化は、主観性の本性の中に含まれているのだ。〔つまり、観察者・条件が標準的なのはいつかという問いに対して、それが自分自身(のもの)である場合だ、と答えられる〕。

 4章では、主観説を二種類に分けていた。すなわち、心的状態にのみ基づく説と、[175]世界の状態も問題にするものだ。前者には古典的快楽説、後者には欲求充足説が含まれる。幸福説は、経験の要請を受け入れる点で古典的快楽説に似ているが、本来性の条件の中に情報要請を組みこんでいるために世界の状態も問題となり、この点では欲求説に与する。両者の中間に位置しているといえる。


 幸せ説が快楽説や欲求説より優れていることを確かめるため、記述的妥当性(1章2節)を見てみよう。記述的に妥当であるためには、まず通常の福利概念および経験に忠実であることが求められる。幸せ説は、まずは主観説の一種として、福利の主体相対性を適切に認めている。[176]さらに、快楽説がエピソード的な感じに偏りすぎ、かつ心的状態中心主義という欠点を抱えていたのに対し、幸せ説はよりグローバルな態度や情報要請の導入によってこれらの欠点を解消している。また、欲求説は経験の要請を満たさないという問題があったが、幸せ説ならこれも満たしている。さらに幸せ説は、心理的利己主義の否定という点でも常識に忠実である。快楽説は、心理的利己主義から慎慮に関する結論を引き出す傾向があり、また欲求説においては、全ての合理的行為が自己利益に基づくものに定義上なっている恐れがある。他方で幸せ説ならば、自律的行為者が自分の利益に基づいた行為をしないことがありうる。というのも、幸せの自己評価は慎慮的価値にしか基づいていないので(「関連性条件」)、[177]行為者は自身の福利に反してその他の価値を認める余地がある。

 記述的妥当性のより特殊な基準として、一般性、形式性、中立性があった。順番に取り上げよう。まず一般性について。主体が一定のレベルの福利にあることも、それが増減することも、幸せ理論は十分に表現できる。また、日常的な福利評価は個人間比較を含む。これは客観説より主観説の方が不利だと考えられてきたポイントだが、こうした比較は現在の「主観的指標」派の人生満足研究ではよく見られるものである。[178]ただし、異なる文化の人々や、深刻な障害を持った人々、さらには異なる種の生物との比較は、情報が薄いために、難しくなってくるだろう。中心的な福利主体と辺縁的主体を区切る根拠についてはどうか。幸せ説の場合、人間のように複雑な認知能力がなくても、ベースラインとなるのは自身の人生を肯定できる/できない[agreeable]ものとして経験する能力である。その最も原始的な形は、楽しみ/苦しみないし快苦の能力だ。この能力を感性(sentience)と呼ぶならば、幸せ説における主要な福利主体は全ての感性的生物だと言える。この線引きによると、周辺事例に相当するのは非-感性的生物(植物など)や、痛みや快を感じるに至っていない段階の人間の胚、[179]意識を恒久的に失った人間などにあたる。これらの存在には、卓越性や完成はありうるかもしれないが、福利はもたない(3章4節)。なおこの基準によって、幸せ説は欲求説とは異なり、死者にいかなる福利も認めない。ここで言う死者には、意識の能力を失った脳死・植物状態の人も含まれる。また、集団の福利も認められない。

 [180]形式性の基準に移ろう。幸せ説が説明しているのは、福利の源泉は具体的に何かではなく、具体的な何かが福利の源泉となるのはどういう場合かであり、これは形式性をきちんと満たしている。福利は主観に相対化されてはいるが、私たちが通常満足だと感じる人生の状態を一般化することはできる、すなわち、健康、享楽、達成、知識、人間関係、自由、自己肯定感、休息などが、標準的な「人間的善」として挙げられるだろう。私たちはこれらに対して、それ自体のための関心を、ある程度は向けており、[181]したがってこれらが存在すると人生はある程度満足なものとなる。なぜそうなのかという問いに対しては、私たちはそういう生物なのだとしか答えられないだろう。今挙げられた項目は客観説が挙げるのと重なっているが、主観説は形式的であるため、なぜこうした項目が挙がるのかを説明できるという利点がある。また、各項目の相対的重要性が個人によって違うことも説明できる。さらに、その他の主観説が項目のうち一つを重視しすぎるのに対し、幸せ説であればすべての善の重要性を説明する一般的説明を与えることができる。

 最後に中立性。客観説と比べ、主観説はこの制約を守りやすい。しかし、標準条件のなかに予め定まった善を組み込んでしまう危険性がある。しかし幸せ説は、情報と自律の条件を本来性要求から、そして本来性要求を主観性それ自体から導出しているため、この危険を逃れている。幸せ説は中立的なので、理論上は、いかにどうでもよく低劣な人生の状態でも当人にとって慎慮的価値をもちうる。とはいえ、実際のところそんなことはめったにないと考える経験的理由は十分にある。

 [183]まとめ。ほとんどの点で、幸せ説は他の説に比べて記述的妥当性に優れており、福利に関する最善の描像を与えていると言える。