えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

コーエン『カントの経験の理論』のカント解釈 Poma (1997)

The Critical Philosophy of Hermann Cohen: LA Filosofia Critica Di Hermann Cohen (Suny Series in Jewish Philosophy)

The Critical Philosophy of Hermann Cohen: LA Filosofia Critica Di Hermann Cohen (Suny Series in Jewish Philosophy)

  • Andrea Poma. (1997). The Critical Philosophy of Hermann Cohen. Translated by John Denton. Albany, NY: State University of New York Press.
    • 1. The Interpretation of Kant

 コーエンの思想の背景としてまず新カント主義が取り上げられる。思弁的観念論の没落と唯物論の台頭の中、この両者に反対するものが、ヘルムホルツに代表されるような初期の生理学的な新カント主義だった。しかし生理学的新カント主義は、アプリオリを客観的現実の問題にしてしまっている点で唯物論と変わらないとコーエンは断じ、新たな道を探ることになる。そのキッカケとなったのがトレンデレンブルク-フィッシャー論争だった。コーエンは「トレンデレンブルクとクーノ・フィッシャーの論争への寄与」(1871)のなかで、カントの「根本思想」とはその批判的アプローチであり、哲学は形而上学とも心理学とも異なる批判的な学でなければならないと主張していた。ただしこの点の展開は後の著作に委ねるとされた。

 その著作が、『カントの経験の理論』(1871)だ。この本では、カントにおけるアプリオリの意味が3段階に整理されている。まず、事実として、全ての外的現象は空間の中で現れている。この意味で空間がアプリオリと言われるとき、それは「第一の源泉」という意味で使われている。しかしこの事実はいかにして可能になっているのか。カントの有名な回答は、空間性は外的感覚器官の形式であるというものだ。この文脈では、直観の「形式」という意味でアプリオリという語が使われている。カントの言う「形式」とは常に「現象の形式」のことなので、直観の形式とは、内容を捨象した直観作用それ自体、純粋直観のことを指す。しかし純粋直観というのは未だ〔心的作用からの〕抽象で、主観主義的に解釈される危険がある。そこで、アプリオリの第三の意味を明確にすべきだとコーエンは主張する。それが、「経験の可能性の形式的条件」だ。この意味において、アプリオリは主観性や生得性から完全に離れることができた。「以上の分類を踏まえれば、空間はアプリオリな直観だというのは次のことを意味している。空間とは経験の構成条件である」。
 この意味でのアプリオリは、超越論的感性論だけからでは理解できない。なぜなら、経験を構成する「総合」の作用や、総合による統一性付与のアプリオリな条件となるカテゴリーが見逃されるからだ。そこでコーエンは超越論的感性論を補完するものとして超越論的論理学に向かう。そこでカントはカテゴリーを判断表から導いており、カテゴリーのアプリオリ性はこの段階では心理過程に解消されてしまう。しかしこの段階は超越論的演繹によって乗り越えられ、アプリオリの形式的性格が強調されるようになるとコーエンは言う。カテゴリーのアプリオリ性とは、カテゴリーが経験の形式的条件だということなのだ。そして、経験とは多様が総合されることではじめて可能になるのだから、カテゴリーのアプリオリ性とは統覚の総合的統一に他ならない、と結論される。「空間が外的直観の形式であり、時間が内的直観の形式であるのと同じように、超越論的統覚はカテゴリーの形式である。自己意識とは、私たちが知性の純粋概念を生み出すための超越論的条件である」。こうしてカントの「超越論的自己」も、形而上学的な意味や人間学的意味がはぎ取られ、純粋な「超越論的条件」、あらゆる可能的経験の構成条件になる。
 このように、超越論的探究はまず現象の総合としての経験という事実から出発し、総合を可能にするアプリオリな条件を、感性と知性に遡及的に見いだす。従って、知性と感性の分離は分析による抽象化の産物で、本来両者は、内的感覚を媒介にして協同して経験を構成している。そこでこうした協同を扱っている『原則の分析論』と図式論こそが、超越論的なアプリオリに真の意味を与える場所だということになる。
 以上のようなアプリオリ理解により、コーエンは多くの問題に答えを与えられるようになった。まずトレンデレンブルクによるカント批判に対して。トレンデレンブルクの指摘は、客観的知識が成立するためには、空間と時間はカントが言うように主観の形式であるだけでなく、さらに対象の形式でもあり、かつ両形式のあいだに調和が成立していなければならない、というものだった。しかし〔空間と時間が主観の形式だというのはそれらがアプリオリだということであり、〕アプリオリだというのは、あらゆる可能な経験の構成条件だということなのだった。従って主観の形式である空間や時間は、同時に知識の対象をも構成しているのであって、〔トレンデレンブルクが指摘するような、客観的知識のためのさらなる要件は必要ない〕。
 次に、アプリオリなものの発見と正当化について。コーエンは、アプリオリなものを発見する超越論的探究が経験からはじまると認める。経験的演繹が前提となり、形而上学的演繹が続く。しかしアプリオリなものを正当化するのはあくまで超越論的演繹である。そこではカテゴリーが元々持っていた心理的意味、そして形而上学的意味が破棄され、可能な経験の形式的条件という完全な意味を得るのだ。
 物自体や理念については、『カントの経験の理論』初版時点のコーエンは、純粋に否定的な特徴づけを行い、最小限の還元主義的立場を採用している。この見解は後にさらなる展開を見せることになる。

 さて、コーエンはカントの根本思想を批判哲学に見ていたのだった。しかしコーエンの批判哲学理解を探るのに、『カントの経験の理論』初版は最適な本ではない。この本は第一批判の一部しか扱っていないし、またコーエン自身、本書の主たる目標はあくまでカントに対する反論への応答であって、批判哲学のさらなる展開のためには哲学史と自然科学の観点からカントを超えて行く必要を認めていた。とはいえしかし、本書から批判哲学の特徴を析出することは可能である。
 これはコーエンが生涯確信し続けた点だが、批判哲学の第一の根本的特徴はその「超越論的方法」にある。この方法は、三つの基本的ポイントに整理することができる。

  • (1)哲学は経験という「事実」からはじまる。これは経験主義から学ばれた点で、思弁的・演繹的形而上学から批判哲学を区別するものでもある。『カントの経験の理論』初版の時点では、経験とは自然科学と同一視されているが、後には文化の領域に拡張されていくことになる。
  • (2)哲学は経験の可能性の「非経験的な」原理を突き止めなければならない。これにより批判哲学は経験論と懐疑主義を超えていくことができる。
  • (3)そして、アプリオリなものは形而上学的実体としても生理学的器官としても実体化されてはならない。アプリオリとは、純粋に機能的ないし「形式的」な意味をもつ。

 さらに、批判哲学の第二のポイントは、総合としての知識という考え方にある。カントは、知識において感性が果たす役割を極めて重視し、アプリオリなものを知性だけでなく感性にも認めた。「知性が総合するというまさにそのことが、直観のアプリオリ性を要請する」。この点で超越論的観念論は経験的観念論から区別される。〔そして、アプリオリなものとは形式的なものなのだから、〕超越論的観念論とは形式的観念論なのであり、だからこそ経験的には実在論でありうるのだ。
 従って『カントの経験の理論』によれば、超越論的方法論と形式的観念論が批判哲学の2大特徴である。コーエンの後の著作では、超越論的方法論は中心的なものでありつづけるが、知識における感性の役割は後退していくことになる。また上述したが、『カントの経験の理論』での批判哲学理解は、体系性、物自体、理念などの扱いが不十分であり、これらの点も後の著作で展開されることになる。