えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

製図・スライド・レントゲン:科学における図の技能 Hentschel (2014)

Visual Cultures in Science and Technology: A Comparative History

Visual Cultures in Science and Technology: A Comparative History

  • Hentschel, K. (2014). Visual cultures in science and technology: A comparative history. Oxford: Oxford University Press.
    • Ch. 8 Practical training in visual skills

【要約】
科学者は多くの訓練をつむことで図を生み出し解釈できるようになる。いくつかの具体例で見てみよう。幾何学的製図は、その訓練について言語圏ごとにかなりの違いがあった。また様々な光学的投影技術が、図の再認技能獲得を助けるために用いられた。レントゲン写真の場合、複数の写真を様々な形で比較することに訓練のポイントがあった。

  • 近年の歴史家は、科学における教育や訓練に注目しはじめた。科学者は、視覚表象を作り、操作し、また解釈する技能をどう身につけるのだろうか。

8.1 Technical drawing in France, Germany and Britain

  • 中世と初期近代では、図面[technical drawings]と呼べるようなものを生み出したのはごく少数の集団であった(Villard de HonnecourtConrad Kyeser)。この時代の図面はほとんど残っていない。製図知識は秘密のものでその伝達は師弟間に限られており、また羊皮紙や紙は耐久性が低かったからだ。また19世紀まで、建築と造船以外では工業製品は手作りでひとつひとつユニークなものだったため、図面の必要があまりなかった。
  • 産業革命の頃、機械設計の分野で標準化された製図が登場してくる。ただし、産業革命開始の地である英国では、顕著な地域差と競争、秘密主義が標準化を妨げた。標準化の推進力はフランスから来た。フランスでは、職人、建築家、鉱山技師などを体系的に訓練する各種学校が1600年代後半から存在していた。そうした学校のひとつ、エコール・ポリテクニーク〔の開校にかかわった〕ガスパール・モンジュ [Gaspard Monge] は、数学・物理学者でありつつ、ナポレオンが外国から押収した作品の修復・イラストの監修などにかかわる「芸術家-科学者」だった。彼は3次元対象の2次元での描画こそ技術者の中心的仕事だが、これには徹底的訓練が必要であるとして、教科書『画法幾何学』(1795)を執筆した
  • エコール・ポリテクニークでは、開校当初(1794)カリキュラムの45%が絵[drawing]の訓練にあてられていた。化学や物理の重要性が高まると割合は減ったが、絵の訓練は思想上は技術者教育の中核でありつづけた。モンジュの教科書はフランスで標準的なものとなり、アメリカ、スペイン、ドイツでも翻訳・紹介された。またエコール・ポリテクニークをモデルにした理工学校[polytechnic institute]が、19世紀中にヨーロッパ中へ広がった。
  • ドイツでは、各理工学校を頂点に一連の階層的な教育システムがあった。基本的な製図技術は低級の徒弟にも教えられねばならないものであったために、ドイツでの製図教育は〔段階的な〕3つのグループに分けられるものとなった。算数の一部としての初等の幾何学的製図から、モンジュをかなり簡略化した形での画法幾何学、そしてFachzeichnen〔幾何学を応用した絵?〕である。創業者時代、工業生産プロセスが社会的に分化していくにつれ、図を読み書きする技能の需要は高まっていった。これまで絵の教育の到達点とされていた自在画[free-hand drawing] は、幾何学的厳密さから初心者の目を逸らす問題含みのものとされるようになった。
  • 実践的な幾何学が教えられるやり方は、言語圏ごとに異なっていた。フランス語圏ではモンジュのアプローチをさらに進化させ、射影幾何学や図による静力学の理論が打ち立てられた。ドイツ語圏では画法幾何学と運動学が理論運動学に置き換えられ、理工科組織での絵の訓練は減った。また、複雑な対象に対応できる空間的直観を養うべく、実演モデルを描くことが求められた。理論重視の仏独に対し、英語圏ではより出来たもの重視の実用的なアプローチがとられた。William Farishが1822年に考案した等角透視法によれば、客観的に同じ長さの線をそのまま同じ長さで描くことが出来る。この単純な視覚表象は、絵の訓練を受けていない人にいまでも好まれ続けている。
  • 20世紀に入り、生産プロセスはますます社会的に分化した。これに合わせて製図も、ラフスケッチから仕様図をへて完成品の3Dモデルに至る多様なインスクリプション装置へ展開した。またコンピュータは作図を大きく変えた。今日でも人間の製図技能は重要だが、手書き製図の時代は終わった。
8.2 Slides, posters and plates in scientists’ training
  • イメージを聴衆に示すのに光学的投影を使うという着想は古い。この着想を一番簡単に具体化したのが幻灯機であり、デラ・ポルタの『自然魔術』(1589)は人を困惑させるものとして幻灯機を描写している。しかし既にキルヒャー(1646)はその仕組みを細かく解説して脱神秘化をはかっている8。17-18世紀に幻灯機と同じ原理で動いていた装置に、いわゆる「太陽顕微鏡」がある。これにより熱いガスを可視化したJean Paul Maratは、カロリックの存在を示したと主張していた。
  • この種の投影装置の欠点は、強い自然光への依存だった。酸水素ガス灯や電灯の登場でこの問題が解決されると、スライド投影装置は学校や教会、劇場、科学教会、大学などに普及し、あらゆることに用いられた。ただし、映画やラジオ・テレビの発展、そしてデジタル画像とプロジェクタにより、20世紀末には完全に時代遅れになった。
  • スライド投影は特定の対象を再認する能力を素早く身につけることを助ける。しかし、例えば光スペクトルをスライド投影やポスターで生徒に見せるだけでは、その配置を自分で再び描き直す技能は身に付かない。自ら積極的に何度も描くことが必要なのである。
8.3 X-ray atlases and training radiologists
  • 1895年、レントゲンはたまたまx線を発見した。このニュースは瞬く間に新聞で報じられ、図像の力もあって多くの非専門家(ヴィルヘルム2世含む)に熱狂的に受け入れられた。同時に、全身がx線にあてられることへの非専門家の恐怖を、骸骨をモチーフとしたカリカチュアの中にみることができる。
  • またx線の発見は専門家にも熱狂的に受け入れられた。慣れない技術への不信を常とする医師もすぐ警戒を解いた。x線画像の質は急激に上昇し、発見から数ヶ月の内に医療的応用に向けたハンドブックが出版された。医者のわかりにくい説明でなくx線画像を使うことで、患者が自分の状態を自分で理解できるという利点も強調された。
  • x線画像は詳細で明快なものなので、医療への応用は簡単で前途洋々だと想定されていた。だがこれは誤りであった。x線画像に適しているのは手のひらなどの限られた部分だけで、内科には不向きだった。x線画像の診断上の意味は、決して透明で自明なものではなく、多くの実験や、死体-生体間・病気-健康間での比較、他の診断法との翻訳、画像間の比較などによって形づくられていった。これは現在の歴史家の見解であると同時に、当事者の見解でもあった。1903 年に肺病へのx線画像使用をレビューした医師John Dallyは、あくまで旧来の技術を併用するよう勧めている。なお彼は同時に、考えの古い医師を説得すべくx線による診断と旧来の診断を類比させている。こうした類比は、新しい技術の新奇さを隠すのによく使われる(例:ダゲレオタイプ…油絵)。
  • x線の取り扱いと応用は当初全くコントロールされておらず、数年の内に人々には副作用が生じ、1904年には死亡事例が出た。そこで、x線の取り扱いを専門職化しようという動きが生じた。1910年には放射線医学を標準化されたルーチンとして確立する助けとなる標準化されたアトラスが利用可能になってきていたが、大戦期には素人の手が必要になったため、専門化が確立するのは結局1920年付近になった。この頃にはx線画像を生み出し解釈する専門家として「放射線医師」が確立し、より技術的な仕事は「放射線技師」や技術職員が担当することになった。
  • x線画像を解釈するには、複数の画像を比較することが必要になる。正常と異常な画像を比較することで、放射線医師はレントゲン写真の中の指標を再認できるようになる。また微妙に異なる二枚の比較は、3Dイメージを浮かび上がらせたり、アーティファクトを検出するために必要となる。さらに、検死結果を踏まえて古い写真を検討し直すことも、x線でものを見る[see with x-ray]ために学ばねばならないことであった。
  • 一枚以上の図像が必要ということから、対象を固定して装置を動かしトモグラフィ(断層映像)を撮るというアイデアがすぐ出てきた。当時はこの試みはうまく行かなかったが、肺結核などの一部の病気を調べるのに有効な技術がここからうまれた。また別のアイデアとして、蛍光スクリーンを背景にすることで映画を撮影することができた。こうした技術的発展があったとはいえ、アトラスは放射線医師の訓練にとって最重要な媒体であり続けた。
  • なおx線画像は早くから、美的性質の点でも実験家や芸術家をひきつけつづけている。
  • x線画像、アトラス、映像は、人体の内部を見る新しい道を切り開いた。専門家たちは集中的な訓練を受けることで、非専門家にはかすかで珍妙な影にしか見えないところに、ゲシュタルトを見る技能を身につけるのである。