えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

古代ギリシアの3つの狂気 ドッズ (1951) [1972]

ギリシァ人と非理性

ギリシァ人と非理性

  • ドッズ, E. R. (1951)[1972]. 『ギリシャ人と非理性』(岩田靖夫, 水野一訳, みすず書房).
    • 第三章 狂気の祝福

  プラトンは『パイドロス』において「神的な狂気」を4つに分類しました。
(1)予言的狂気 - アポロン
(2)祭儀的狂気 - ディオニューソス
(3)詩的狂気 - ムーサ
(4)エロス的狂気 - アプロディーテー、エロス
この章は前三つについて、その歴史的変遷と、当時の心理学・人類学的知見との類同を検討したものです。その前に著者は、「神的な狂気」と病気による普通の狂気という 区別はヘロドトスには既に見られるものの、ホメロスにおいては全ての狂気が超自然的原因をもつと考えられていたことを確認しています。
 
  まず「予言的狂気」です。脱魂(=トランス)状態での予言は極めて早い時期から西アジアで行われていました。アポロンはアジアの神であり、アジアでもアポロンの祭儀と予言は結びつけられていました。そこで、ギリシアにおける予言的狂気は少なくともアポロンの宗教と同じくらい古いと考えられます。
  一人称で行われるこの予言は、まさに「神がかり」によるものと考えられ、デルフォイではもちろん私的にも行われていました。「ピューティア」と呼ばれた霊感を受けた予言者たちは、脱魂の前に一連の祭事があったことを考えると、おそらく今日の霊媒的な脱魂とおなじく一種の自己暗示によって脱魂したと考えられます。一部の学者は脱魂の原因を生理的なもの、たとえば有毒ガスの吸引に求めました。従って彼らは当然、ピューティアの「うわ言」は最終的な予言とは殆ど全く関係なく、予言はねつ造されたものだとしました。しかし、神託を買収しようとした人が神託解釈者ではなくピューティアに近づいたというヘロドトスの証言から、この主張は誤りだと考えられます。
  デルフォイの神託は、とりわけペルシャ戦争において大失敗したのにも拘らず、懐疑の目をあまり向けられませんでした。人間の無知と無力さを深く自覚し、神の妬み(フトノス)や汚れへの恐怖に支配されていた「罪の文化」のなかに生きたアルカイック期のギリシア人たちは、その重みに超自然的な神託なしには耐えられなかったのではないかと著者は推測しています。神託により、一見混沌とした世界に秩序と目的が与えられたのです。

  つづいて第二の「祭儀的狂気」について。罪の文化が生んだ不安に対しアポロンは安全を与えましたが、ディオニューソスは自由を与えました。フリュギア調の音楽に踊りを伴う彼の祭儀の社会的役割は浄化的なもので、非理性的なもの解放し取り除くことでした。古典期に入りディオニューソスの祭儀がポリス公認のものとなると、このカタルシスの治療的機能は別の、例えば同じ調の音楽と踊りからなるコリュバンテスの祭儀によって購われたようです。こうしたある一定の形式の音楽によるカタルシスは、ソクラテスやプラトンも効くと評価していましたし、今日の音楽療法に一脈通じるところがあります。

  第三の「詩的狂気」を、プラトンはムーサに「捕われる」ことだと述べています。ヘシオドスの頃から、ギリシア人にとって詩的創作は「選んだ」のではなく神から「与えられた」要素を含んでいました。そしてムーサへの呼びかけの言葉から分かるように、「与えられる」ものとは詩の形式ではなく「内容」、歌うべき「事実」でした。ムーサの賜物とは真実を語る力であり、詩人は恩寵により予言者と同じように特別な真理を手に入れられたのです(かつてこの両者は一体でした)。ですが、プラトンが問題にしたような恍惚状態での詩作という観念は五世紀以前には(あったはずですが)史料で確認できません。この観念は、ディオニューソスの宗教運動の副産物として現れてきた比較的新しいものなのではないかと著者は推測しています。