えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

指示にかんする直観の文化差 再訪 Sytsma, Livengood, Sato, and Oguchi (2015)

http://link.springer.com/article/10.1007%2Fs13164-014-0206-3

  • Sytsma, J., Livengood, J., Sato, R., and Oguchi, M. (2015). Reference in the Land of the Rising Sun: A Cross-cultural Study on the Reference of Proper Names. Review of Philosophy and Psychology, 6(2):213-230.

  直観の文化差問題について、日本の研究者も協力して調査を行った論文が出たようです。

   ◇   ◇   ◇

 Machery, Mallon, Nichols, and Stich (2004) は、「ある名前がどの人を指すかに関する直観はすべての人で一様だ」というこれまでの哲学の方法論上の標準的前提に反対し、西洋と東洋(アメリカと中国)で文化差があることを示す調査を行いました。この時用いられたのがクリプキの有名な「ゲーデル-シュミット事例」です。著者らの翻訳版から引用します。

 ジョンという人物がいたとしよう。ジョンは大学時代に、ゲーデルとは、算術の不完全性と呼ばれる、ある重要な数学の定理を証明した人物である、と教わった。ジョンは数学が大変得意であり、不完全性定理についてその正確な内容を述べることができる。ジョンはその定理の発見者はゲーデルだと思っているが、彼がゲーデルについて聞いたことがあるのはこれだけだった.
 ここで、ゲーデルはこの定理の考案者ではなかったと想定してみよう。 実際には、「シュミット」と呼ばれる男――その遺体はウィーンにおいて何十年も前に不可解な状況で発見された――がその業績を成し遂げたのである。シュミットの友人であったゲーデルは何らかの手段をもちいてその手稿を手に入れ、その業績を自分のものだと主張したのである。以来、その業績はゲーデルのものとされている。こうして、彼は算術の不完全性を証明した人物として知られることになった.
 「ゲーデル」 という名前を聞いたことのある人のほとんどはジョンと同じである。つまり、ゲーデルについて聞いたことがあるのは、ゲーデルが不完全性定理を発見したということだけである.

問題
「ゲーデル」 という名前を使うとき、ジョンが語っているのは誰についてか?
(A) 算術の不完全性を本当に発見した人物
(B) 手稿を手に入れ、その業績を自分のものだと主張した人物

西洋の人のほうが東洋の人より(B)と答えやすいというのが、Macheryらの発見でした。

 ところが、この調査に対してSytsma & Livengood (2011) は方法論的な問題を指摘しました。すなわち、西洋の被験者側の調査用紙に書いてある「「ゲーデル」という名前を使うとき、ジョンが語っているのは誰についてか?」という問題は、これに対してジョンの視点に立って答えるべきなのか、それとも語り手の視点で考えるべきなのかが曖昧だ、という批判です。実際彼らはどの視点で回答すべきかを明示化した追試を行うことで、もとの回答よりも極端な回答パターンが現れることを明らかにしました。つまりもとの回答と比べ、ジョンの視点を明示的にとると(B)の回答は減り、一方で語り手の視点を明示的にとるとこの回答は増えるのです。彼らは、同じ問題が東洋の方でも生じている可能性を指摘していました。

 そこでこの論文は、この視点の曖昧さを排除した追試を東洋(日本)でも行い、次の点を検討しようというものです。
(1)視点の曖昧さは東洋における回答にも影響を与えるか
(2)曖昧さを排したあとでも直観の文化差は残るか
(3)「Macheryらの実験で文化差が出たのは、東洋の人が第二言語(英語)で質問を受けたからだ」という批判(Lam 2010)は当たっているか
 
 まず著者らは曖昧性を排した調査を改めてアメリカでおこない、Sytsma & Livengood (2011)とおなじ回答パターンを再現しました。元の曖昧な回答形式だと(B)回答の割合は55%、ジョンの視点では31%、語り手の視点では69%です(第一段階)。そしてこの質問紙を日本語に翻訳し、日本人を対象として調査を行ってみると、語り手の視点を明示化してもやはり(B)の回答を行う人物は少数であることがわかりました。また同時に、視点を明確化したことの影響が第一段階における調査よりも少ないこともわかりました。すなわち、曖昧な回答形式だと(B)回答の割合は30%、ジョンの視点でも30%、語り手の視点でも40%です(第二段階)。ですがこうした結果は、日本語への翻訳の際に何か問題があったからかもしれません。そこで著者らは日本語の質問紙を英語に再翻訳し、もう一度アメリカで調査を行うことで、翻訳に問題がなかったかをチェックしました。すると、第一段階とおおよそ同じような回答パターンがやはり現れました(第三段階)。

 従って上の問いに対しては、
(1)視点の曖昧さが与える影響は東洋では少ない
(2)曖昧さを排した後でも直観の文化差は残る
(3)母語で質問しても文化差は残る
という結論が得られたことになります。Macheryらの調査をさらに洗練させるかたちで、「ゲーデル-シュミット事例」における直観の一様性に疑念が投げかけられました。

 ですが著者らは2点の注意を促します。まず、この実験は第一義的にはあくまでこの事例での直観使用に疑念を投げかけたものであり、指示の理論における直観使用、意味論における直観使用、哲学における直観使用へと話を拡大するのには慎重になるべきだということ。そして、「専門家の直観にたよる」などの方法で標準的な方法論を守る道は残されている、ということです。