えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

七つの大罪から十戒へ Bossy (2002)

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  • John Bossy (2002). Moral arithmetic: Seven Sins into Ten Commandments. In Edmund Leites (ed.). Conscience and Casuistry in Early Modern Europe. Cambridge University Press. (pp. 214–234)

【要約】
「七つの大罪」という考え方はギリシア的なものであるが、キリスト教の伝統的道徳体系になっていった。13世紀のスコラ神学者の間で、聖書に基づく十戒への関心が高まり、その普及が試みられたが、あまり成功しなかった。14世紀のオッカム主義が十戒の重要性を再び強調し、ジャン・ジェルソンはその普及に多大な影響を与えた。ルターが予想外の十戒擁護を示し、また宗教改革が聖書に基づく倫理を強調する中で、カトリックでも十戒への抵抗が崩壊した。こうして16世紀にはカトリック・プロテスタントのいずれでも十戒への転換が生じた。この転換から様々な帰結が生じた。たとえば、偶像崇拝の否定が強調された結果、「魔女」観にも変化が生じ、迫害が激化した。あるいは、父母を敬う義務が強調され、いわゆる「子どもの発見」や親への服従の強調につながっていった。

七つの大罪と十戒:二つの道徳体系

[214] [215] 中世を通じて、西洋キリスト教で教えられた道徳体系は、「七つの大罪」に基づいていた。この罪のリストはギリシア的なもので、おそらく占星術に起源を持つが、教皇グレゴリウス1世によって権威付けされ、12世紀には体系化されていた。七つの大罪は、福音書にある二つの戒め(神への愛と隣人愛)を否定形で解説するものと解釈され、新約聖書の道徳的教えと関連付けられていた。

他方で16世紀以降、これとは異なる道徳体系が広く教えられ始めた。十戒である。当時の一般人にとって十戒は新しいものだった、と言うと奇妙に思えるかもしれないが、これは事実である。初期の教会では、十戒は古い律法の一部とされて距離を置かれていた。アクグスティヌスは十戒はキリスト教徒にも妥当なものだと論じており、[216] 13世紀になってアウグスティヌスが広く受け入れられると、十戒も徐々に浸透し始めた。ただし、その道徳的優位が確立されたのは、16世紀にカテキズムが世界的に普及してからだった。

七つの大罪と十戒の重要な内容上の違いとして、十戒では神に対する罪がより重要視されている。[217] また形式上の違いとして、十戒は命令・禁止される行動をかなり明確に特定している。十戒は、七つの大罪とは異なり、真に「法」だった。

七つの大罪が十戒に置き換わるという出来事は、なぜ生じたのか? 言わずもがな、宗教改革によって、聖書に基づかない規範が聖書に基づく規範に置き換えられたのだ、と思われるかもしれない。しかし、多くの地域では改革以前に変化は起こっていた。

ペチャムの十戒推奨と抵抗

話は13世紀のスコラ神学者から始まったようだ。神学者たちは七つの大罪の伝統的な権威を認めてはいたが、[218] 聖書や教父の影響で、十戒を中心としたキリスト教倫理を構築していた。司牧上の権威者がこれに続いた。たとえば、カンタベリ大司教のフランシスコ会士ジョン・ペチャム(John Pecham)は、聖職者たちに十戒を知り、また教えることを命じた。ペチャムの計画は模倣者を生み、聖職者向けの様々なマニュアルが作成された。有名なものに、パグラのウィリアム(William of Pagula/Willam Paull)が1320年代に著した『聖職者の目』(Oculus Sacerdotis)がある。

だが、聖職者たちは明らかにこれに従っていなかった。英国の場合、聖職者たちには七つの大罪のほうが扱いやすく、また聞き手にも説得力があると感じていた。マニュアルの著者にも、十戒に関する議論はそこそこに、罪のほうを詳述する者があり、1400年頃にはこのタイプのマニュアルが主流となっていた。また俗語の作品でも、十戒より大罪のほうが支配的な役割を果たしていた。マニュアルを題材とした俗語作品ではこの傾向が特に顕著である(ラングランド、チョーサー、ガワー)。[219] ドイツやフランスでも状況は変わらなかった。チョーサーが描く司祭は、七つの大罪について丹念に説明した後、十戒については「これほど高度な教義は神学者に委ねるしかない」と言っている。

このような断絶が生じた理由の一つは、当時の道徳において重要な役割を果たしていた告解にあるだろう。ペチャムは、教区の司祭が十戒を含む一般的な知識を一年を通じて学び、また信徒に教えることを意図していた。しかし信徒は、毎年一回イースターの前に罪の告白を行うだけだった。また、告白に関連する聖職者と信徒のコミュニケーション(告解時の議論や尋問、イースターに先立つ四旬節の説教、さらに四旬節に先立つ謝肉祭の諸々の行事)では、十戒は七つの大罪の適切な代替にはならなかった。大罪は身近で、柔軟性があり、〔道徳的な〕病と改善という両方の話題をカバーできた。

[220] また、教えるという局面でも、十戒には実践面、理論面、両方での問題があった。実践面で言うと、十戒はかなり長く覚えにくい。これに対して七つの大罪は簡潔であり、またキリスト教では七分類というのはよく使われていたので覚えやすかった。さらに、大罪と比較して十戒を視覚的に表現することはかなり難しかった。

理論面で言うと、十戒はそれ自体としてはキリスト教徒を拘束するものではないため、なぜこれが教えられているのかを説明する必要があった。神学的説明によれば、十戒とは福音書の二つの戒め(神の愛と隣人愛)を解説するものだった。すなわち、十戒の第一の石板は神への愛の義務を、第二の石板は隣人愛の義務を、明文化するものなのである。これはアクィナスの見解で、13世紀のシノドスや14世紀のマニュアルでも踏襲された。だが、十戒に加えて福音書の二つの戒めを学ぶのは、混乱を招きやすく、記憶にもさらに負担をかけた。[221] この問題を回避する一つの方法は、福音書の二つの戒めを十戒のうちに入れてしまうことだった。これは神秘劇の作者たちも用いた手法だったが、かなり巧みにやらなければ混乱を生むだけだった。さらにアクィナスは、十戒は自然法の要約だとも言っており、この考えは『トレント公会議のカテキズム』でも確認されたが、この考えは神学的にもぎこちなく、教えるのも難しかったように思われる。我々は、こうした話をあまりに理論的だとして無視してはいけない。中世後期の聴衆の知性、少なくとも理屈っぽさを過小評価することになってしまうからだ。

まとめると、13〜14世紀には、告解や多くの実践的・理論的問題に阻まれて、十戒が広まることはなかった。理論的困難に直面した14世紀の神学者たちは、十戒に対して別の根拠を提案するようになっていった。

ジャン・ジェルソン

アクィナス以降のスコラ神学者たちは、アクィナスの自然主義的な側面を特に不快に感じた。神の外側で構想された善の体系に神の意志を縛り付けることは、神の主権と自由を侵害する、とスコトゥスやオッカムは考えた。その逆に、もし何かが善であるなら、それは神がそう意志したからであるはずだ。したがって、キリスト教徒が善悪を判断するためには、神が実際に命じたことを知る以外の方法はない。こうして十戒が、キリスト教徒にとって権威を持つ唯一の道徳規範として示された。オッカムはこの点では多くの神学者を説得できた。とくにパリ大学の神学部では影響が強く、14世紀末にはピエール・ダリー(Pierre D'Ally)枢機卿がオッカムの教義を権威付け、弟子であるジャン・ジェルソン(Jean Gerson)に伝えた。

ジェルソンは宗教改革前の一世期間に非常に影響力をもっていた指導者だった。スコラ的思弁を好むタイプではなく、オッカムの教義をむしろ司牧活動のための憲章として受け止めた。十戒をキリスト教倫理の基盤とし、それを俗語でわかりやすく解説する伝統を確立した。そしてこうした十戒の扱いを、告白の実践を含むカトリック的敬虔の一般枠組みに統合した。

[223] 十戒に関するジェルソンのフランス語の解説としては、簡潔な『一般の方のためのイロハ』(ABC des Simples Gens)、充実した『三部作』(Opus tripartitum)の第一部『魂の鏡』(Miroir de L'ame)、そして詩である「神のみ」(Ung seul Dieu) がある。いずれも非常によく読まれ、とくに詩には1490年頃までにメロディがつけられ、子どもたちは歌って覚えていた。これらの著作には注目すべき特徴がある。まず、十戒に神学的正当化を与えることに気を配っている。たとえば『イロハ』では、十戒は(七つの大罪とは異なり)「神によって啓示され、まことの信仰の光のなかで、聖人や敬虔な人の魂にはっきり示されました」とされる。さらに、戒めのテキストはかなり自由に扱われ、著作ごとに異なってさえいる。たとえば第一戒は、『イロハ』では「あなたは偶像や複数の神を崇拝してはいけません」、『鏡』では「あなたは神を心から愛さなければならない」である。上述したような問題をジェルソンは巧みに解決した。可能な限り聖書のテキストに基づき、福音書の戒めが十戒のテキストに影響することを許容しつつも、両者が競合しないよう工夫することで、首尾一貫して説得力のある、しかも比較的覚えやすいものを生み出すことができた。

[224] カトリックの観点からは、十戒にはもう一つの問題があった。1215年の第四ラテラノ公会議以降、宗教実践に関する様々な法令が積み重ねられてきたが、十戒はこうした事柄について教会の指示に従う義務を課していないように見えるのである。オッカム主義者は通常、教会は神の命令の権威ある解釈者だという回答を与えていたが、神の戒めと人の戒めを鋭く区別するジェルソンはこれに満足せず、十戒自体から教会への従順を引き出した。つまり、第四戒を霊的および世俗的な権威への従順に関する一般的な戒めと解釈し、第三戒を日曜日や祝日に関して教会の指示に従うべきだとする戒めだと解釈したのである(ただし、ジェルソン以降はもっと字義通りの解釈が一般的になり、教会への従順については追加の戒めが設けられた。[225] これは16世紀のカトリックのカテキズムにおける標準的なやりかたになった)。

ジェルソンの革新が特に影響力をもった地域の一つがドイツだった。キリスト教徒らしい行動を十戒の観点から解説する傾向があらわれ、とくに子供向けの告解指南書に顕著である。印刷機の発明が指南書の普及を更に推進した。ジェルソンの著作自体も、ドイツ人の弟子たちにより翻訳、模倣、拡散された。告解のなかでは、十戒の遵守状況が(現代の学者の視点では)過剰なまでに問いただされるようになった。

他方、ドイツ外では、ジェルソンの革新は様々な抵抗に直面した。フランスではジェルソンの影響が支配的になるのは15世紀末のことだった。イタリアではフィレンツェの聖アントニヌスが大きな権威をもっており、[226] 道徳学説では七つの大罪に重きをおいていた(アントニヌスは商業上の道徳に関心が強く、これをシンプルに「強欲」で説明できるのが利点だったのだろう)。芸術家たちは十戒からインスピレーションを得ることはほとんどなく、七つの大罪をかつてないほど生き生きと描き出した。このジャンルは16世紀前半から半ばのオランダで頂点に達し、ボスやピーテル・ブリューゲルの作品があらわれた。ボヘミアでは、チェコ兄弟団が旧約聖書の道徳的権威を完全に否定していた。英国では、ウィクリフとロラード派が十戒の絶対的優位性を主張した反動で、正統派は十戒を英語で教えることを異端と同一視していた。

宗教改革期

[227] 以上を踏まえると、宗教改革が十戒を新たに導入したという見方は正確ではない。むしろ、宗教改革が聖書的な倫理を強調したことで、十戒への抵抗勢力が崩壊したという見方が正しい。

ルター自身も十戒の勝利の意外な立役者になった。意外というのは、ルターはむしろ抵抗勢力のほうにフィットするはずだったからだ。若きルターは十戒に象徴されるキリスト教道徳の厳格化に苛まれた。そしてルターのパウロ理解では、救済の手段としての「律法の行い」を拒絶するときに、ユダヤ教の道徳律も排除されたはずだった。だがルターは、逆説的なしかたで十戒をさらに強調した。十戒は魂を救うものではないが、罪を明らかにするはたらきをもつことで、恵みを知るために必要な準備段階をなすとされたのである。したがって、十戒はキリスト教の基本を教育する際に最初に教えなければならないものとなり、大小のカテキズムはまさにそのように描かれている。ルターは、神への畏怖と同時に神への愛を教えるべきであるとする点、テキストの自由な取り扱いという点、また十戒に単純さ、暖かさ、前向きさを与える点で、ジェルソンに似ていた。

[228] したがって、ルターの十戒に対する態度は聖書的ではあるが、テキストに忠実なものではない。これはほとんどの宗教改革者たちと異なる点である。たとえば、ルターの見解を英国に伝えたティンダルは、アクィナスと同様に十戒は自然法だと信じており、信条や主の祈りよりもこれを優先させた。十戒は、英国の教会のむきだしの祭壇の上部に描かれ、旧体制が用いていたホスチア、灯火、像、聖具などに置き換わるようになっていった(この頃までに、ブツァーとカルヴァンの研究によって、十戒の数え方は〔偶像崇拝の禁止を独立の戒めとする〕ギリシアの伝統のほうが正統だとされ、彫像の禁止が際立ってくるようになっていた)。これは、英国における十戒の歴史を踏まえると衝撃的な変化だった。

十戒については半ば改宗状態だったローマ教会も、聖書をもとにした攻撃をうけ、ついに十戒を道徳的な教えの唯一の手段として採用するに至った。[229] 『トレント公会議のカテキズム』(1566年)では、十戒がキリスト教徒の道徳的義務のすべてを網羅しているという見解が支持され、以降のカトリックのカテキズムの構造を支配することとなった。カトリックにとってもプロテスタントにとっても、カテキズムの時代は十戒の時代だった。

帰結

次に、十戒が七つの大罪に置き換わったことの歴史的影響を概観したい。ここでは、特定のバージョンの十戒の採用の影響と、十戒の採用一般の影響とを区別できる。前者については、偶像崇拝の禁止を第二戒とすることが、改革派による像破壊につながったことをあげられる。また、第三戒・第四戒を厳格な安息日厳守として解釈することも、16世紀末以降カルヴァン派の特徴になった。また一般的な影響としては、神への愛を隣人愛より優先すること、キリスト教徒らしい行動を神の命令への服従と捉えること、明確に言語化された道徳を優先すること、などがある。この二者のあいだに位置すると思われる事例について、十戒のそれぞれの石板から一つづつ例を取って見てみよう。

1. 魔女狩り

十戒倫理の普遍的帰結として、偶像崇拝がキリスト教徒にとっての主要な罪となった。このことは、悪魔観に影響した。以前の悪魔はキリストの反対物であり、愛ではなく憎悪を教える存在だった。[230] しかしいまや悪魔は、父なる神の反対物となり、偶像崇拝の根源および崇拝対象になった。このことはさらに、魔女観にも変化をもたらした。以前の魔女は、隣人の身体や財産に危害を加えるものだった。しかしいまや魔女には、異端や偶像崇拝の罪が帰せられた。十戒がキリスト教倫理の体系として確立するほど、「魔女症候群」患者の告発の声も説得力を増した。

この主張は魔女に関する新説だと思われるが、証拠として三つの事例を挙げることができる。まず、魔女に対する迫害の引き金となったのが、1398年にパリ大学神学部が下した決定だということはよく知られている。しかしこの決定は、十戒が示す見解を明示化したものだった。[231] 決定を下した会議の議長はパリ大学学長になっていたジェルソンであり、決定の文章を執筆したのもジェルソン自身だと思われる。第二に、「魔女症候群」の知的源泉は、ジェルソンのドイツ人弟子たちの中にあるようだ。とくにヨハネス・ニーダー(Johannes Nider)は、魔女の行いに関する証拠を初めて収集し、ドミニコ会士たちに伝えていた。第三に、ジェルソン的思考はルター派のカテキズムの中にも容易に見て取れる。十戒に従って子どもたちが教育されることで、新たな魔女が登場してくる。 [232] 「魔女症候群」はドイツやフランスで広がったが、英国やスペインではそれほどでもなく、これはジェルソンの影響力の強さと一致している。

2. 子どもの発見、親への服従

第二の石板の中でも、七つの大罪とは大きく異なる戒めに、第四戒(あるいは第五戒)の「父と母を敬え」があった。十戒への移行が、ヨーロッパ人の心に「子供時代」という概念の定着を助けたというのはかなりありそうだ。少なくとも、アリエスが子どもの「発見」を帰した時代はジェルソンの活躍した15世紀であること、またルターが子どもの教育に並外れた才能を発揮したことは、興味深いことである。逆に親に注目すると、十戒の擁護者は、第二の石板における第四戒は、第一の石板における第一戒のような優越権を持つと考えていた。親への服従は神への服従の象徴であった。[233] 『トレント公会議のカテキズム』は、両親を敬えない人が父である神をどう敬うのかと問いかけている。

終わりに:ボダンとメノッキオ

ジェルソン、ルター、またローマ・カテキズムの著者たちはあくまで道徳の専門家であり、その考えは他の人々にはほぼ無関係だったと思われるかもしれない。そうではないことを示すために、16世紀の2人の人物の例に挙げて、この章を終えたい。

第一の例はジャン・ボダンである。1529年か30年にアンジェで生まれたボダンは、ジェルソンの十戒のもとで育ったはずだ。成人したボダンは十戒の崇拝者となっていた。ボダンの『国家論六編』(Six Livres de la Republique, 1576)の描く国家は、家長の絶対的権威が支配する家族の集合体を、同様に不可侵の唯一の立法者が司会するという構造をしており、これは十戒の二つの石板を反映しているとも見える。また『悪魔憑き』(Demonomanie des Sorciers, 1580)は、魔術と偶像崇拝を当然のように同一視としており、偶像崇拝者を死刑とする旧約の命令の拘束力を強調していた。

第二の例は、より目立たない同時代人、粉屋ドメニコ・スカルデッラ、通称メノッキオである。この人物は、近年ギンズブルクが取り上げるまで忘れられていた。異端の疑いをかけられたメノッキオは、キリスト教倫理の本質は七つの大罪を避けることにあるとし、また神に対する罪には悔い改めがあるため、隣人に対する罪よりも軽いとして、自らを弁護した。これに対して尋問官は、十戒を知っているかと尋ね、メノッキオは聞いたこともないと答えている。メノッキオは道徳的転換の証人であり、あるいはその殉教者なのだとさえ言えるかもしれない。