えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

初期近代オランダにおける商人と科学者の共通の価値観 Cook (2007)

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【要約】
初期近代オランダの商人は、商品や情報の交換とそれを可能にする移動(旅)が生む新たな価値を認識していた。他方で、アントウェルペンでは取引所が常設され、異なる貨幣の両替方法や、正確な情報が尊ばれた。約束手形や株券も発達し、信用がますます重要になってくる。個人の信用を示すために、商人は驕奢を避けて謙虚・誠実を旨する新たな生き方を身に着け、その特徴の一つに平易な話し方があった。また、信用を裏書きする契約も重視された。またこうした商業システムの全体は、新しい時間感覚、つまり、世俗的活動によって(物質的な意味で)よりよい未来を築けるという希望の感覚に支えられていた。これらの価値観は、商人と(現在で言う)科学者に共通したものだった。商人の価値観が自然哲学に向けられた時、近代科学が生まれたのである。

【目次】

第2章 情報経済

賢明な人生を送り、事物の知識を得たいと望むのであれば、遠くへの旅から始めることだと多くの哲学者は言っている。
(カルロス・クルシウス 『インド香料・薬草誌』)

変容的経験としての交換と旅

情念・利害に基づく交換*1

古典的には、交換とは物品を特定の場所や人に届けるために必要なだけだと考えられていた。仲買人が求めるべきものは輸送コスト+αになるべきで、それ以上を求めれば不公平、不道徳と非難された。しかしジンメルらが注目したように、交換には生産的な側面もある。つまり、物品の交換は人を変化にもたらす。単に物品を得るだけでなく、そこに何かが付け加えられ、それが価値の源泉となるのだ。私たちは通常、その価値を物品に結びつけることで物象化しているものの、その根底には交換の結果としての個人的な変化がある。[44] ほぼ対等なパートナー間での交換は、生活を向上させうる変化を生む。他方、収奪、窃盗、破壊行為による交換がもたらす変化はこれとはほど遠い。

いずれにせよ、変化の原因は人間の中で、初期近代の言い方では「情念」において生じる。情念とは心だけでなく身体から生じる運動であり、行動と思考を同時に促す。[45] また、情念には利害関心(interests)も結びついている。奇妙なことに、最近の歴史学においても、科学的知識の無関心性を主張する声は絶えない。ダストンは科学界における価値を説明するために情念にも注目したが、取り上げられたのは無関心によって特徴づけられる「驚き」(wonder)だった。しかしながら、自然物や現象を綿密に調査していた人びとは、深い利害関心をいだいていた。実際、この言葉は18世紀までに肯定的な意味で使われるようになっていった(Hirschman)。[46] 自然に最も強い利害関心をもつ人びととは、自然についての知識から最も大きな損得を得る人びとでもあるから、世界について最も信頼できる発言ができる人であることも多かった。

移動のもたらす新たなものの見方

世界に関する知識の追求が、情念や利害に基づく交換がもたらす変化によって駆り立てられたとすれば、その知識は〔交換のための〕移動にも依存していることになる。初期近代ヨーロッパの人々は移動することが多かった。仕事や娯楽を求める農村・都市間の移動、学生の放浪、病気や飢饉からの逃避、軍事行動への参加と逃亡、巡礼、商取引、貿易などである。旅立ちの理由はなんであれ、旅人はその過程で古い生活習慣を打ち破っていく。人生を変えるような旅は、西洋でも多く語り継がれてきた。古代には『オデュッセイア』や[47]アレキサンダー大王の物語があり、初期近代ではジョン・マンデヴィル卿や円卓の騎士団、マルコ・ポーロなどを主人公とした物語がある。旅行者自身だけでなく、家にいる人々も、物語を耳にしたり通りすがりの人々の話を聞いたりして何事かを学んだ。

移動は、定住を前提とする統治システムから人々を遠ざけるので、社会的混乱や反乱を生じさせることも多かった。16世紀になると、宗教当局は巡礼に敬虔のわざよりも世俗的な情念の淫蕩を見て、巡礼をやめるよう一般人を説得し、さらには相対主義や自由思想、無神論の台頭を旅に帰していた。実際、たとえばデカルトやメルセンヌは、旅を通じて自分とは異なる信仰のあり方に心を開いていった。こうした問題を最小化しつつも旅から利益を得るために、家庭教師の指導のもとでの規律正しい旅が推奨された。たとえば、英国ではトマス・エリオット(Sir Thomas Elyot)(『統治者について』(Boke Called the Governour, 1531)、フランシス・ウォルシンガム(Francis Walsingham)、[48] ベーコンが、 フランスではラムスが、ネーデルラントではリプシウスが、若者が教養を身につけるための旅を推奨した。17世紀なかばまでにはこの種の旅は「グランドツアー」と呼ばれるようになり、Parochialism(教区制)は「偏狭」という意味を持つようになっていった。

社会言語学の研究によると、新たな言葉や情報は、友人や親戚間の強い絆よりも、緩やかな知り合いとの弱い絆を通じて導入される。[49] これを歴史に当てはめると、言語変化や知的運動は、お互いあまり知らない人々の移動に根ざしていたと言える。「ルネサンス」、「科学革命」、「啓蒙」といった抽象的なものの背後には、個人的な出会いがもたらしたつながりの網があった。

商業と科学の実践

取引の恒常化

中世の商人はおおむね一対一のやりとりで商品を交換しており、交換は特定の場所で一年に主に1〜2回開催される市で行われた。しかしごく一部の場所では、商人たちが定期的に集まって取引をしていた。アントウェルペンは1530年代までにはそのような場所となっており、商人は商品をアントウェルペンに送って保管し、適切な買い手を待つことができた。こうした取引を促進するために、1531年から32年にかけて「新(証券)取引所」(Nieuwe Beurs)が設立され、日曜日と重要な宗教祝日を除いて毎日開かれた。

[50] 物品がひとつの場所に集積されると、それらは「貨幣」に具現化される普遍的価値をおびる。少なくとも13世紀以降、ヨーロッパのほとんどの都市は貨幣化されていた。しかし、硬貨は様々な場所で鋳造されたため、相互の通約可能性の問題が生じた。これを解決するために、両替方法を開発する専門の為替商や銀行家が登場した。おそらくこうした方法によって、哲学者たちも、様々な事物における類似した質を数量化して通約可能にするよう促されたのだろう(Kaye)。

[51] 貨幣の比較が可能になり、仲買人が交換の媒介として働き始めると、貨幣自体の価値が上昇した。少なくとも15世紀の終わり頃には、ジローラモ・ブティゲラ(Girolamo Butigella)らの法律家たちは、貨幣の価値が金属含有量よりも大きいかもしれないと気づいていた。貨幣は、容易に交換できるという性質から、何らかの付加価値を得ていたのだ。16世紀半ばには、フランスの法学者シャルル・デュムラン(Charles Dumoulin)が、貨幣の価値は交換価値だと明言できるまでになっていた。

また為替取引所は、何よりも情報交換の場であり、情報の正確性が非常に重視された。1540年ごろには確実に、商品価格と為替レートの最新情報がアントウェルペンで発行されていた。価格情報とともに、ビジネスに影響しうる出来事の情報が報告されることで、最初の印刷された新聞が現れた。こうして取引所は情報の集結地にもなっていった。[52] 国内外をつなぐ郵便制度が発展し、ニュースの収集・配信により生計を立てるものも現れてきた。

さらに、ビジネスは約束の交換にも依存していた。これまでも商人は借用証書を発行していたが、1507年に約束手形がアントウェルペンの法廷で初めて認められた。支払いは手形の所有者に行われるので、約束手形は他の商品と同様に取引の対象となった。ほどなく、金銭ではなく商品を対象とした手形も現れた。1541年には、手形による財の引き渡しに法的拘束力が認められた。そしてその後すぐ、株券も発行されるようになった。

こうして16世紀半ばには、商人はアントウェルペンで商品、金銭、あるいは単なる手形を、いつでも交換できるようになった。これにより、商品や現金を移動させる必要がなくなり、[53] 商人は金融業務に専念できるようになった。

個人の信用と契約による信用

商業の背後にある最も重要な価値の一つが信用だった。もちろん、小さな村の物々交換の背景にも信用があったが、商人の相手は多様で付き合いも短いため、信用を測る新たな方法が必要になり、商人たちは身振り、言葉、服装で誠実さを表すことに熱心になっていった。利己主義、浪費家と結びつく紋章や贅沢よりも、公的場面での謙虚さや言行一致が重視された。馬、狩猟、血統、賭博、売春などへの否定的態度が強まる一方で、市民団体で集まったり、契約成立や個人の記念日をみんなで祝うなど、より内輪の(domestic)な楽しみが大切にされた。また服装も、きらびやかなものではなく、白いリネンのアクセントをあしらった暗色の服が身につけられるようになった。[54] 高価な服であっても、それと気づくには目を凝らす必要があった。

このようにして都市の指導者は、真の価値とは傲慢で豪勢な権威者から来るのではなく、自分たちのような有名ではないが重要なオピニオン・リーダーの共通意見から来るのだと考えるようになった。このような態度は当時の社会風刺劇にも描かれている(G. A. Bredero, The Spanish Brabander, 1617)。したがって、オランダ商人は世俗離れした禁欲主義を誇示しているというウェーバーの分析は的を外している。確かに商人たちは富を誇示しなかったが、それは信用を得る〔という世俗的目的の〕ためだったのだ。

ところで、科学者もまた、正当な信用を交換しようとする人びとである(Latour & Woolgar, Pamera Smith, Shapin)。シェイピンは、信用の本質を信頼にもとめ、信頼は社会的権威に依存することから、[55] 初期近代において自然の知識に関する主張を裁定できたのは紳士だけだったと主張した。あるいは、真理の裁定者として王侯を挙げる人もいる。しかし少なくともオランダ世界では、紳士、貴族、王侯などは行動が気まぐれだという悪評がついていた。

また、約束はこうした個人の信頼だけでなく、強制力を伴う契約にも依存していた。とくに、企業への投資は契約による裏付けを得ることが重要だった。例えば、カール5世が1540年に発布した「永久勅令」は、債権者からの逃亡の防止、独占の禁止、債務に対する利息の許可などに触れている。1570年代の低地諸国では、契約上の義務がほぼあらゆる関係に適用されることが当然視されていた。オランダ独立戦争も、当時は、契約違反者へ立ち向かうものとして描かれることが多かった。また、神と人との関係も同様に契約の観点から捉えられた。一方では、七つの大罪ではなく十戒に対する新たな不安が生じ(Bossy)、他方では、神と人間が相互の約束と義務で結ばれているという「契約神学」が発展した。ずっと後の1640年に、ライデン大学の神学者コッケイウス(Johannes Cocceius)がこの神学に明確な定義を与えることになる。

商業の時間

〔宗教といえば、〕商業システム全体が、より良い未来への宗教的希望のようなものに依存していたとも言える。[55] もちろん、この未来は「世俗的な」未来である(英語の世俗(secular)はラテン語のsaeculum(時代)から来ている)。時間概念の歴史的変化に関する議論の多くは、時間が均一だという感覚が初期近代に発展したことに注目してきた。しかし同時期には、時間に関する別の感覚も発展した。つまり、新しい方法で時間を有効活用することで物質的利益がもたらされるという感覚も強まっていたのである。資本主義経済は、時間を拡大させる新たな商法、つまり「投資」にも依存していた。投資は、未来の指定された期日に指定された通りに振る舞うという個人的約束を前提とする、長期のとりきめである。まさしく、「資本の本質は時間」(North and Thomas)であり、商業は世俗化によって成長した。

平易な表現

商業的信用と契約の世界では、自分の約束がもたらす結果を考慮して誠実に生きることが信用の重要な指標となる。こうした生き方の特徴のひとつが、言葉遣いの明確さだった。上流階級では、複雑な権力関係によって、暗示的で比喩的な宮廷用語が繁茂した。しかし商業の領域では、正確で飾り気のない話し方、つまり「平易な表現」が好まれた。

同様に、新科学も平易な話し方を重視していた。たとえば当時の医師コルネリス・ボンテコ(Cornelis Bontekoe)曰く、「私は、言葉の適切な選び方やスタイルの雄弁さよりも、話の主題と自分の発言の正しさのほうに注意を払う習慣がある。発言が相手に伝わる程度には自分は雄弁だと思うし、話すこと書くことの唯一の基準は伝わることだからだ」(Voor de liefhebbers van thee, 1678)。新哲学における平易な話し方の起源は、かつては清教徒の説教に、最近では「仮想的証言」という修辞技法に求められている(Shapin)。しかし、都市の商業がこれを促した可能性はまだ検討されていない。

まとめ

商人と、現在では科学者と呼ばれる人々との間には、多くの価値が共有されていた。旅行、〔旅行が可能にした〕新たなものの見方、交換、比較可能性、信用、現世的活動を通じてより良い物質的未来が実現するという希望、そして平易で正確な言語などである。また両者は、客観的知識に利害関心をもって携わり、厳密な情報に基づく一般化を注意深く評価していた。このような価値観が自然哲学に向けられたとき、近代科学と明らかに類似した何かが誕生したのだ。

*1:要約者注:以下、節内の小見出しは要約者による