えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

オブジェクトとはなんだったのか 中畑 (2011)

魂の変容――心的基礎概念の歴史的構成

魂の変容――心的基礎概念の歴史的構成

  • 中畑正志 (2011). 『魂の変容:心的基礎概念の歴史的構成』,(岩波書店).

 読みました。どの論文でも(主に)古代の哲学者のテキストの解釈が現代哲学の問題と結びつけてあって、とても面白かったです。ということで第二論文、「オブジェクトとの遭遇」のまとめです。

【要約】
 少なくともストア派以来、ものの形象・表象が精神に向かってくる様が「オブイェクトゥス」(分詞)と言われていた。この向かってくる形象に、それとは独立した能動的な精神が働きかけること、いわば二つのベクトルの遭遇が認識であり、この描像は物質からの精神の独立を強調する新プラトン主義的伝統に顕著だった。新プラトン主義の影響はアラビアのアリストテレス解釈における「アンティケイメノン(対象)」の理解に受け継がれ、これを一つの土壌として、13世紀中盤には名詞形の「オブイェクトゥム」が「アンティケイメノン」の訳語として現れる。
 この最初期の用法の時点で、「オブイェクトゥム」には「アンティケイメノン」から受け継いだものと受け継いでいないものがある。受け継いだのは「外的実在である」という特徴で、「オブイェクトゥム」はもはや表象や形象とは結びついていない。哲学史ではしばしば、「「オブイェクトゥム」はかつて「表象内容」を意味していた」などといわれるが、それはこの最初期の状況から更に後期スコラやルネサンス哲学の影響を経て生まれたものであった。
 他方、受け継いでいないものは認識についての描像である。アリストテレスの対象(「アンティケイメノン」)理解によれば、互いに独立な対象と精神が遭遇して認識が生じるなどということはない。対象と魂の能力とは互い規定し合う関係にあり、世界からの働きかけを「受けとる」ことがそのまま魂の能力の「活動」なのである。このような世界に開かれた心というアイデアは、「オブイェクトゥム」の歴史の中で忘れ去られてしまった。

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 「サブジェクト」と「オブジェクト」という概念は歴史のなかで意味が逆転したとしばしば言われます。曰く、「サブイェクトゥム」はアリストテレスの言う「ヒュポケイメノン」つまり基体だったのが、デカルトやカントを経て「主観」になった。一方で「オブイェクトゥム」は「アンティケイメノン」つまり表象内容だったのが、主観から独立した「客観」に変化した。

 しかし実際中世のテキストを見てみると「オブイェクトゥム」が表象内容を意味しているとは考えがたい箇所もあり、しかも「アンティケイメノン」の訳語としてこの語が出てくるのもかなり後の時期にすぎません。「オブイェクトゥム」とは何ものなのでしょうか。

 「オブイェクトゥム」は、「〜へ向かって/〜の前へ投げる」を意味する動詞obicereの中性名詞形です。この名詞の最初期の用例が見えるのはようやく13世紀中盤、魂の「能力」やその能力の「活動」との関連で用いられています。これはアリストテレスの『魂について』に由来する文脈です。アリストテレスは、魂の「能力」・「活動」・「対象」を区別しましたが、この「対象」こそ「アンティケイメノン」であり、確かにこの最初期の文献では「オブイェクトゥム」が「アンティケイメノン」を翻訳しています。しかし、これ以前の『魂について』の翻訳では「アンティケイメノン」にはより直訳に近い「オッポシトゥム」(〜に向かっておかれたもの)が当てられていました。すると、「オブイェクトゥム」というのは別の経路から導入されたものだと考えられます。

 ここで、アリストテレスの「アンティケイメノン」とは何なのか確認しましょう。これは基本的には「相対立するもの」のことで、アリストテレスがこの言葉を導入した意図は、魂の「能力」・「活動」はその「対象」と相互規定的なものであると強調するところにありました。例えば、色の本質は「見られることが可能」という点にあり、「見る」という活動においてその可能性が現実に発現する。逆に、視覚は色からの作用を受けとる能力であり、その活動すなわち「見る」とは色の作用を実際受けることに他ならない。この、魂の活動とは受け取ることだという点は後にポイントになります。

 以上を踏まえて最初期の「オブイェクトゥム」の用例に再び目を向けてみると、「アンティケイメノン」にない特徴が見て取れます。それは、「オブイェクトゥム」とは「魂に向かいそれを動かすもの」あるいは「魂がそれに向かって動かされるもの」だとされていることです。この「ベクトル性」(方向性+運動性)は、動詞obicereの意味を引きずっているものと言えます。この一方で、「オブイェクトゥム」は「アンティケイメノン」がもつ「相互規定性」をもたないことも重要です。

 では、この「ベクトル性」をもつ「オブイェクトゥム」というのはどこから来たのか。まず一つの指標がボエティウスに求められます。ボエティウスはストア派的な感覚知覚論に反対しようとしていました。ストア派によれば感覚知覚とは白紙に文字が書き込まれるようなもので、感覚的像が精神に刻印することで成立します。しかしこの学説からは、精神の自由な働きが全く抜け落ちています。そこでボエティウスは、事物から投げ与えられた(オブイェクトゥス(完了受動分詞))像に、精神が己の持つ形相を当てはめることで、認識が成立すると考えました。ストア派のいう「刻印」は身体あるいは感覚器官の受動様態にすぎないとされ、精神の能動的働きが確保される。魂は外的作用を受けないという新プラトン主義の考えです。そしてここではまさに認識が、「事物から投げ与えられた何か」と「それへ働きかける精神」という二つのベクトルの遭遇として描かれています。

 同じような「オブイェクトゥス」の用法はさらに遡ることができ、アウグスティヌスが事物の形象(スペキエース)が精神に投げ与えられるという見解を表明しています。ここでアウグスティヌスが批判的に受容したストア派の見解をキケロのなかに辿ってみると、そこには、投げ与えられた表象・姿とそれへの同意により認識が成立するという構図が見えます。新プラトン主義者の言う刻印は〔概念的内容〕を持たず、ストア派の刻印はそれ自体で〔概念的内容〕を持つという違いこそあるものの、既にストア派のなかにも、二つのベクトルの遭遇という描像を見て取ることができます。
 
 以上を踏まえると、分詞「オブイェクトゥス」から名詞「オブイェクトゥム」への移行に伴うある特徴が目立ってきます。ストア派や新プラトン主義者は、「オブイェクトゥス」に表象や形象(スペキエース)を結びつけていました。しかし「オブイェクトゥム」は、「アンティケイメノン」が包摂していた具体例を継承しており、「外的実在」という性格を持つのです。実際、これに応じて「スペキエース」はむしろ、対象から抽出されるものだと理解されることになります。この意味では、「表象内容」から「(客観的)対象」への転倒は既に初期近代以前に一度生じていると言えます。

 しかし、「オブイェクトゥム」が継承しなかった「アンティケイメノン」の特徴もあります。まずは、既に見た「相互規定性」で、これは「ベクトル性」にとって代わられたのです。最初期の文献を見ると、「オブイェクトゥム」の「ベクトル性」はさらに、魂の諸能力の能動・受動という区別を生み出しています。「オブイェクトゥム」に向かって動くか、動かされるか、という区別です。この区別はアリストテレス自身にはなく、あえて言えば全ての能力が受動的です。ではこの視点はどこから来たのか。アラビアです。アヴェロエスの魂論注解では既に「相互規定性」が消え能力の能動/受動の区別が前面に出ており、しかもそこには新プラトン主義的な能動性の強調も伴っていました。ここに、「オブイェクトゥム」が導入されるひとつの概念的環境が準備されていたと言えます。

 アヴェロエスは、「アンティケイメノン」と「オブイェクトゥム」のもう一つの関連する違いも先取りしています。アリストテレスは、魂の「能力」や「活動」よりも「対象」の探求を優先すべきだと述べました。彼にとって「対象」は「能力」・「活動」と相互規定関係にあるので、この優先順位は単に探求上便利だという以上の意味があります。しかし新プラトン主義者もアヴェロエスも、この序列は探求上の序列にすぎず、事柄に即した序列は逆だと理解しました。魂の能動的な「能力」はそれ自体で「活動」でき、「対象」との関係は二次的なものにすぎない。この考えの背後には、魂の働きが外的事象から独立であるという新プラトン主義の根本観念がありました。

 アリストテレス的枠組に入った「オブイェクトゥム」は、表象や形象との関係から一旦離れました。ここから「「オブイェクトゥム」は「表象内容」を意味していた」という「主客逆転以前」の状況に至るまでには、さらに後期スコラ学やルネサンス期の哲学を経る必要があります。しかしその過程の中でも、「オブイェクトゥム」のベクトル性は繰り返し参照されることになります。「オブイェクトゥム」の成立とともに支配的となったのは、世界と切り離されつつそれと相対する能動的な心でした。そして失われてしまったのは、世界からの働きかけを受けとることがそのまま魂の活動なのだという世界に開かれた心でした。