えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

解き放たれる18世紀の狂気 フーコー 1972[1975]

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

  • フーコー, M. (1972)[1975]. 『狂気の歴史:古典主義時代における』, 新潮社

【要約】
 18世紀、狂気と非理性のつながりが解体した。狂気以外の非理性がますます画一化される一方、狂気の分類はますます精緻なものとなる。また、狂気以外の非理性が監禁から離れる一方、狂気は監禁との結びつきを強めていった。さらに、狂気と悲惨=貧困とのつながりも解体した。失業・貧困の拡大により、貧困は道徳ではなく経済の問題だという認識があらわれた。また、人口=富という認識から、働ける貧乏人の監禁が非難されると共に、働けない貧乏人の救済が施療院ではなく家庭に委ねられることで、監禁そのものが疑問視されるようになった。かくして18世紀末に狂気はこれまでの理解のされ方から解き放たれたが、それは人道主義や科学的認識によるものではなかった。

  • 18世紀における狂気の変化は、前章でみた恐怖感の再来以外にもあった。
*狂気専用監禁施設の増加
  • 17世紀末から18世紀にかけて、大規模監禁施設における監禁人口が増加するのに、監禁されている狂気人口には対応する増加が見られない。これは、18世紀中頃から突如として、狂気のみを監禁する施設が増えたからだ。
  • こうした新設の病院は、狂人に医学上の地位を与えたり、その待遇を改善しようとするものではなかった。従って、これはピネルやティークにつらなるものではない。
  • ここで自然発生している狂気の制度上の特別視と、そして前述の恐怖とは、狂気が新たな仕方で知覚されるようになったことを示している。
*「保護院的知覚」の登場
  • 監禁を受けている18世紀の非理性は、その様々な形態がますます区別されなくなっている。だが、狂気だけは逆に細かく分類されはじめる。例えばサン=ラザール牢獄では、1721年には狂気は3ないし4つに分類されていたが、1733年には16の分類が生まれる。同時期、ソヴァージュのような医師も、狂気の分類を精緻化していた。だがこの二種類の分類は重なるところがほとんどなく、異質なものであることが伺える。
  • 監禁施設における狂気の分類は元々簡潔だった。その主要な種である「躁暴」と「低能」は、その極限にそれぞれ自殺・他殺および衰弱死が位置付けられている。この「死」と「危険」という分類原理は、狂気自体にかかわるものではなく、そのため個々の狂気のあり方は問題とならなかった。
  • だが18世紀が進むにつれ、「意味」と「無意味」という狂気自体にかかわる分類原理が現れてくる。例えば「気違い」は理性が逸脱している「意味の転倒」、「精神錯乱」は理性を欠いた「無意味」として理解されるようになる。この新しい狂気の知覚の仕方を、「保護院的知覚」と呼ぶ。ここで狂気は歴史上はじめて、狂気それ自体について語る言語を獲得した。
  • 躁暴、低能、気違い、精神錯乱、を組み合わせて分類は複雑化する。だがそれは、上述の医学的分析とは異質なものである。二種類の分類を19世紀は何とか妥協させようとし、「古典的精神医学」が生まれることになる。
*監禁内部の動き:18世紀の監禁批判
  • この狂気自体による分類は、狂人保護院の建設、改革運動、実証的精神医学へまっすぐつながっていく、狂気への接近であるように見えるかもしれない。だがそうではない。
  • 18世紀の監禁批判は、狂気に対する人道主義的態度から行われたものではない。それはむしろ、他の犯罪者を狂気と一緒にすることに対する批判だ。この批判の中で、狂気と監禁はかえって強固な結びつきを、しかも二重にもつようになった。第一に、「狂人と一緒に閉じ込める」ことそのものが監獄における罰なのだと考えられ、狂気は監禁を行う権力の象徴となった。そして第二に、労働力となりうる他の人々に対し、狂人は監禁に最も適した存在とされるようになった。このように、18世紀の人々は狂気からますます距離をおこうとした。そのなかで、かつての「非理性」という不明瞭な統一性が破られていった。
*監禁外部の動き(1):失業・貧困対策としての監禁の失敗
  • 監禁に対するもう一つの批判が、監禁の外からも投げかけられている。しかもこの批判は、監禁の存在そのものを脅かしかねない。
  • 監禁には失業問題と物価上昇を解決する役割が期待されていた(→1−2)。だが、18世紀における失業と貧困の拡大のなか、1770年頃には監禁には期待される効果がないことが明らかになり、監禁は制限して健康な貧民には労働を行わせるという方針がとられるようになった。
*監禁外部の動き(2):経済現象としての貧困
  • 失業と貧困の拡大のなか、失業はもはや怠惰と同一視できないことが明らかになってくる。貧窮は経済的な事象となる。他方で、国が富むためには貧乏人の存在は不可欠だと考えられ、貧乏人を尊敬することが求められた。
  • かつての重商主義社会では、生産者でも消費者でもない貧乏人は監禁施設以外に社会に位置を持たなかった。だが工業が発達した今、貧乏人は工場労働者として、経済的にも社会的にも再統合されたのだった。
  • またこの時期、人口は財産であるという認識が生まれた。すると、「貧乏人を監禁して養う」という伝統的な救貧方策は、さらなる貧困化の一因として非難されるようになった。
*監禁外部の動き(3):貧困と病気の分離、家庭の重視
  • 救貧のためには、むしろ貧乏人を働かせなくてはならない。そこで、「健康な貧乏人」と「病気の貧乏人」の区別が重要となる。健康な貧乏人は、国家と本人の利益のために働きうる積極的なものだ。だが病気の貧乏人は単なる消費者であり消極的なものだ。ここにおいて、古来の施療・救貧の概念の中では混ざりあっていた「貧困」と「病気」が別個の取り扱いを受けることになる。
  • 病気の貧乏人のみが完全な救済を必要とする。だがこの救済にはいかなる経済的効用も存在しない。そこで救済の根拠となるのは、憐れみや連帯感といった、社会以前の自然的感情である。だがこうした原始的感情によってはじめて社会が可能となる以上、救済は社会的義務である。とはいえ、救済を国家的に統制しようとするものは少数派で、救済は社会に属する個々人の個人的な絆の強さに応じて行われると考えるものの方が多かった。こうして、病気がおかれる社会的空間は一変する。かつては、病人ないし貧乏人は全ての人の憐れみを受けることができた。だが今や病人は、近しい人々とだけかかわり合うことができる。
  • このような考え方を背景に、病人が治療を受ける場所は施療院から家庭へと移行する。家族は病人に対する憐れみを失なわず、食住を保証してくれ、また施療院から離れれば伝染病等を防げる。維持費がかさむ施療院ではなく、家族を直に援助することが重要となり、18世紀末には家庭における救済を禁じた法律が緩和されたり、相互保証の制度が推奨されたりした。

*結論

  • 監禁の内と外で進行した相互に無関係の動きにより、狂気と非理性との結びつき、狂気と貧困=悲惨(misère)との結びつきが解体した。この意味で、ピネル達による解放の数年前、狂気は既に解き放たれている。だがそれは、人類愛のせいでも、実証的な認識のせいでもなかった。
  • いまや狂気は、相変わらず犯罪と同じく追放されているが、しかし病人の救済が〔監禁制度そのものに対して投げかけた〕問いに直面している。