- T. H. Green (1898). Introduction to the Moral Part of the Treatises. In Hume, D. Treatise of Human Nature , vol 2. Longmans Green.
- Sections 6–7
- §6 欲求の一般的対象を「幸福」と呼ぶことで覆い隠される混乱
快楽という動物的想像と人間の福利という概念との混乱をよく覆い隠すものに、「幸福」(happiness)という言葉がある。「欲求を動かすものは何か」という問いにロックが「幸福、それしかない」と答えた時、このような混乱が生じている。ここで、幸福とは何なのか?「善悪は快苦に他ならない」とされ、「「完全な」(in its full extent)幸福とは私たちに可能な最大の快楽」だとされる。そしてこれが「欲求一般の適切な対象」だとされる。しかしロックは慎重に、「個々の欲求を動かす」幸福とは完全な幸福ではなく、「当人の幸福にとって必要な分だとみなされる程度の」幸福だと説明している。これは、「当人が現在の思考の中で満足できるような」幸福である。この意味での幸福を「すべての人が求めており」、しかもこの幸福には誤りの可能性がない。というのも、「現在の快楽については、それが善いか悪いかについて精神は誤らない」からだとされる。誰であっても、「何が自分を最も快くするか、何を自分が好んでいるかを知っている」のである。より大きな快楽やより大きな苦痛というのは、そう見えるとおりに存在している。さて、このような発言を詳しく観てみると、四つの異なる意味の幸福が混同されていることに気づく。順にみてみよう。(a)抽象概念としての幸福、可能な快楽の和。(b)ある時点において、想像の中に最も強く存在している快楽としての幸福。(c)自覚的な快楽追求の対象としての幸福。そして(d)ある時点において、最も強く欲求される対象としての幸福。(d)は精確には快楽ではないが、ロックこれを(b)と同一視している。この同一視は誤った前提に基づいており、欲求の充足に伴って生じる快楽(その大きさは、欲求の強さに比例する)が、それ自体として欲求の対象だと考えられている。
- §7 「快楽の最大合計値」や「快楽一般」は無意味な表現である
「我々に可能な最大の幸福」としての「完全な」幸福なるものは、最も非現実的な抽象である。普遍者の実在を最も強力に否定する人たち(すべての実在の条件、つまり関係という普遍者のことである)が、そんなものは単なる名前にすぎないと宣言しながら、しかし一つの普遍者には実在性を帰しているのは不思議なことである。これを単なる名前以上のものだとしなければ矛盾してしまうというのに。この「完全な幸福」なるものは、現代の功利主義者が言うところの「可能な享楽の集合体」なのだろうか? だがこのような字句は、無限定者を足し合わせて限定者を得ようというむなしい試みを表すだけだ。「可能な最大量の時間」といった表現と同じで、意味を持っていない。快い感情というのは加算できるような量ではないのだ。こうした感情はそれぞれ、次の感情が始まる前に終わっているものであって、1,000,000回快い感情を経験した人が1,000回しか経験しなかった人よりもよい(better off)、つまり主要な善とされるものをより多く持っているというわけではないのである。快楽がある全体を構成しうるという場合に、感情としての快楽を意味していることはありえないとすれば、ではどういう意味なのか? ロックは幸福一般について「欲求一般の対象」と言っていたが、今問題となっている「幸福」もこのような快楽一般として理解すべきなのだろうか。だが、それぞれの快楽は個別性というかたちでしか存在していない。これは単純観念なのであって、ロックやヒューム自身が教えてくれたように、一時的なもの、定義不可能なもの、「絶えざる流れ」のなかにあり、私たちにあって瞬間ごとに変化するものである。したがって、快楽一般というものは快楽ではなく、またその他の何ものでもない。快楽一般なるものは、関係としても、また関係によって規定される事物としても、把握された実在ではない。なぜなら、感情としての快楽は、その条件(これ自体は感情ではない)と切り離して把握することはできないからである。その理由は、快楽一般が定義不可能な理由と同じである。快楽一般なるものを、功利主義哲学は事物だと勘違いしているが、これは名前にすぎない。望ましい(desireble)ものについてどういう理論をとっていても、快楽一般という抽象や可能な快楽の集合体なるものを欲する人は実際のところ誰も存在していないのだから、その実際的な代替物〔が必要であり、それは〕その時に最も強い肉の欲望のなかに見出されることがよくある。