えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「自我性を求めて:物語的自我、現象的自我、脳神経科学」 福田 (2014)

シリーズ 新・心の哲学II 意識篇

シリーズ 新・心の哲学II 意識篇

]II 意識篇

  ようやく新・心の哲学3巻本を入手したので、これからしばらくかけて各論文を簡単に紹介したいと思います。まずは哲学の(徒?)花、「自我(SELF)」論をあつかった『意識篇』の5章です。自我論の最新の展開が手際よく紹介されています。

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 この論文は、自我に関する最新の話題を3つ紹介しています。

 1つ目の話題は「物語」への注目です。既にマッキンタイアは「個々の行為の意味はより大きな文脈におかれないと決まらない」という洞察から、自分の行為の意味を認識し、その道徳的責任を引き受けられるような自我は、全体的で統一的な物語を持つものでなくてはならないと論じました(MacIntyre, 1981/1984/2003)。またシェクトマンは、人格(人)の同一性の問題に対して物語的にアプローチします(Schechtman, 1996)。彼女によると、従来「人格の同一性の問題」と言われてきたものには、「再同定の問い」と「特徴付けの問い」がごちゃ混ぜになっている。前者は、「ある時点tにおける人格が、別の時点t’においても同じ人格であるためには何が必要か」という形而上学的な問題で、後者はわれわれが日常的に(?)「その人の「アイデンティティ」は何か」という時に問題とするようなものです。そして彼女は後者の問題に取り組むために、人格を「自伝的な物語を形成することで自分の同一性(アイデンティティ)を作り出す存在」と考えます。
 しかし物語を持つことが、人間であるために(シェクトマン)あるいは道徳的な人間であるために(マッキンタイア)本当に必要でしょうか? 両方に反対するG・ストローソンの声が紹介されます。

私は、ある形式を有した物語として自分の生を感じることは全くない。全くといってない。私は、私の過去についての大きくて特別な興味も持たない。また、私は自分の未来についての大きな関心も持たない (Strawson, 2004)

ストローソンは、「その時その時の経験の主体としての自我」というものもあることに注意を促し、同時に、時間的に延長した自我に道徳的な意味合いを過度に込めることが、そういう生き方をしてない人に不必要な苦しみを与えることを危惧しています。

 そんなストローソンの自我論はどのようなものでしょうか? ここで2つ目の話題、「意識」への注目(現象的自我への注目)にうつりましょう。これまで人格の通時的同一性のために必要なもの(「再同定の問題」)として提案されてきたものには、人間の生物学的な有機的組織の連続性や、記憶などの心理的な連続性などがありました。しかしこれらの説を巧みな思考実験で退け、むしろ意識の統一性が重要だと論じる人々がいます。しかし意識の時間的統一性が自我に必要だと考えると、寝て起きたら自我は同一でなくなるのでしょうか? 意識の統一性に注目する一人であるデイントンは、睡眠中で意識経験が無くても、意識経験を可能にするシステム自体が存続していればいいのだと論じます(Dainton, 2008)。しかしこの主張にはやはり疑問が残るでしょう。一方、いやもう通時的統一性は自我には必要ないと論じてしまうのがストローソンです。ストローソンにとって自我はあくまで「経験」の「主体」であり、だから自我が個々の経験の時間以上に延長する存在である必要は無いのです(ミニマル・セルフ)。
 ここまで「物語」と「意識」に着目する自我論を見ましたが、著者は興味深い指摘をしています。それは、どちらに着目する人の中にも「自我は存在しない」とする人がいることです。例えば、デネットは物語によって紡がれる自我はむしろ「フィクション」だと論じますし(Dennett, 1992)、またメッツィンガーは自我は意識に現れるものでしかなく実体として存在する訳ではないとし、主観的経験を生み出す脳のプロセスのモデル化に乗り出しています(Metzinger, 2003)。

 しかしメッツィンガーとは異なり、脳内に自我の相関物を探そうという科学者もたくさんいます。と言う訳で3つ目の話題は脳神経科学です。まずゴールドバーグらは、「自己反省」を求める課題と「忘我的」に集中する必要がある課題との比較から、自己意識の相関物は上前頭回ではないかと論じました(Goldberg, et al. 2000)。また、自我を実感する状況として、「この身体を所有している」という感覚(所有者性感覚)に着目した科学者達は、体外離脱体験(これはビデオカメラやゴーグルによって実験的に再現することも出来ます)を研究することで、この感覚の相関物は側頭頭頂接合部であると示唆しています(Blanke et al., 2004; de Ridder et al., 2007)。しかし上前前頭はワーキングメモリ、側頭頭頂接合部は心の理論と関連する部位でもあり、これらの観点から実験結果を解釈することも可能であるため(Prinz, 2012)、相関物探索はなかなか難航しています。この難しさを強調する人は科学者内にもいます(Legrand and Ruby, 2009; Gillihan and Farah, 2005)。この困難の原因の一部は、自我に関する様々な概念を明確にするという哲学的問題の困難さに由来しているでしょう。

 しかし既にお気づきのように、以上のような議論の中で「自我」と言われているものは明らかに非常に多様です。では結局、そのうちどれがほんとうの自我なのでしょうか? 「何について考えれば、自我について考えていると言えるであろうか」と、読者に謎と挑戦を残しつつ著者は論稿を締めくくっています。