えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

イギリス観念論的モナドロジスト、ヒルダ・オークリーの時間実在論 Thomas (2015)

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/09608788.2015.1059314

  • Emily Thomas (2015). British Idealist Monadologies and the Reality of Time: Hilda Oakeley Against McTaggart, Leibniz, and Others. British Journal for the History of Philosophy, 23(6):1150-1168.

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Hilda Oakeley

 19世紀後半のイギリス哲学は観念論が支配していた。イギリス観念論と言えばブラッドリーに代表される「絶対的観念論」が最もよく知られている。しかし、絶対的観念論が個別の自己の実在性を否定する点には批判もあり、究極的には絶対者との統一を認めつつも個別の自己に実在性をあたえようとする「人格的観念論」(Seth, Sturt)や、さらに個別の自己に絶対的実在性をあたえるモナドロジー(Ward, Carr, Oakeley, McTaggart)といった別の潮流も存在していた。

 そんなモナドロジストのひとりがヒルダ・オークリー(Hilda Oakeley: 1867-1950)だ。1894年にオックスフォード大学に入学、ウォレス、ボザンケ、ケアードら絶対的観念論者のもとで学び(女性であるため学位は認められなかった)、マギル大学、マンチェスター大学で教鞭をとったのち、1907年にキングス・カレッジ・ロンドンで講師となり、[1931年に]リタイアするまで同大学で教えた。1940年にはアリストテレス教会の会長に就任している。オークリーは1920年代から自身の体系をモナドロジーとして特徴づけ始めており、これにはカーの影響があったと考えられる。

 オークリーの著作『人格の哲学の研究』(1928)には、実在は時間的であるという議論がある。この議論を見てみよう。まずオークリーによれば、ライプニッツの『モナドロジー』には二通りの解釈がある。一方で、神的モナドからの放射(流出)を強調すると、すべてのモナドは神的モナドと関係づけられ、一元論に接近する。他方、個々のモナドがそれ固有の認識的視点をもつことを強調すれば、多元論に近づく。前者の「一元論的」モナドロジーにおいて、自己は絶対者に依存するが、後者の「人格主義的」モナドロジーにおいては、自己は独立した個体である。オークリーは後者の解釈を進め、自身の形而上学の出発点とする。自己がモナドであるならば、〔モナドはその他のモナドを写すのであるから、〕形而上学は自己の知覚や経験から出発し、それらを説明するというかたちで進むはずだ。そしてさまざまな知覚の中には、時間経過の知覚がある。この知覚を説明するためには、実在そのものが時間的でなければならない(今日でいうIBEに相当する推論)。こうしてオークリーは、実在は時間的であるという結論に到達する。

 実在が時間的だという主張は、ライプニッツはもとより、当時のすべてのイギリス観念論者に反対するラディカルなものだった。実際例えば、オークリーと同じく自己をモナドとして捉え、形而上学は知覚を説明すべきだとも考えていたマクタガートは、しかし時間知覚は誤っているという説明を行っていた。マクタガートによれば、各項が推移的かつ非対称的な「包含関係」(inclusion)に支配されている包含系列(C系列)こそが実在のありかたであり、私たちはそれを時間系列だと誤知覚しているのだという。

 この議論に対してオークリーは一連の論文によって反論を行っている。オークリーの反論のポイントは2つある。第一の論点は、包含関係は時間に依存しているというものだ。包含関係にある2項は同一ではありえないため、もしAとBに包含関係があるならば、まずAとBが独立にあり、次にそれらが一体になる、ということが可能でなければならない。そしてこのためには時間が必要である。第二の論点は、包含系列では時間の経過の知覚を説明できないというものだ。なぜなら、時間経過の知覚は連続的なのに対して、包含系列は離散的で、項と項のあいだの経過なるものを含まないからだ。なおマクタガートはオークリーの反論の前に死んでいた(1925)ので、さらなる応答が実現することはなかった。

 時間の実在性の主張により、オークリーはイギリス観念論者の中でも特異な位置を占めている。さらにオークリーの議論は歴史的な文脈を超えて、モナド〔自己〕の知覚から出発しつつ時間を否定するあらゆる見解に対して問題を提起している。