The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology
- 作者: Jason Baehr
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
- 発売日: 2011/09/05
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- Baehr, J. (2011) The Inquiring Mind (Oxford University Press)
Ch.2 The Intellectual Virtues
Ch.4 Virtue and Character in Reliabilism ←いまここ
Ch.8 Open-mindedness
Ch.9 Intellectual Courage
【やること】「弱い保守的徳認識論」の擁護
- 知的徳は、伝統的認識論において二次的/背景的役割をもつ
- この章は信頼性主義に焦点
- 徳「信頼性」主義者は能力徳が知的徳だとするが……
- 信頼性主義者が知的徳に求めるものは性格徳も持っている
4.1 信頼性主義の認識論から性格徳が排除されている件
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- 徳信頼性主義者による性格徳否定の実例(1)Goldman (1992)
- 徳にふくまれるのは、視覚、聴覚、記憶、推論にもとづいて一定の推奨される仕方で信念を形成すること
- 実例(2)Greco (2002)
- 知的徳は信頼可能な「能力あるいは力」(知覚、記憶、理性……)
- 徳導入のポイントは哲学的問題(例えば、知識の本性)の説明にあり、性格徳はこれに役に立たないと(部分的には3章と同様に)論じることで、性格ベースの知的徳の構想を「強すぎる」と退ける。
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- この結論には、「性格徳が信頼性主義的な知識分析に関係ない」という含意はない(後述)。しかしグレコ自身は、性格徳が徳認識論的な知識の説明に関連する意味で「知的徳」であることを否定しているように見える。
- 実例(3)Sosa (1991, 2007)
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- ソーザには、性格徳が知的徳であることを支持する議論もある(後述)
- しかし、本人はそうは考えていないようだ。
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- 挙げられる知的徳の実例や、「徳」と「能力」を交換可能な形で使用する傾向
- 「入力出力デバイス」・「真理追跡的信念生成メカニズム」という徳の特徴付け
- 知的徳の行使によって生成された真なる信念を「動物的」「機械制御的」「隠喩的」知識と呼ぶ
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- 性格徳には選択や熟慮という行為者性の行使が含まれるはず
4.2 信頼性主義的な知識生産者としての性格徳
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- 信頼性主義者が知的徳に関して採用している形式的な構想
- 原理的には、性格徳は排除されていない。
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- 一般的:特定の状況で特定の命題に関して、真理に到達し過ちを避けるための信頼可能な手段であるような人間の性質
- 個別的(Greco, 2003):人が真理を手に入れたのはなぜかを最も良く説明する人間の性質
- 排除に根拠はあるか? ……何が問題なのかによる
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- 知覚・記憶・内観的知識など……能力がよく働いているだけok
- 歴史・科学・道徳・哲学などの知識……行為者性の関与が必要であり、知的性格特性の発揮によって真理獲得が説明されることがよくある。しかも、問題となるのが非常に重要な事柄である場合が多い。
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- 性格特性に着目しないと、知識の中でも最も重要なものを説明できない
- 徳信頼性主義者も、知的悪徳に関しては性格特性を排除していない
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- 当て推量・願望的思考・反対証拠の無視(Goldman, 1991)・性急さ・注意の欠如(Sosa)迷信(Greco, 2002)
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- これらは知的徳とされる認知能力の欠陥の産物というよりは、悪い知的性格の顕在化した状態
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- ではなぜ知的徳には含めないのか
- 徳信頼性主義以外の信頼性主義も、知的な性格徳の認識論的重要性を認める必要がある。
- 例:認知的行為者によって運用される信頼可能なプロセス・方法が認識論的正当化の源泉(see Goldman, 1981)
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- 知的性格徳の行使を通じた信念形成は、特定の信頼可能なプロセスの現実化や特定の信頼可能な方法の運用を含んでいる。
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- 徳信頼性主義者の反論
- 知的徳は、知識と真なる信念を分ける信頼可能な「源泉」として導入された。しかし、心の広さや知的な粘り強さ、注意深さは、信念の「源泉」ではない(少なくとも内観や視覚といった能力と同じかたちでは)。
- 信念の「源泉」というのは何なのか
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- 広い構想:信念の(顕著な)「原因」 …… 性格も入る(上述)
- 狭い構想:信念を非推論的に生産するもの …… これだと確かに能力を含めて性格を排除できる
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- しかし、徳信頼性主義者は狭い構想を採用できない
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- (1)「適切な推論」が知的徳でなくなる
- (2)「知識」の範囲が極めて狭くなる
- この反論のためには、能力徳と性格徳をハッキリ分けるような「源泉」の意味を見つける必要がある。
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- しかし両者は密接に関係しているので、このような区別はたぶんない
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- 性格徳の発揮は能力徳の働きにおいて顕在化し、またそれによって部分的に構成されている
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- 実際、能力徳の詳細な特徴付けの中で性格徳に言及しないのは難しい
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- Sosa (1991) :「大きな鋭敏さと周到さによって、内観の質を高め、その精度を上げることができる」:理性のサブ能力でありデフォルトの認知モードであるとされる「整合性探求」理性に対し、「説明の包括性をどんどん上げようとする「内的衝動」」という特徴づけ
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4.3 理論的反響
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- 信頼性主義は性格を考慮しなければならない。このことはどういう帰結をもたらすか
【論点1:信頼性主義のスコープ】
- 知識の所有者を機械論的で人格関係ない観点だけでなく、性格の観点から理解する必要性
【論点2:徳認識論の一般的構造】
- 「信頼性主義 vs 責任主義」という対立は、扱う徳の種類が違うという対照的なものではありえなくなる
- 「能力徳と性格徳両方を組み込むものとしての信頼性主義」 vs 「性格徳だけにかかわるものとしての責任主義」
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- ※性格徳は能力徳において顕在化するのでこの区別もそう深い区別ではない
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【論点3:信頼性主義への理論的含意】
- 性格徳の信頼性は能力徳の信頼性と同じようには説明できないため、以下のような点をあきらかにする理論的作業が必要となる
【A】性格徳の信頼性は特定の命題領域に相対的か?
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- 個々の能力徳の信頼性は、それぞれ別の「命題領域」に相対的
- 例:聴覚……音にかんする命題では信頼可能/形については不可能
- 性格徳では明らかに事情が異なる
- 一般的に言えば性格徳は「高次の」知識に関わるが(上述)、このことは「個別の」性格徳に関連する命題領域について何も言わない。
- 何故なのか:性格徳がある命題領域に適応可能かどうかは、問題となる人や状況の偶然的性質に強く依存している
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- 例:自由思想社会における自由思想的個人 vs 情報検閲社会におけるおずおずとした人。同じ真理を手に入れるのに前者では注意力が、後者では勇気が必要。
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【B】性格徳はどのような環境条件で信頼可能か?
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- 能力徳の信頼性は、特定の環境条件に相対的
- 例:視覚……まわりが明るいと信頼可能/闇では不可能
- 性格徳も環境条件に相対的だが、その条件は能力徳に関連するものとはカテゴリーが違うように思われる。
- 性格徳は、周りが明るいとかノイズが少ないとかの状況では「不必要」
- むしろ性格徳は、真理が手に入りにくい状況——往々にして能力徳の信頼性が落ちるような状況——で信頼性をもつ
【C】諸性格徳の「統一性」は具体的にどのようなものか?
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- 能力徳とは異なり、性格徳は他の性格徳と一緒になった時にはじめて信頼可能になる場合が多い。
- 例:心が広いだけではダメで、議論への執念や注意深さなどが加わらないと信頼性は高まらない
- また、一つの徳の所有に別の徳の所有が必要となる場合もある
- 例:真に知的にフェアになるためには、注意深さ、忍耐も必要
【D】認識論を特定の信念に適応する際の問題
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- 個別の信念の正当化を説明するためには、関連する徳に関して十分特定的な特徴付けが必要となる。
- この応用の側面でも、ここまでの論点が再び問題となる
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- 性格徳の信頼性には命題領域や環境条件といったパラメータが(どの程度)寄与するか?
- 性格徳の統一性はどのようなものか?
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- なお、以上のような理論的問題・課題は、上述のように信頼性主義「一般」にとって問題である
4.4 結論
〔省略〕