- 作者: J.L.マッキー
- 出版社/メーカー: 晢書房
- 発売日: 1990/10
- メディア: 単行本
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- マッキー, J. L. (1977) [1990] 『倫理学―道徳を創造する』(高知健太郎他訳 晢書房)
- 第三章 義務と理由 ←いまここ
- 第六章 功利主義
- 第九章 決定論・責任・選択
1.「である」(is)と「べきである」(ought)
- ヒューム「「である」から「べき」に移行する人が多いが、「べき」は新しい関係を表現しているのだから説明が必要だ」
- 「べき」が新しい関係を導入しない例もある
- ゲーム
- ルールや、勝とうという欲求に関する事実 → べき
- 仮言命法
- 欲求と関連する因果関係に関する事実 → べき
- ゲーム
- しかし、道徳にかんする「べき」は新しい関係を導入している……?
- 「べき」が新しい関係を導入しない例もある
- サールによる「である」から「べき」導けるよ論証
(1)ジョーンズは「スミス、私はこれをもって君に5ドル払うことを約束する」という言葉を口にした。
(2)ジョーンズはスミスに5ドル払うと約束した。
(3)ジョーンズは自らをスミスに5ドル払うという義務の拘束下においた(もしくは義務を引き受けた)。
(4)ジョーンズはスミスに5ドル払う義務の下にある。
(5)ジョーンズはスミスに5ドルを払うべきである。
-
- 〔言語行為によって導入される〕「制度的事実」によって、「である」と「べき」は架橋される。
- しかしこの説明は、約束という制度の「内側から」の語りと「外側から」の語り(人類学者の語り)を混同している。
- (5)を外側から読むと一般的な論理学的推論により論証は繋がるが、この場合(5)は指図的ではないのでヒューム倒せない
- 他方内側から読むと、(3)に移行が隠れていることがわかる。(2)からは、「ジョーンズは自らをスミスに5ドル払うという義務の拘束下におこうとした」〔=事実言明〕しか出てこない。(3)〔=規範言明〕を帰結するには、約束という制度の内部からその規則に訴える特殊な推論を行う必要がある。
- (1)—(4)から(5)が導出されないと言う点は、(5)が〔どういう意味で指令的なのか〕2つの解釈を考えるといっそう明らかになる。
- 【A】(5)は「客観的価値」を表明しているから
- そうだとすると、そのような客観的価値が特定の状況や制度に関する事実から導きだせないことは明らか。
- 【B】ジョーンズは(5)を承認しないわけにはいかないから
- ジョーンズが「スミス、私はこれをもって……」という時、彼はこの制度の遵守にコミットしたのだから、結論を拒否する事は一貫性を欠く事になる。〔従って、(1)—(4)から(5)は導出さている〕。
- この反論は3つの論点を混同している。
- (a:仮言命法)ジョーンズが約束の制度からの恩恵を保持したいなら、約束は守るべきだ
- (b:発話時の承認)ジョーンズは(1)の時点では制度を承認した。したがって制度の内部から語り、未来の時点での(5)に従う用意がある。
- (c:発話時の承認により、もはや承認しない場合にも制度の効力は残る)ジョーンズは(1)の時点で制度を承認した。このときジョーンズは、約束の制度を支払うべき時までずっと承認し続けることにコミットメントしているのであり、(5)を否認する事は論理的一貫性に欠ける。
- aとbは正当だが、ヒュームには無害である。cはヒュームにとって脅威だが、正当ではない。
- というのはcは結局、「ある約束が効力を持つのはその約束が効力を持つと約束したからだ」という循環的正当化しか行っていない。
- 従ってジョーンズが(5)を否定する場合、〔心が変わったという意味では一貫していないが〕、論理的に一貫していない訳ではない。
- 【A】(5)は「客観的価値」を表明しているから
- こうした反論に対しサールは、「内部」と「外部」という区別を批判した。この方法を言語のある場所で採用するならば、全ての場所で同じ方法を適用せざるを得ず、あらゆる議論が成立しなくなるという。
- しかしそんな事は無い。「約束」というのは他の言葉が共有しない特殊な論理的背景を持っているからだ。
- 従って、サールに代表されるような「である」と「べき」の架橋は、ヒュームの法則の「まともな」解釈にとっては問題にならない。
- しかし、この法則の通俗的な定式化は誤解を招きやすい。というのは、事実言明から価値言明を導きだす事は内部的視点からのみ可能だが、この内部的な視点は日常言語の中に組み込まれてしまっているからだ。
- 事実的/評価的という区別は与えられるものではなく、分析の結果見いだされるものでなくてはならない。メタ倫理学の中心的問いは価値や要件が客観的か否かと言う点にあり、道徳概念・言語の分析にはない。
2.「べきである」の意味
- とはいえ、以上の議論を強めるのに「べきである」(ought)のより精確な探求は役に立つ。ここでも、道徳的用法とそれ以外に用法で同じ意味を仮定する事が出来る。とくに道徳以外の用法として「認識的べき」がある(「この薬は効いていてしかるべきだ」)
- 「aはGする理由がある」……「aはGするべきだ」におよそ等価な表現
- 別種の用法には別種の理由が対応すると考えられる。
- さらに語源による説明:oughtはowe(借りがある)に由来する
- 〔返すべき〕お金が紐づけされているイメージ。同じ比喩は「義務」にも含まれる。義務は縛り付ける。
- ただし、「ねばならない」(must)とは違い、「べき」は完全に拘束する訳ではない。「半ばの拘束」。
- そうすると、「べき」の様々な用法は、「理由があること」あるいは「半ばの拘束されていること」という観念がどう実質化されるかに対応する。例えば、
- 主体の欲求が、何らかの行為をする理由、それへの緩い拘束を生み出す(仮言命法)。
- 制度が生み出す
- 上述のように制度が「べき」を生み出すのは内的に見た時だけなので、「べき」によってその制度を是認する本人の態度が表現されることもあり、この態度が理由の一部を構成する時もある。
- 「べき」は三人称的に使われる時もある。とはいえその時でも、純粋に自分の態度だけではなく別種の理由が指示されているのが普通である。ちなみに「ねばならない」の場合は完全に自己中心的な用法があり得る。
- さらに、一節で見たように、内在的な要件が存在すると信じ込まれている。そして「べき」がこの想定上の内在的要件に言及する場合には、この「べき」はことさら「道徳的」と呼ばれる。
- とはいえ、この場合でも「べき」の基本的意味は変わらない
- 既に見たように「ねばならない」は「べき」よりも強いが、基本的には同じような意味を持つ。
3.理由の多様性
- 「aはGする理由がある」……「aはGするべきだ」におよそ等価な表現
- すると、「何が理由と見なされるか」を明らかにすれば人々が何を為すべきか決定できるように思われる。
- 「何が理由と見なされるか」……
- 【i】「仮にGすることが、aが現在抱いているある欲求や目的や理想の成就へと導くものであり、その上aがこのことを知っているならば、aにはGする理由がある」……これはよい
- では、【ii】「aがこのことを知らない場合」、あるいは【iii】「実際のところGではなくHによって成就するのに、Gで成就すると信じている場合」、Gする理由があると言えるか?
- 普通に言ってどちらでも言える。
- そうすると【iii】のような状況では、aはGすべきともHすべきとも言える〔【ii】による〕。内在的要件を想定する人は、事物の本性からして行うべき事はどちらかだと考えるかもだが、その想定が無ければ争う事は何も無い。
- 〔プルーデンス的理由と利他的理由が導入される〕
- 将来ある欲求を持つ事が分かっており、現在Xすることがその成就を導きそうな場合、(しかもそのXは現在のいかなる欲求も成就しそうにない場合)、人にはXする理由があるか?
- ある、と言える。ただしその時には、人格の通時的同一性概念と、それに関連して、異なる時点間で人の欲求はそう変わらないだろうという予想に依拠している。
- ここで人格の同一性は、約束の制度と類比的な働きをしている。
- 他人の欲求(特に苦しみを取り除くもの)が分かっており、Xすることがその成就を導きそうな場合、(しかもそのXは私のいかなる欲求も成就しそうにない場合)、人にはXする理由があるか?
- ある、と言うならば、ここでもやはり制度的な何か(他者を助けるという制度)が導入されなくてはならない。
- 将来ある欲求を持つ事が分かっており、現在Xすることがその成就を導きそうな場合、(しかもそのXは現在のいかなる欲求も成就しそうにない場合)、人にはXする理由があるか?
4.制度
- 制度とはもうちょっと一般的に言うとなんなのか
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- チェス等のゲーム、約束を中心とした社会的慣習、人格の通時的同一性とそれに関連する観念……
- 制度はかなり規則的な行動をする多くの人々からなる。制度への参加者は行為規則・原理を明瞭に定式化し、これによって自分達の行動を導き、また違反を非難する。こうした規則と密接な結びつきを持ち、これを参照しなければ理解できないような概念が参加者によって用いられる。こうした概念によって規則を部分的に定式化する。
- 制度の要件とは、チェスのルールのような抽象的な規則の規範的な内容だけでなく、実際に要求・非難・矯正・促進される様々なものを指す。こうした要件は人々の思考、行動、感情、態度からなる。
- 制度は「設立」される必要は無い。慣例から生じるものもある。
- 約束、そして約束を守る義務は、約束する人の意図の言明や、約束相手の欲求の言明によって作り出されるのではない。さらに信頼とか予想とかが加わり、そしてそれらが社会全体の期待、是認、否認、要求に埋め込まれ強化されたところに、約束という制度が出来る。
- こうした態度の複合体がどのように生じてきたのかは5章で扱う。とはいえ、いかなる発生過程をとろうと制度〔が果たす論理的役割は変わらない〕
- あらゆる行為の理由、そして多くの「べきである」は制度的なものである。広範に行き渡った制度が、内在的欲求なる観念を生み出してしまうのも不思議ではない。
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