えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

【長い版】ヴィクトリア朝時代初期のポピュラーサイエンス O’Connor (2007)

The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856

The Earth on Show: Fossils and the Poetics of Popular Science, 1802-1856

ポピュラーサイエンス

  • 1. 1832年6月23日、バックランドはオックスフォードの講堂で、メガテリウムの化石をみせて講義を行った。バックランドはメガテリウムの日常を活写し、骨盤を通り抜けさせるなどのパフォーマンスをみせた。オックスフォードにはバックランドの劇的な調子を嫌うものもいたが、これは古生物学を人々にアピールする良い方法だとバックランドは分かっていた。
  • 2. 講義の聴衆は大学関係者ではなく、当世風の男性、そして(驚くべきことに)女性だった。1831年に創立された英国科学振興協会(BAAS)は、宗派の障壁を超えて中流〜上流階級人々を統一する文化的リソースとして科学を用いようとしており、32年に会長に就いたバックランドによる見せ物の使用は、大衆の注目を狙ったものだった。
  • 3. このように都市部で科学ソサイエティが成長し、上位の医科大に化石博物館がおかれる(図5.1:王立外科医師会の博物館)一方、既に地方でも、独自の図書館、博物館、講義プログラムを具えた中流階級のソサイエティや哲学的機関のネットワークが栄えていた。これらは17世紀後半以来、経営者、資本家、技師、商人に科学的知識を供給していたたが、1820-30年代には地方の地質学実践の盤石な基盤として機能した。BAASの成功はこうした組織に基づくとともに、そこへとフィードバックされた。
  • 4. またこうした組織の活動は出版業界を潤した。1825-26年の不況以来新しい小説の出版に慎重になった業界は、ノンフィクション、特に科学と「有用芸術」にかんする定期刊行物に着目し、15-30年の間に科学的な提起公刊物の数は3倍に増えた。ここで地球史が果たした役割は大きかった。
  • 5. 44年の『創造の自然史の痕跡』の影響もあり、ロンドンの注目は地質学から種の変化へ移りつつあった。しかし相変わらず化石は議論の的だったし、地方では50年代に入っても地質学は晩餐会上の話題であり続けた。
  • 6. 19世紀後半には、地質学は進化に関する著作と融合していく。しかし自然神学や、種は各個バラバラ創造されるといった古い枠組みは、ポピュラーサイエンス市場の主流にはだいぶ長く残り続けた。
  • 7. ポピュラーな著作の内容には大して新味はなかった。旅行記、自然史概説、聖書研究、自然神学的論稿……。小説との対比、巨大な怪物の描写、民間伝承との類比、詩の引用、過去の活写など、古い手法がまだ使われた。
  • 8. しかしこうした技法は20年の地質学論稿には殆ど見えず、30年以降に急増したものだ。特に言語による太古の写生は、絵画的な復元が増加したことを反映してより洗練され、真面目なものなった。ただし、ほとんどフィクションが語られることもあった。
  • 9. この対比はマンテルに顕著に見える。20年代の著作には1ページほどの風景描写しかないのに、38年の有名な『地質学のふしぎ』では9ページに亘ってサセックスの風景の変化を描いている(表紙にはマーティンの図7.6)。
  • 10. 〔太古の光景に関する〕この新しい確信はどこから来たのか? 新しい化石の発見や、マンテルの能力向上以上のものがある。ポピュラー地質学著作を巡る環境自体に何らかの変化が起こっている。
  • 11. 一つのモデルはこうだ。<ナポレオン戦争以降、科学は中流〜労働者階級をも対象にせねばならないとリベラルな教育者は主張した。そのためには科学は人々を魅きつけ、かつ学びやすいものでなければならない。地質学のような新しい学問は専門化し学びにくくなる科学にとっての例外であり、「専門家」から「聴衆」に与えられる「理性的娯楽」としてのポピュラーサイエンス概念が生まれた>。
  • 12. しかしジェントルマン達の自足的な研究方針は、彼らを引用する著作家の目論みとは必ずしも合致しなかったため、このモデルは綺麗には働かない。
  • 13. とはいえ、著作家とジェントルマンはともに、読者を新しい知の領域に導く「教育」の必要性を強く感じていた。そして修辞的なスタンスは確かにそれにフィットする。大衆教育が大きく強調されたことが、見せ物展示のレトリックを地質学という分野の中心に押し出したのだ。本書のこれ以降では、こうした修辞がどのように持続していったかを見ていく。
  • 14. 30年以降は資料も多く、またこれまでの主題が多岐にわたって再び現れてくる。このため、第二部は主題的に資料を扱うことにする。
  • 15. 地質学の初期の大衆化に最も成功したのはおそらくヒュー・ミラーであり、53年の彼の突然の死が本書の最終地点となる。ここまでの約半世紀の革新が、今日の本や映画を支配する地球史の複合的なヴィジョンを作り出したのだ。
  • 16. 今日の読者がヴィクトリア朝の地球史に目を向けると、「再認」の驚きを憶えるかもしれない。しかしそれはミスリーディングだ。半分事実で半分虚構の古代生物というのは今日の世界観にはおなじみだが、当時は当たり前のことでは全くなかったからだ。
  • 17. 当時、地質学のアイデンティティは固定されていなかった。次節では、人々が様々な相対立する地質学に直面することになったという点を見ていこう。

様々な地球史

  • 1. 1830-40年代、地質学は地球史に関して統一的見解を与えるようなものではなかった。30年にライエルは新しい地質学の認知度を上げたが、その見解は定向性と大洪水を否定する点で標準的ではなかった。しかし前進主義者内でも、洪水現象や地層の境界に関して大きな解釈の違いがあった。
  • 2. 例えばマーチソンは彼の「シルル系」を、上のカンブリア系(セジウィック)および下のデボン系(デ・ラ・ビーチ)から守ろうとし、この論争は地質学協会内でもBAASの公開討論でも争われた。
  • 3. もちろん、地球がおそらく数百万年に出来たこと、化石のトカゲは人間の出現以前に絶滅したことなどは同意点だった。また地質学協会内では種の個別的創造は同意されていた。しかしこれは協会の外では疑問視された。地球史がいかに混乱していたか、保守と急進両極を見てみよう。
  • 4. 20年代の聖書直解主義者は、30年代には聖書の科学上の権威を否定する「古い地球」の科学を無視できなくなっていた。こうした保守派の恐れはBAASの成功によって確証されることになる。
  • 5. 30年代には、直解主義者達は説教や講演や論文等で新しい理論に反対し、ラディカルな福音主義が根付きつつあったアメリカ中流階級に聴衆を見いだした。しかし、こうした新しい直解主義の波は以前と同様社会的にも専門性でも多様な人々からなり、一つの学派や運動の形成には至らなかった。
  • 6. 新しい地質学側の聖職者地質学者やBAASは激しい非難を浴びた。これには、世俗的な「科学の宗教」に反対する英国カトリックの聖職者集団、「オックスフォード運動」も加わった。
  • 7. 他方の極には、前進主義を種の変異の理論の基盤とするもの達がいた。変異主義は、その反奇跡の姿勢と、<自然の体系に上向きの動きが組み込まれている>という含意から、急進的政治や理神論的反聖職者主義と強く結びついていた。
  • 8. 種の変異を19世紀英国に大きく導入したのは、44年にチェンバーズが書き匿名出版された『創造の自然史の痕跡』だった。自然諸科学から単一の「発展」の議論を織り出すこの著作は、創造の役割を第一原因に切り詰めた。より過激な者は、『理性のお告げ』などの週刊誌上で神を無みして唯物論を支持した。
  • 9. 専門家でない『痕跡』の著者が大理論を作ることは、新しい科学的権威モデルへの暗の挑戦だった。「編纂者」は専門家に敬意を払うべきであり、自ら思弁するものではない。この不合理性から著者は女性だと疑われた。この点は直解主義者も同様であり、例えばマリー・ロバーツの『創造の進展』は議論無しにキュビエのマストドンの分析を退けるし、ジェントルマンの著作への参照ない。彼女は新しい「専門家」概念を攻撃したというよりはそれに気づいておらず、18世紀の公開討論モデルを保ち続けている。『痕跡』はさらに匿名という点でも科学のエチケットに反していた。
  • 10. 両極の主張は大衆の注目を集めた。BAAS攻撃の突端だったコックバーンのパンフレットは、攻撃対象の贅沢ですぐ改訂する著作に対しわずか6ペンス。また保守派の説教は記録されていた。6ドル2セント(=42$)の『痕跡』も47-51年で3000部売れたし、より安い変異主義の著作もあった。
  • 11. 大衆性を保つべく、両陣営は科学のイメージ喚起力を利用した。「化石人」の視覚的表象は急進派から出てきた。『痕跡』も視覚に訴える語り方やメタファーを用いる。出だしの「我々の住む地球……」は言葉の太陽系儀であり、マンテルの『地質学のふしぎ』で喚起され、ド・ラ・ビーチの『理論地質学』で絵画的に示されていたものだ(図9.9)。チェンバーズは以前の地質学者による大衆化の上で見せ物を構築していたのだ。
  • 12. 直解側もイメージ技法を使ったことはあまり把握されていない。直解主義者は20年代にはこうした技法のパイオニアであったし、新しい地質学の出現後も自らの言葉で地質学を売り込んでいた(だから彼らを「反地質学者」と呼ぶのは不適切だ)。直解主義者達は創造の6日間を物語の壮大な枠組みとし、新旧の詩を引きつつ地理学、天文学、自然史について様々な逸話を語った。また例えばロバーツの本には、月の風景(図9.8)や世界を創造する神の図(図9.7)が含まれている。
  • 13. より論争的著作でも見せ物展示の修辞は見られる。例えばジョージ・フェアホルム、サミュエル・ベスト、メラー・ブラウンらは、想像力の使用に警戒しつつも、太古の光景を心の眼の前に提示すべく視覚的な表現を熱心に用いていた。さらにはヴィクトリア朝ポピュラー地質学の証明書たる絶滅動物の絵画的復元も、W・エルフ・テイラーなど一部の後の直解主義者はよく用いていた(図5.2)。テイラーの『地質学:真実と噓』には論敵たるミラーの著作から剽窃した版画がちりばめられている。
  • 14. 「古い地球」派から盗んでばかりではない。例えば、創造を「パノラマ」として描く技法や、『ガリバー冒険紀』により「原始時代」の植物の巨大さを喚起する技法は、普通は40年代のミラーに結びつけられるが、実はシャロン・ターナーの方が先にやっている。ミラーは地質学詩の偉大なパイオニアだが、彼も30年代の直解主義による大衆化に縛られていたのだろう。
  • 15. この連続性を考慮すれば、両派の権力闘争の審査員はまさに大衆の想像力であった。フェアホルムは直解的な「新しい地球」理論の利点として、スムーズな物語により人心を満足させる点をあげた。一方でBAASも<科学は公的で、明確で、見えるものでなくてはならない>という理念を掲げており、可視性を強調するあまり人々の眼をキリスト教の不可視の真理から逸らすとかえって批判されていた。1850年、ローマカトリックのジョン・ヘンリー・ニューマンは、地質学人気の根拠を想像力への訴えによって人々を熱狂させた点に見たが、59年の説教では正しい「豊かな生」を示して人々を別様に熱狂させようとした。見せ物の時代である。
  • 16. 論敵を攻撃する場所は最大の効果を狙って慎重に選ばれた。BAASや哲学的機関、そしてロンドンの知的エリートに関連する定期公刊物のレビュー論文では、「古い地球」が支持された。また新しい話題が取りざたされる度、個々の新聞や刊行物はすぐさま自らのスタンスを示していった。
  • 17. 定期刊行物と教会、この2つのネットワークはヴィクトリア朝時代における知識形成の要点であり、特定宗派のジャーナルが急成長することで互いに結びついた。30-50年代において、創造の歴史は読者層を定義する重要なトピックの一つだった。編集者と購読者に多くが懸かっていた。
  • 18. 編集者は読者を誘導するために巧みな戦略を用いた。例えばサミュエル・ウィルクスは『キリスト者の観察者』紙上にフェアホルムを登場させつつも、彼の新しい地質学批判を豊富な補足の追加によって弱体化させようとした。
  • 19. このような誘導があったものの、<この論争は「最も教育を受けた人」の間ではヴィクトリア時代初期に既に決しており、直解主義は周辺に留まった>などと言うことはできない(pace, Lynch, 2002)。30年代中頃にようやくスタンスを決めた公刊物もあったし、両派の違いにはあまり興味を示さない著作家もままあった。また、一般向け解説書も諸派の著作を同時に奨めるなどしていた。境界はまだぼやけていた。
  • 20. それどころか、多くの著作家はどちらの派閥にも属していなかった。
  • 21. 「地球の理論」は全然死んでいなかった。『創世記』1章の簡潔すぎる物語のギャップを埋める方法は色々あった。例えば、<化石はアダム以前の世界の遺物だが、そこに住んでいた理性的生命はそれ自身の審判の日に高次/低次の領域で復活したので、人間様の骨は残っていない>という説をミラーは報告している。古生代にアダム以前の人がいた、メガロサウルスは人を食べたといった説からは、30年代には地球史に関する確固たる世俗的な合意はなかったことが伺える。この合意は、科学的権威や科学的「定説」の新しいモデルとともに、科学のジェントルマンによってまさに構築中だったのであり、同時に反対者によって攻撃され、その他の著者からも意図的か非意図的か台無しにされていた。
  • 22. なおポピュラーサイエンス出版は儲かるため、時代遅れの古い著作も再版され、混乱に拍車をかけていた。

結論

  • 1. 初期ヴィクトリア朝時代のポピュラーサイエンスは全く整合的で安定的な場所でなく、戦場かつ市場だった。どの説も大衆化を求めつつ存続していたのであり、新しい専門家モデルの擁護者には、直解主義の著作に罵詈雑言を吐くより古い地球説を解説した方が社会のためだという教訓を引き出したものもいた(匿名(1830))。
  • 2. 直解主義と『痕跡』は「専門家」に対する両極端からの挑戦であり、『痕跡』に関しても類似の教訓が引き出された。『痕跡』が人々を魅了するのは、冷たくテクニカルでマニュアルな科学の教授が嫌われる時なのであり、平明でリーダブルで包括的な言葉を使わねばならない(エドワード・フォーブス(1851))。しかしこの言を、以前の「教授」が大衆化をしなかったことを示すものと受け取ってはならない。大衆化の高まりがなければ『痕跡』も書かれなかったのであり、フォーブスらは科学の人も大衆化をさらに増すように言っているのである。
  • 3. こうしたコメントには、教訓を生かせばナチュラリストは人々を哲学の欺きから救えるという楽観的含意がある。「真理の前に虚偽は退く」という訳だ。しかし実際のところ、ヴィクトリア朝時代にあらゆる真理が大衆に利用可能となったことは、相手を黙らせるどころかかえって刺激することになった。新しい科学は2正面で戦わなければならなかったのだ。従って、地質学の人気獲得について調べる時は、自称科学エリートだけではなく、当時の大衆の注目を集めようとしていた全ての声に耳を傾けなくてはならない。