えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

口火を切られた唯物論論争 Beiser (2014)

  • Beiser, F. (2014). After Hegel: German Philosophy, 1840–1900. Princeton, NJ: Princeton University Press. 

・第二章 唯物論論争(1−2←いまここ/3−4/5−6/7

 近代の自然科学は必然的に唯物論を導くのか。この点をめぐって争われた「唯物論論争」は、19世紀後半において最重要な論争のひとつだ。唯物論は神や自由意志、魂の不死を否定すると解されていたから、この論争は理性と信仰の衝突という古い問題の最新版だと言える。同じ問題をめぐっては、70年前に「汎神論論争」が争われており、この論争はヘーゲル主義によって解決されたはずだった。その解決の鍵は、合理性の模範である弁証法によって神への信仰にたどり着くというアイデアだった。だが弁証法は、1840年代にはその魅力を失った。一方では哲学者からの批判が募ったと共に、他方では科学の発展により観察と実験こそが合理性の模範となり、生命や心までもが科学の対象になりはじめた。こうして、理性と信仰の衝突という問題が息を吹き返すことになったのだ。

 唯物論論争は二つのフェーズがある。第一期(1854年から1863年)の論争は、観念論者と唯物論者の哲学的争いである。1863年にヘッケルが有名な講演「ダーウィンの進化学説について」を行うと、論争は自然選択説に焦点を当てた第二期に入る(1863年から世紀末)。本章は第一期を扱う。


 1854年9月18日、ゲッティンゲンの生理学研究所の所長であったルドルフ・ヴァーグナー Rudolph Wagner は、ドイツ科学者・医学者協会31回大会で開会演説「人類の起源と霊的実体」 Menschenschöpfung und Seelensubstanz を行った(数日で急ごしらえした演説だった)。ヴァーグナーは、科学研究は人類の起源にかんする聖書の教えを論駁していないという見解を明らかにすると共に、唯物論に傾き魂の不死を否定する生理学者に対し、そのような考えは道徳的・政治的秩序を破壊するものであると警鐘を鳴らした。この演説は激しい議論を呼んだ。加えてヴァーグナーはすぐさま小冊子『知と信』 Ueber Wissen und Glauben を出版し、信仰と科学の二重真理説を擁護した。

 この演説に反応した一人が、若きジャーナリストで卓越した科学者でもあるカール・フォークト Carl Vogt だ。左翼で革命活動に従事していたフォークトは、ドイツの体制側特に大学を敵視しており、自著『図解動物誌』 Bilder aus dem Thierleben でヴァーグナーをとりあげ、信仰によって科学研究を狭めていると批判していた。これに対しヴァーグナーは件の演説でフォークトを引用し、これを唯物論と批判したのだ。そこでフォークトは1855年に『妄信と科学』 Köhlerglaube und Wissenschaft を著し、ヴァーグナーの道徳的・知的誠実性を攻撃すると共に、科学と信仰の領域の区別に批判を加えた。地理学と解剖学が示す人類の多様性から考えれば、人類が一組の祖先から出てきたとは考えにくい。また地球と人類の年齢についての聖書の誤りは、地質学から明らかだ。さらに生理学は意識が脳に依存していることを示しており、魂の死後存続はありそうにない。こうした事実に照らせば、不死のような宗教的信念は迷信にすぎない。

 ヴァーグナーとフォークトの論争は哲学的であると同時に政治的であった。ヴァーグナーは摂理と不死を擁護することで、君主制に正当性を与え、「脱キリスト教化された大衆」を制御しようとしていた。一方、そうした信仰を取払って民主的秩序を実現することこそがフォークトの狙いだったのだ。

 かくして唯物論論争の口火は激しく切られた。『妄信と科学』と同じ1855年には、より体系的な唯物論的著作である、ハインリッヒ・ツォルベ Heinlich Czolbe の『新説感覚主義』 Neue Darstellung des Sensualisms とルートヴィッヒ・ビューヒナー Ludwig Büchner の『力と物質』 Kraft und Stoff があらわれ、唯物論的な世界観の基本的原理が出そろうことになった。

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