えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ミルウィウス橋論法:進化は人間の認知能力にどう影響するか Griffiths and Wilkins (forthcoming)

http://philsci-archive.pitt.edu/5314/

  • Griffiths, P. and Wilkins, J. (forthcoming) When do evolutionary explanations of belief debunk belief? Darwin in the 21st Century

  <進化は適応を追跡する過程であり真理を追跡する過程ではない>。このことから、進化の産物である人間の認知能力も真理を狙うように出来てはいない、すなわち信頼できない(さらにその産物である信念も正当化できない)という懐疑的論法、進化的暴露論法があります(Kahane, 2011 も参照)。この議論はどのくらい有効でしょうか。
 ところで時は310年10月27日、ローマ帝国の支配権を巡ってマクセンティウスと対峙したコンスタンティヌス一世は、開戦前夜に神から勝利の啓示を受け、翌日ミルウィウス橋で行われた戦いではラバルムを旗印として掲げたと伝えられてきます。そしてコンスタンティヌス一世がこの戦いに勝ったのは、彼の信念が正しかったから――つまり彼には本当に神の加護があったから――だと、キリスト者には信じられています。
 これにあやかって、「信念が正しいので実践的成功を収めたのだ」という論法一般を「ミルウィウス橋論法」と名付けましょう。今問題にしたい「成功」は進化的な意味での成功です。進化的暴露論法に対抗すべく、我々の様々な信念と進化的成功の間にミルウィウス橋を架け、進化は真なる信念を持つ個体を生み出したはずだと論じることは出来るでしょうか? 著者らの見解は、常識的信念および科学的信念はおk、倫理的信念は微妙、宗教的信念はダメ、です。

常識的信念の場合

  まず著者が注意を促すのは、<適応を追跡する過程であること>と<真理を追跡する過程であること>を対立物として扱うのは単純に間違っていると言う点です。<真理を追跡すること>は、<適応を追跡すること>の一特殊事例であり、両者は説明のレベルが違うからです。
  その上で著者らは、確かに人間の認知能力は真なる信念を生産するのに結構失敗するが、それは人間の認知能力が真理を追跡する過程ではないからではなくて、一定の制限内で真理を追跡するからなのだと論じていきます。
  制約の例としてはまずコストがあります。例えばヒューリスティクスは、真理以外の何かを手に入れる方法では決してなくて、低コストで真理を手に入れるための方法なのです。第2に「認知的課題の内的な論理的構造」に由来する制約があります。例えば、不確実性下で選択しなければいけない個体にとっては、何らかのリスクを受容することなく成功を収めることは不可能です(この点を、信号検出理論を基に論じたものとして Godfrey-Smith, 1991)
  そうすると結局、進化的に最善な「真理の追跡」とは、一定のリソースの中で可能な限り、トレードオフ関係にある真理を増やし誤謬を減らすことだと言えます。そして、ムーアの言うような常識的信念が、この意味で「真理を追跡」するような認知的適応の産物であることは大いにありそうだと著者らは提案し、常識的信念と進化的成功の間にミルウィウス箸をかけるのです。

その他の信念の場合

これに引き続いて、以下のような論点が提出されます。

  • 進化が追跡する常識的真理は、その生物の環世界における真理であること。
  • 人間は進化的に獲得された概念図式を超えて、科学によって認識する。このため、科学的真理と実践的成功の間に直接的なミルウィウス橋はかけられない。しかし、科学的信念に至る方法の正当化に常識的信念が用いられるので、間接的な橋を架けることは出来る。
  • 道徳的信念の暴露論法にはトラックすべき対象が存在するという仮定、すなわち道徳的実在論が必要だ(see Kahane, 2011)。しかし道徳性の進化的説明の多くはこの仮定を共有しない。このため、道徳的実在論者にとっては架けるべきミルウィウス橋はない。道徳的実在論者でなければ暴露論法は関係ない。
  • 宗教的信念を進化的に説明する際には、その真理性を実践的成功に関連る人はいない。このため、架けるべきミルウィウス橋はない。